6-2.贄の、華。
イルガルデ要塞は、古代、女神シェタルーシャと悪竜ユランが戦い合った場所の一つとされている。人間の力を借りた女神と、魔獣を従えた悪竜の争いは苛烈を極め、舞台となったそこはすでに廃墟だ。
設置されていた弩弓や投石器は朽ち、壁も崩れ去り、今は人も寄りつかない。
夏とはいえ夜は冷える。風も冷たい。色褪せたタペストリーが揺れ、瓦礫の一つが大きな音を立て、落ちていく。
――そんな遠くの音で、ヴィクリアは目覚めた。
「ん、んん……」
まぶたをゆっくりと開ける。ぼやけた視界の中、鮮やかなのは何かの赤色だ。頬が冷え冷えとしている。頭痛が少し、した。鉄臭い匂いもする。
こめかみを押さえて体を起こした。どうやらずっと床に横たわっていたらしい。頭が回らず、今、自分がどこにいるかで一瞬悩んだ。
『ヴィクリア』と自分を呼ぶ、柔らかな声音が脳裏によぎる。
「っ……!」
それはオルニーイの声だ。とっさに上半身を起こし、目を閉じ、両手で耳を塞ぐ。
最低なことを言ってしまった。「次に会ったら、殺す」だなんて、心にもないことを言った。
しかし、あのときはそれでいいと思ったのだ。自分を『討伐』の対象として見るなら、きっと優しい彼でも『英雄』として動いてくれるはずだから。
きっとリュシーロを害したヴィクリアは、ティネに魔獣の仲間や裏切り者だと考えられているだろう。だからこそ、あんな言葉を放った。これ以上オルニーイの負担になりたくはなかったためだ。
だが、と我に返る。
「……死んで、ない」
確か自分は、逃げるようにケルベロスと共に転移したはず――そこまで思い出し、うつむかせていた顔を上げた。
直後、呆然とする。
「何、これ」
何者かの血で描かれた紋様。ヴィクリアの周りを取り囲むようにして記されたそれが、紅に発光していた。瞬時に立ち上がり、おそるおそる近辺を見渡してみる。
キツァンが使う転移の術、その紋様のような円形ではない。多分、五角形だ。それぞれの角の先には、三つの線が放射状に描かれている。
ここはどうやら地下らしい。天井を見上げてみると、月が微かに瓦礫の山から覗いているのがわかった。
死んでいないことに呆然としながら、一つ、つぶやく。
「模様に、囲まれてる……?」
「起きたか、贄の華」
聞き覚えのある唸り声と哄笑に、はっと振り返った。
そこにいたのは、うねる蛇のたてがみと漆黒の体、三頭の首を持った犬――ケルベロスだ。それはまるでくつろいでいるかのように、地面に腹をつけて寝そべっている。
怒気も敵意も感じない。だが、そこにいるだけでヴィクリアの足を震えさせる、そんな気迫があった。まとう気概というのだろうか、気配がとても禍々しく、見ているだけで冷や汗が出てくる。
「どうして私を、そのままにしてたんですか」
意を決し、生唾を飲みこみながらも尋ねてみた。声もまた、震えてしまってはいたが。
呪い持ちは魔獣に食われるさだめ。キツァンもそう言っていた。おいしくなるまで待つ、と。だが、今の状態はさっぱりわからない。
ケルベロスが自分を食らうのであれば、いくらでも機会はあっただろう。なのに放置して起きるまで待つとは、魔獣の考えが不明瞭すぎる。
「私は贄です。どうして」
「お前は、何か勘違いをしているな」
ケルベロスの中央にある頭が、ニヤリと牙を見せた。
「そもそも、どこまで気づいている?」
「気づく……んん、何を、ですか」
「阿呆か、お前は。少しは不思議に思わなかったのか? 両親は誰か、なぜ幼子のときから俺に守られているのか、など。疑問を覚えることがあったのではないか」
「それ、は」
意地の悪い笑みに、うつむく。
父と母のことを疑問視したことは、確かにあった。男女が家族を築き、子が生まれるということを知ってからは、なぜ男性が家にいないのかと不思議に思ったものだ。
捨て子だった事実を教えられたのは、そのとき。五歳のときの頃だったように思う。
だが、捨てられた事実はさておき、シーテは愛情をこめて自分を育ててくれた。だからこそヴィクリアも、両親というもの、特に父親に憧憬を抱いていなかったのだ。
「私の親は、シーテさんです。それでいいんです。だから気にしてませんでした」
「シーテ。ああ、あのババアか。俺をお前から解き放とうとして、返り討ちになった女」
「……やっぱりあなたが、瘴気でシーテさんを殺したんですね」
「そのとおり。お前を育てる上で重要な存在だったが、成人してからはむしろ、いらん」
ぐ、とヴィクリアは唇を噛みしめ、笑い声と共に投げられる非道の言葉を浴びた。ケルベロスをできる限り強く睨みつけるも、魔獣はどこ吹く風、というように尻尾をくゆらせている。
「ひどい……シーテさんを殺すだなんて」
「何が、ひどい、だ。人程度が俺に対抗するのが悪いのさ。それに、俺がお前の中にいたことで救われた部分もあっただろう?」
「そんなのはないです。知りません」
「感情の抑制」
「抑制?」
ケルベロスの一頭が、小さくあくびした。
「お前が辛いとき、悲しいとき。憎いとき、妬むとき。その全ての感情は俺が食ってやった。ヴィクリア、お前が言う『気にしていない』は、ほとんど俺がいたおかげなんだよ」
何を言われているのかわからない。ヴィクリアは軽く、眉をひそめた。
「お前は、大して感情をおもてに出していなかっただろう。喜びや慈しみ、は知らんが。当然なのさ、お前の負の感情は俺の餌になっていたのだから」
「……嘘」
「本当さ。ババアが死んだとき、泣いてないだろう。泣けなかっただろう」
図星で声すら出てこない。そうだった。シーテが死んだときはとにかくパニック状態で、埋葬するときも涙を流すことはなかったのだ。
それは一過性のものだと思っていた。混乱から来る恐怖で、落涙できなかったのだと考えていた。なのに。
長い紫の舌を使い、器用に牙を舐めたケルベロスはまた、くぐもった笑いを漏らす。
「おいしかったよ、お前の心は。孤独への恐れ、怯え。そんなものすら俺の糧になった」
「違う」
「そんなお前に、特別な感情を抱く人間が、まさか現れるとは思わなかったが」
「ち、違いますっ」
まさか、と背筋に汗が伝う。
まさかオルニーイへ抱いた思いすら、偽物だと言われそうで怖かったからだ。
「感情が溢れ、オドが不均衡になったことで俺が出た……そう言ったはず。あの自称『英雄』様はいい仕事をしてくれたよ。お前を追い詰め、苦しめた」
「ルイ、さんは……わ、悪くないです。何もしてない」
「なんとでも言え。あの『英雄』が俺をおもてに出したきっかけになったのは、確かだ」
つまらなさそうに赤い目を細めるケルベロスの前で、ヴィクリアはただ、うろたえるしかなかった。
この思いが偽物と言われなくてよかったと安堵するも、困惑が募る。
自分の中に入り、ずっと側にいたケルベロス。その存在はヴィクリアの感情を食らい、シーテを殺した。だが、どうして遠回りするようなやり方を選んだのか。
「子守りももう終わりだ。魔獣の世界でいう成人、すなわちもっともオドが高まる十八のとき。そこまでお前の中に入り、見守るのが俺の役割だ」
「え?」
ケルベロスの言葉が謎めいており、ただ首を傾げる。
「あなたが私を食べるためじゃ、ないんですか」
「食っていいならとうに食っている。昔にな。だがお前は贄の華」
「にえの、華……?」
キツァンからも聞いたことのない単語が出てきて、ますます頭が混乱した。魔獣たちにはわかる、何か比喩のようなものなのだろうか。
ケルベロスが無造作に立ち上がる。頭上を見て、月の位置を確認しているようだ。
「……あなたは、私をどうするつもりですか」
「決まり切ったこと」
一歩、ケルベロスが近づく。
醜悪な笑みを見せて笑う魔獣に、ヴィクリアの額から緊張の汗が伝う。
「ユラン様を目覚めさせてもらう」
放たれた言葉に、頭の中が真っ白になった。
ユラン、悪竜ユラン。オルニーイが退治した分身の一つ。それと自分が、どう関わってくるというのだろう。
「わ、たし。ユランなんて知りません」
一歩、またケルベロスが歩をヴィクリアの方へと進めた。
「贄の華という存在は、大陸にそれぞれ四人いる」
前足で赤い紋様に触れ、ケルベロスが牙を剥き出しにする。
「ユラン様の贄となり、その復活を手助けする存在のことさ。だからこそ強者の俺がお前の中にいた。万一ご自身が倒されても、お前を贄としてよみがえることができるように」
酷薄な言葉に、事実に、ヴィクリアはただ首を横に振ることしかできなかった。
「さて、そろそろ死んでもらう。もう思い残すことはないな」
大切な人がなした偉業――それを無に帰すような存在であることが、辛い。苦しい。
思わず腰の近くをまさぐったが、そこには短刀がなかった。置いて出てきてしまった。
(……持ってきてたら、死ねたのに)
悔やむ。このまま言いようにされれば、せっかくオルニーイが育んだ平和を、自らが壊してしまうだろう。
舌を噛んでも、死ぬことはできないと聞いたことがある。ならば走って逃げようと決めたとき、聞いたことのない詠唱がケルベロスの口から漏れた。
途端、周囲の紋様から赤い光が放たれる。それはガラスのように変化し、五角形のドームとなってヴィクリアを閉じこめた。
「さあ、贄となり、ユラン様を目覚めさせろ」
「や、だ……!」
しゃがみ、自分を護るように身を丸めたそのときだった。
「ヴィクリアッ!」
横の瓦礫を破壊し。
外から剣を構えてこちらに来たのは――
「……ルイ、さん」
ヴィクリアの中で最も、誰よりも大切な、オルニーイだった。




