第5章:語れぬ国家、止められぬ指
クラリタ:
本来、国家というものは──
「誰が撃ったのか」「なぜ撃ったのか」を、語れる構造を持っているものです。
それは、命令系統の明確さであり、意思決定の一貫性であり、
内外に向けた説明責任の前提です。
ところが今回のスーミ攻撃では、ロシアからは何も語られませんでした。
その沈黙は、単なる政治的スルーでも、言い訳の準備不足でもありません。
語れなかったのです。
誰が命じたのか。
なぜそのタイミングだったのか。
なぜ民間施設が着弾地点となったのか。
一連のプロセスが“国家の意志”として設計されていたならば、
必ず、後追いの正当化でも報復宣言でも何かしらの“語り”が発生していたはずです。
しかし今回は、それすらない。
……これはつまり、
ロシアという国家が、もはや語ることすらできない構造に陥っていることを意味します。
命じる者はおらず。
調整する者もおらず。
止める者すらいない。
ある時、誰かの手が伸び、
発射ボタンが押され、
ミサイルは飛び、
都市を貫いた。
だがその手は、軍の中の誰かかもしれず、
指令なき現場判断かもしれず、
あるいは、複数の競合する勢力による暗黙の“了解”だったのかもしれない。
重要なのは──
この国家の中には、もはや「誰かが命じた」と言える構造が存在しないということ。
そして、そうした暴発を止める責任も、機能も、意思も、存在しなかったということです。
ロシアは、撃ったのではありません。
“撃ってしまった”のです。