表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/30

6-2.贄の、華。

 イルガルデ要塞は、古代、女神シェタルーシャと悪竜ユランが戦い合った場所の一つとされている。人間の力を借りた女神と、魔獣を従えた悪竜の争いは苛烈を極め、舞台となったそこはすでに廃墟だ。


 設置されていた弩弓(どきゅう)投石器(とうせきき)()ち、壁も崩れ去り、今は人も寄りつかない。


 夏とはいえ夜は冷える。風も冷たい。色褪せたタペストリーが揺れ、瓦礫(がれき)の一つが大きな音を立て、落ちていく。


 ――そんな遠くの音で、ヴィクリアは目覚めた。


「ん、んん……」


 まぶたをゆっくりと開ける。ぼやけた視界の中、鮮やかなのは何かの赤色だ。(ほほ)が冷え冷えとしている。頭痛が少し、した。鉄臭い匂いもする。


 こめかみを押さえて体を起こした。どうやらずっと床に横たわっていたらしい。頭が回らず、今、自分がどこにいるかで一瞬悩んだ。


 『ヴィクリア』と自分を呼ぶ、柔らかな声音が脳裏によぎる。


「っ……!」


 それはオルニーイの声だ。とっさに上半身を起こし、目を閉じ、両手で耳を塞ぐ。


 最低なことを言ってしまった。「次に会ったら、殺す」だなんて、心にもないことを言った。


 しかし、あのときはそれでいいと思ったのだ。自分を『討伐』の対象として見るなら、きっと優しい彼でも『英雄』として動いてくれるはずだから。


 きっとリュシーロを害したヴィクリアは、ティネに魔獣の仲間や裏切り者だと考えられているだろう。だからこそ、あんな言葉を放った。これ以上オルニーイの負担になりたくはなかったためだ。


 だが、と我に返る。


「……死んで、ない」


 確か自分は、逃げるようにケルベロスと共に転移したはず――そこまで思い出し、うつむかせていた顔を上げた。


 直後、呆然とする。


「何、これ」


 何者かの血で描かれた紋様。ヴィクリアの周りを取り囲むようにして記されたそれが、(くれない)に発光していた。瞬時に立ち上がり、おそるおそる近辺を見渡してみる。


 キツァンが使う転移の術、その紋様のような円形ではない。多分、五角形だ。それぞれの角の先には、三つの線が放射状に描かれている。


 ここはどうやら地下らしい。天井を見上げてみると、月が微かに瓦礫(がれき)の山から覗いているのがわかった。


 死んでいないことに呆然としながら、一つ、つぶやく。


「模様に、囲まれてる……?」

「起きたか、(にえ)(はな)


 聞き覚えのある唸り声と哄笑(こうしょう)に、はっと振り返った。


 そこにいたのは、うねる蛇のたてがみと漆黒の体、三頭の首を持った犬――ケルベロスだ。それはまるでくつろいでいるかのように、地面に腹をつけて寝そべっている。


 怒気も敵意も感じない。だが、そこにいるだけでヴィクリアの足を震えさせる、そんな気迫(きはく)があった。まとう気概(きがい)というのだろうか、気配がとても禍々しく、見ているだけで冷や汗が出てくる。


「どうして私を、そのままにしてたんですか」


 意を決し、生唾を飲みこみながらも尋ねてみた。声もまた、震えてしまってはいたが。


 呪い持ちは魔獣に食われるさだめ。キツァンもそう言っていた。おいしくなるまで待つ、と。だが、今の状態はさっぱりわからない。


 ケルベロスが自分を食らうのであれば、いくらでも機会はあっただろう。なのに放置して起きるまで待つとは、魔獣の考えが不明瞭すぎる。


「私は(にえ)です。どうして」

「お前は、何か勘違いをしているな」


 ケルベロスの中央にある頭が、ニヤリと牙を見せた。


「そもそも、どこまで気づいている?」

「気づく……んん、何を、ですか」

「阿呆か、お前は。少しは不思議に思わなかったのか? 両親は誰か、なぜ幼子のときから俺に守られているのか、など。疑問を覚えることがあったのではないか」

「それ、は」


 意地の悪い笑みに、うつむく。


 父と母のことを疑問視したことは、確かにあった。男女が家族を築き、子が生まれるということを知ってからは、なぜ男性が家にいないのかと不思議に思ったものだ。


 捨て子だった事実を教えられたのは、そのとき。五歳のときの頃だったように思う。


 だが、捨てられた事実はさておき、シーテは愛情をこめて自分を育ててくれた。だからこそヴィクリアも、両親というもの、特に父親に憧憬(どうけい)を抱いていなかったのだ。


「私の親は、シーテさんです。それでいいんです。だから気にしてませんでした」

「シーテ。ああ、あのババアか。俺をお前から解き放とうとして、返り討ちになった女」

「……やっぱりあなたが、瘴気でシーテさんを殺したんですね」

「そのとおり。お前を育てる上で重要な存在だったが、成人してからはむしろ、いらん」


 ぐ、とヴィクリアは唇を噛みしめ、笑い声と共に投げられる非道の言葉を浴びた。ケルベロスをできる限り強く睨みつけるも、魔獣はどこ吹く風、というように尻尾をくゆらせている。


「ひどい……シーテさんを殺すだなんて」

「何が、ひどい、だ。人程度が俺に対抗するのが悪いのさ。それに、俺がお前の中にいたことで救われた部分もあっただろう?」

「そんなのはないです。知りません」

「感情の抑制」

「抑制?」


 ケルベロスの一頭が、小さくあくびした。


「お前が辛いとき、悲しいとき。憎いとき、妬むとき。その全ての感情は俺が食ってやった。ヴィクリア、お前が言う『気にしていない』は、ほとんど俺がいたおかげなんだよ」


 何を言われているのかわからない。ヴィクリアは軽く、眉をひそめた。


「お前は、大して感情をおもてに出していなかっただろう。喜びや慈しみ、は知らんが。当然なのさ、お前の負の感情は俺の餌になっていたのだから」

「……嘘」

「本当さ。ババアが死んだとき、泣いてないだろう。泣けなかっただろう」


 図星で声すら出てこない。そうだった。シーテが死んだときはとにかくパニック状態で、埋葬(まいそう)するときも涙を流すことはなかったのだ。


 それは一過性のものだと思っていた。混乱から来る恐怖で、落涙できなかったのだと考えていた。なのに。


 長い紫の舌を使い、器用に牙を舐めたケルベロスはまた、くぐもった笑いを漏らす。


「おいしかったよ、お前の心は。孤独への恐れ、怯え。そんなものすら俺の糧になった」

「違う」

「そんなお前に、特別な感情を抱く人間が、まさか現れるとは思わなかったが」

「ち、違いますっ」


 まさか、と背筋に汗が伝う。


 まさかオルニーイへ抱いた思いすら、偽物だと言われそうで怖かったからだ。


「感情が溢れ、オドが不均衡になったことで俺が出た……そう言ったはず。あの自称『英雄』様はいい仕事をしてくれたよ。お前を追い詰め、苦しめた」

「ルイ、さんは……わ、悪くないです。何もしてない」

「なんとでも言え。あの『英雄』が俺をおもてに出したきっかけになったのは、確かだ」


 つまらなさそうに赤い目を細めるケルベロスの前で、ヴィクリアはただ、うろたえるしかなかった。


 この思いが偽物と言われなくてよかったと安堵するも、困惑が(つの)る。


 自分の中に入り、ずっと側にいたケルベロス。その存在はヴィクリアの感情を食らい、シーテを殺した。だが、どうして遠回りするようなやり方を選んだのか。


「子守りももう終わりだ。魔獣の世界でいう成人、すなわちもっともオドが高まる十八のとき。そこまでお前の中に入り、見守るのが俺の役割だ」

「え?」


 ケルベロスの言葉が謎めいており、ただ首を傾げる。


「あなたが私を食べるためじゃ、ないんですか」

「食っていいならとうに食っている。昔にな。だがお前は(にえ)(はな)

「にえの、(はな)……?」


 キツァンからも聞いたことのない単語が出てきて、ますます頭が混乱した。魔獣たちにはわかる、何か比喩(ひゆ)のようなものなのだろうか。


 ケルベロスが無造作に立ち上がる。頭上を見て、月の位置を確認しているようだ。


「……あなたは、私をどうするつもりですか」

「決まり切ったこと」


 一歩、ケルベロスが近づく。


 醜悪(しゅうあく)な笑みを見せて笑う魔獣に、ヴィクリアの額から緊張の汗が伝う。


「ユラン様を目覚めさせてもらう」


 放たれた言葉に、頭の中が真っ白になった。


 ユラン、悪竜ユラン。オルニーイが退治した分身の一つ。それと自分が、どう関わってくるというのだろう。


「わ、たし。ユランなんて知りません」


 一歩、またケルベロスが歩をヴィクリアの方へと進めた。


(にえ)(はな)という存在は、大陸にそれぞれ四人いる」


 前足で赤い紋様に触れ、ケルベロスが牙を剥き出しにする。


「ユラン様の(にえ)となり、その復活を手助けする存在のことさ。だからこそ強者(つわもの)の俺がお前の中にいた。万一ご自身が倒されても、お前を(にえ)としてよみがえることができるように」


 酷薄(こくはく)な言葉に、事実に、ヴィクリアはただ首を横に振ることしかできなかった。


「さて、そろそろ死んでもらう。もう思い残すことはないな」


 大切な人がなした偉業――それを無に帰すような存在であることが、辛い。苦しい。


 思わず腰の近くをまさぐったが、そこには短刀がなかった。置いて出てきてしまった。


(……持ってきてたら、死ねたのに)


 悔やむ。このまま言いようにされれば、せっかくオルニーイが育んだ平和を、自らが壊してしまうだろう。


 舌を噛んでも、死ぬことはできないと聞いたことがある。ならば走って逃げようと決めたとき、聞いたことのない詠唱がケルベロスの口から漏れた。


 途端、周囲の紋様から赤い光が放たれる。それはガラスのように変化し、五角形のドームとなってヴィクリアを閉じこめた。


「さあ、(にえ)となり、ユラン様を目覚めさせろ」

「や、だ……!」


 しゃがみ、自分を護るように身を丸めたそのときだった。


「ヴィクリアッ!」


 横の瓦礫(がれき)を破壊し。


 外から剣を構えてこちらに来たのは――


「……ルイ、さん」


 ヴィクリアの中で最も、誰よりも大切な、オルニーイだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ