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“看取り夫人”と呼ばれた令嬢は最後に仮面を外す

作者: hamham


 エリナ・ヴァルデマールは、王都随一の「華やかさ」と「噂話」を背負う貴族令嬢として知られていた。鮮やかな金髪と整った鼻梁、そして見る者をたちまち虜にする大きな青い瞳。

 夜ごとに繰り広げられる社交界の宴では、彼女の名前が出ない日はないほどだ。今日は、王都でも有名な音楽酒場〈ロゼリア〉で舞踏会が開かれている。そこに姿を現したエリナは、ふわりとした薄紫のドレスをまとい、香り高い化粧品をさりげなく身にまとっていた。


「エリナ様、今日もお美しい……!」

「踊りましょう。あなたのリボンの色がまるで夜空みたいだ」


 若い貴族たちはこぞってエリナを誘う。彼女はその声を受けて、気まぐれな笑みを返しながらも、するりと次々にパートナーを乗り換えていく。

 その姿を眺めていた男たちがささやき合う。

「さすがエリナ嬢。誰にも本気でなびくことはない、と噂では言われているが……」

「彼女は“快楽”と“金”以外に興味を持たないらしい。実家が相当苦しいらしいが、だからこそ結婚相手には金と地位しか求めないとか」

「まあ、あの美貌だ。金と地位だけ目当てでも不思議はないな。どんな男でも虜になる」


 エリナは、それらの囁きを聞いているのかいないのか、ただ薄く笑って踊り続ける。

 そしてある曲が終わり、彼女はほんの少しだけ小洒落た酒を喉に流し込むと、軽やかに言った。


「……この世で価値があるのは金と快楽だけよ。誠実? そんなものでは、人は救えないわ」


 笑顔のまま語られるその断定的な言葉に、周囲の若者たちの視線が釘付けになる。誰もが内心で「そこまでハッキリ言いきっていいのか」と驚くが、エリナはまるで涼しい顔をしていた。


 ――だが夜、宴を終えて自室に戻ったエリナは、窓辺で一輪の白いアネモネをそっと手に取り、瞳を伏せる。

 遠い昔、幼少のころに亡き祖母から譲られた花。ドライフラワーにして大切に保管しているその姿は、少し色褪せていたが、それでも白い花びらは“誠実”という花言葉を孕んでいた。


「おばあさま……私、あれからずっと変わってしまったのかしら」


 誰もいない寝室で、声にならない声が宙に消える。エリナはアネモネを見つめながら、揺れる胸の内を押し隠すように目を閉じた。




 ヴァルデマール家は今、破産寸前だ。かつては由緒ある家柄だったが、先代であるエリナの父親が投資に失敗し、莫大な負債を抱えている。

 王都の貴族としての体面は保っているものの、その実態は数年前から火の車。召使いたちの給金もままならず、屋敷の維持費すら危うい。


「エリナ。お前ももう二十三だ。いい加減に“まともな結婚”を考えてくれないか」


 父親の弱々しい声がエリナを呼び止める。

 エリナは火の消えかけた暖炉の前に佇み、侍女が点ててくれた紅茶を飲みながら、皮肉げに笑った。


「まともな結婚、とは具体的にどんなもの? そういう理想論はもう古いわ。今は金がすべてよ」

「……エリナ、お前はそれでいいのか? お前も昔は、祖母に憧れて――」

「もういいの。お父様、わたし、玉の輿を狙うことに決めたの。あなたがわたしに求めるのもきっとそれでしょう?」


 父は反論しかけるが、結局は何も言わず黙り込む。エリナはさめた目でその姿を見つめ、ひとつ息を吐く。

 愛や誠実を信じていた幼いころは、もう遠い過去の話だ。それに、家を救うために動きたくとも、すでに父親の借金は膨れ上がりすぎている。ならば自分のために動くほうがよほど効率がよい。


 ――そう信じることで、エリナは自分を奮い立たせようとしていた。


「わたし、今度の舞踏会で目ぼしい男を探す。条件はただひとつ――“莫大な資金援助ができる相手”よ。それさえ叶えば、わたしは何だってしてみせるわ」


 その姿は残酷とも映るが、彼女自身もどこかで「そうでなければ生きていけない」と心に言い聞かせているようでもあった。



 そんなエリナが一度は“恋”と呼べるかもしれない気持ちを抱いたのが、平民上がりの商人の息子、レオンである。

 だが彼は、自身の店を大きくするために苦労を重ねている最中で、貴族たちに比べれば大きな財力はない。


「レオン、わたし……あなたとはもう会えないわ」

「エリナ、どうしてだ? 俺は、金なんかなくてもお前を幸せに――」

「やめてちょうだい。そんな綺麗事で生きられるほど世の中甘くないの」


 レオンが差し出した手を、エリナははたき落とした。彼の目には苦悩が浮かび、さらに何か言いたげだったが、エリナは聞く耳を持たない。


「金がない男を好きになる余裕なんて、わたしにはないの。さようなら」


 別れを告げて踵を返すエリナ。その胸のどこかがほんの少し痛んだ。だが同時に、「金のない恋など幻だ」と自分に言い聞かせ、足早に去った。



 そんな折、王都の上流階級の間で「マルヴェリック公が花嫁募集をしている」という噂が流れ始める。マルヴェリック公はかなりの高齢で、しかも病床にある。

 それでも莫大な領地と財力を誇る名門であるがゆえに、若い令嬢を正妻に迎えたいと思うのも無理からぬ話だ。

 そして誰もが「病人を看取るための嫁になるのはごめんだ」と敬遠している中、エリナだけはちっとも動じなかった。


「マルヴェリック公……資産は莫大、でも余命もそう長くはない。まさしく“墓場直行の玉の輿”じゃない」


 彼女は薄く笑いながら自分でそう言った。周囲はその台詞にぞっとしていたが、エリナにとって恐れることはない。むしろ、相手の寿命が短いほど、後腐れなく財産を手に入れやすい。


 そして舞踏会で実際に目にしたマルヴェリック公は、案の定、車椅子に乗り、白髪の老人ではあったものの、穏やかな品格を漂わせていた。


「はじめまして、ヴァルデマール家のエリナと申します。公のお噂はかねがね……」

「おお……若いのにずいぶんと聡明そうな方だ。よければ、私の傍に来て話をしてくれんかね?」


 公は彼女を一目で気に入ったらしく、即座に高額の結納金を提示して求婚してきた。エリナはそこに一瞬の迷いもなく、「はい」と答える。


――そうしてエリナは、わずかな準備期間の後、マルヴェリック公との婚礼を挙げることになった。周囲の貴族たちは「金目当てだ」とあからさまに軽蔑し、嘲笑するが、エリナは気にも留めない。

 婚礼の夜、彼女は誰もいない寝室の窓際で、またあの白いアネモネを見つめ、そっと目を細めた。


「どうせわたしは金のために生きるんだわ。おばあさま、ごめんなさい――でも、それ以外に何ができるの……?」


 そんな呟きは、夜の帳に溶けるばかりだった。




 マルヴェリック公との新婚生活は、まるで療養所の看護婦のようでもあった。

 公はほとんどベッドから起き上がれず、食事や薬の介助も必要とする。エリナは最初こそ「退屈で単調な日々」だと感じていたが、それでも淡々と世話をこなす。お金が手に入るなら、どんな手間も惜しまない。それが彼女の生きる術だからだ。


 だが、しばらく公と時間を共にするうちに、意外な発見があった。彼はとても穏やかで、そして本当にエリナを大切に扱おうとする人だった。

 ある夕方、ベッドに横たわる公は、息も苦しそうにしながら、かすれ声で言う。


「エリナ……今日は、外の花の香りがすばらしいと聞いたのだが……私には、もうなかなか嗅ぎに行けなくてな……」

「公……お気になさらず、今すぐ私が花を摘んできます。どんな花がよろしいの?」

「そうだな……小さな野花でもいい。その控えめな可憐さが、私は好きなんだよ……」


 エリナは驚いた。財力と地位を持つ貴族が好むのは、もっと派手な花だとばかり思っていた。

 言われるがままに、庭に咲く小さな白い野花を摘んで公に手渡すと、彼は柔らかな微笑みをこぼす。


「ありがとう、エリナ。……君は、こうして私のわがままにも付き合ってくれて、本当に優しいな」

「……いえ、わたしはただ……」


 嘘や打算で始まった結婚のはずなのに、マルヴェリック公の誠実さに触れるたびに、エリナの胸の奥がかすかに疼く。夜になると、いつも以上に白いアネモネを見つめるようになった。

 ある夜、エリナは窓辺でアネモネに触れながら呟いた。


「本当は、この人にだけは嘘をつきたくない。……でも、わたしは、嘘をついてでも生きてきたのに……」


 その葛藤は、苦く、そして少しだけ温かさを帯びていた。




 マルヴェリック公は、医師からは半年ほどの余命と言われていたものの、意外にも二年もの間、生き続けた。

 その間、エリナは公のそばで世話を続け、時には公の要望で散歩に付き合い、時には長い昔話を聞いた。結婚当初に抱いていた「退屈さ」だけでなく、“家族”という言葉をわずかながら思い出す時間だった。


 だが、やがてその終わりの時が来る。公は深夜に激しい発作を起こし、そのまま床につくと、もう意識が戻らなかった。

 そして翌日、静かに息を引き取った。部屋には医師とエリナ、そして公の甥が立ち会っていた。


「……エリナ、ありがとう。最後まで傍にいてくれて。私は、お前さんにこそ遺産を渡したい。そう遺言を残しておいたからな……」


 それが公が残した最期の言葉だった。かすれ声に涙を誘われたのは、果たしてエリナが純粋に悲しかったからか、それともようやく自分の手に大金が入ると思ったからなのか。自分でも分からなかった。


 しかし、その遺言はすぐにマルヴェリック公の遺族によって封じられる。甥を中心とした血縁者たちが弁護士を使い、遺言の無効を主張し始めたのだ。

 挙句の果てには、「財産目当てで近づいた女に法的な権利はない。公が錯乱していた可能性が高い」などと決めつけられ、結局、エリナの手元に残ったのはわずかな手切れ金程度。


「……結局、誠実に向き合ったところで何も変わらない。わたしが甘かった」


 エリナは葬儀の後、ひとり屋敷を追い出されるように出て行き、王都へ戻った。その瞳には少しだけ悔しさや悲しみが滲んでいたが、すぐに唇を噛みしめてそれを打ち消す。


「これがわたしの選んだ生き方。金は思ったほど手に入らなかったけど、気にするほどでもないわ」


 誰にともなくつぶやくその声は虚ろであった。




 王都に帰還したエリナが目にしたのは、昔想いを寄せていたレオンが、新たな婚約者カミーラと腕を組む姿だった。

 カミーラは貴族出身で、商家にとっても有力なパートナー。それはつまり、レオンの事業を大きく飛躍させるような縁談なのだろう。

 レオンは楽しそうというよりも、どこか安定感のある微笑みでカミーラを見守っていた。


「やあ、エリナ。……久しぶりだな」

「レオン。結婚おめでとう。わたしも噂を耳にしたわ……よかったじゃない」

「ありがとう。そっちは……聞いたぞ。マルヴェリック公とのこと、どうやら……」


 言いにくそうなレオンに、エリナはわざと明るい笑みを返した。


「失敗? 別に平気よ。最初から恋じゃなかったもの。退屈しのぎだわ。ふふ……」


 レオンはその答えに、苦々しい面持ちをした。かつて愛し合っていたかもしれない二人。だが、今ではもう変えようがないほど道が分かたれている。


 エリナは心のどこかで大きな虚しさを感じながらも、自分の生き方を曲げることはできない。再び玉の輿を狙うために動き始めた。

 次なる標的は、近年資産家の未亡人たちを保護し、その財産を管理しているルートヴィヒ侯爵。噂では、かなり性格がきつく、人を信用しない男だという。


「まあ、誰であろうと、わたしの美貌と話術で落とせない相手はいないわ」


 エリナは意気込んでいた。彼女の噂が広まっているとはいえ、まだその美貌は絶大な武器である。

 実際、ルートヴィヒ侯爵の屋敷を訪れた際も、侯爵の口の悪さや猜疑心むき出しの態度にたじろぐことなく、優雅な笑みで対応した。


「失礼します、侯爵様。お招きありがとうございます。私などでお力になれることがあるでしょうか」

「ふん……噂の“看取り夫人”だな? その顔で近づいてきて、財産を根こそぎ奪い取ろうって腹か?」

「まあひどい。噂は噂ですよ。私はただ、人生の先輩である侯爵様のお話をうかがい、少しでもお力になりたいだけ。お嫌なら、すぐにでも退去いたしますわ」


 エリナは媚びるでもなく、かといってぶしつけでもない絶妙な態度で接する。それが、常に他者を疑ってきたルートヴィヒ侯爵にとっては逆に新鮮だったようだ。


「……まあいい。そこに座れ。私の妻が生きていたころの話でもしてやろう」


 こうして、エリナは徐々に侯爵に取り入り、そしてある日、侯爵から正式な婚約を提案される。侯爵自身は未亡人たちの財産を管理する一方で、己の資産も莫大だった。

 エリナは一瞬、(また看取りをすることになるのかしら)と頭をよぎったが、今さら躊躇う理由もない。


「喜んで、お受けしますわ」


 そう返事をし、再び「看取り夫人」の道を進むことを、エリナは選んだ。





 ルートヴィヒ侯爵は外面とは違い、内側に深い孤独を抱えている人物だった。エリナは彼のわがままや暴言に耐え、温かい言葉をかけ、時には侯爵の好きな音楽会に付き添う。

 しかし、やはり侯爵は他者を信用しきれないのか、疑い深い言葉が絶えない。


「エリナ、お前はどうせ私の金が欲しいんだろう?」

「もちろん、お金があれば安心して暮らせますもの。けれど、それはどんな方でも同じじゃありません?」

「強かな女だな……だが、お前のその割り切りが悪くない」


 そんなやりとりを重ねるうち、侯爵も徐々にエリナに心を開き始めた。かつての侯爵夫人の思い出なども打ち明けられるほどに。

 そして晩年、侯爵は重い病にかかり、余命を宣告される。


「ふん……結局、私もマルヴェリック公と同じ運命を辿るのか。エリナ、あとを頼むぞ……」

「はい、できる限り……あなたのそばにいるわ」


 侯爵は正式に遺言書を作成し、「全財産をエリナに譲る」という内容まで明記した。

 だが、死の間際になると、侯爵の親族と弁護士が大挙して押し寄せ、「看取り女にだまされるな」などと騒ぎ立てる。侯爵自身はその圧力を弱りきった身体で支えきれず、やむなくエリナを屋敷から遠ざける形となった。


「……まあ、今回もダメだったわけね」


 エリナはひどく落胆したが、それ以上に失ったものへの空虚感を覚えていた。侯爵とは確かに打算で近づいたが、最後には少しだけ“家族”のような感覚も生まれていたから。


「どうして、誠実に向き合うとこうなるの……。いや、最初から金目当てだと割り切っていたじゃない……」


 自問自答しながら、街を歩くと、人々がささやく声が耳に入る。


「あれが噂の看取り夫人……」

「相手を看取って財産を得るのが目的なんだろう? 怖い女だね」


 エリナは皮肉に口角を上げる。


「ええ、そうよ……看取り夫人って呼ぶなら好きに呼べばいいわ」


 やけになったように笑い流すエリナの胸の奥では、白いアネモネの残像がいつもよりも強く疼いていた。




 そんなエリナのもとに、突然、思いがけない縁談が舞い込んできた。王都屈指の名門・ツェルヴィッツ公爵家からの正式な申し込みである。

 ツェルヴィッツ公爵家は、長らく財政が安定していたが、最近になって何らかの事情で資金繰りが悪化しているという噂があった。それでもなお、他の貴族を寄せ付けないほどの巨大な領地を持っている。


「三度目の正直……ってわけか。今度こそ、絶対に莫大な遺産を手にしてみせるわ」


 エリナは決意を固める。噂や誹謗中傷などどうでもいい。大きな財産を得て、あとは何もかも捨てて自由になるのだ。

 ツェルヴィッツ公爵家を訪ねると、公爵本人はすでに病に伏せっていて、代わりに嫡男であるユリウスが応対に出てきた。


「……初めまして。僕がユリウス・ツェルヴィッツです。エリナ・ヴァルデマール殿とお呼びすればよろしいですか」

「ええ、エリナで結構ですわ。お目通り叶い光栄に思います、ユリウス様」


 ユリウスは淡々とした調子で、まるで興味を示さないように見える。エリナがいかに美しい女性であるかなどどうでもいい、という冷めた視線。

 それでもエリナは、いつものように微笑みを絶やさずに応対した。だが、彼の瞳には何か深い傷が宿っている。それに薄々エリナは気づく。


 あとで聞かされた話によると、ユリウスは数年前に婚約者に裏切られた過去があるという。その婚約者は別の侯爵家の嫡子と駆け落ちし、結果的にツェルヴィッツ家の体面は泥を塗られた格好となった。

 以来、ユリウスは愛や誠実をまったく信じない。打算と利害でしか人を見られなくなってしまったらしい。


「なるほど……まるで過去のわたしを見ているみたいね」


 エリナはそう思いながら、ユリウスと形式的な挨拶を繰り返す。公爵の病状が思わしくないため、もし公爵が亡くなったら、ユリウスが全財産を継ぐことになる。

 つまり、ユリウスから信頼を勝ち取れば、エリナは大金を手にする。それを目当てに接近するだけなのに、彼女の胸はなぜか落ち着かない。





 エリナは日々、公爵の看病をしたり、館の使用人と交流したりしながら、ツェルヴィッツ家での生活を始めた。

 ユリウスはといえば、父が倒れた後も仕事に没頭し、使用人を通して指示を出すだけで、エリナとはあまり顔を合わせようとしない。

 それでも、ひょんなことで二人きりになる場面が訪れる。ある夜、エリナが公爵の部屋を出たところで、ユリウスと鉢合わせになった。


「……父の容態はどうだ?」

「今夜は比較的落ち着いていらっしゃいました。熱も少し下がったようで、スープを少し召し上がりました」

「そうか……ありがとう」


 その言葉には、ほんの少しだけ優しさが混じっていた。エリナはその僅かな変化を見逃さない。


「ところでユリウス様、あなたはあまりお父様の部屋にいらっしゃらないのね」

「……俺が行くと、父は申し訳なさそうな顔をする。それを見るのが嫌なんだ」

「どうして申し訳なさそうに?」

「……家が危ないからだ。俺一人で何とかしなければならない、そう思っているのだろう。父は自分の判断の誤りが原因だと気に病んでいるのかもしれない」


 ユリウスの瞳には、ほんのわずかに寂しさが宿る。それは、エリナが見せることのない種類の“優しさ”のようにも思えた。

 エリナは思わず「あなたは優しい人ね」と口にしそうになったが、すんでのところでやめる。彼女はあくまで“大金を得るため”にここにいるのだ。


 だが、ユリウスと会話を重ねるうちに、エリナは妙な居心地の良さを感じ始める。似た者同士の匂いがするのだ。どちらも“人を愛さない”と自分に言い聞かせている。どこか傷ついた心同士が呼応している気がした。




 ツェルヴィッツ公爵の病状は日に日に悪化する。医師も打つ手がなく、長くはもたないだろうと告げる。

 エリナは冷静な顔で、「また看取ることになるわね」と思っていた。そうすれば、今度こそは大きな遺産が手に入るかもしれない。

 しかし、そんな言葉を口にしたエリナに、ユリウスは少し悲しそうな眼差しを向ける。


「エリナ、父は、最後まであなたを信じている。あなたにこそ我が家を任せられるって……」

「……そう。だったら、そのままそうしてもらえばいいじゃない。わたしは別に困ることなんてないわ」

「そのために、俺もあなたを信じるよ。……エリナ、結婚してくれないか」


 あまりに唐突なプロポーズだった。エリナは思わず目を見開く。だがユリウスは真剣な面持ちで言葉を続ける。


「これまで俺は、愛なんて信じていなかった。だが、あなたは俺の“影”を見た。俺もあなたの“影”を見た。誓って言う、俺たちなら一緒に生きていけると思うんだ」


 エリナは言葉に詰まる。確かにユリウスには特別な思いが芽生えかけている。しかし、それは本当に“愛”なのか、“同情”なのか、それとも“打算”なのか。

 戸惑いながらも、胸の奥が少しだけ温かくなっているのを感じた。


「……わかったわ。わたしで良ければ、結婚しましょう」


 そう小さく答えると、ユリウスは初めて少しだけ笑みを見せた。まるで長年の苦しみから解放されたような、安堵の笑みだった。





 だが、その夜。エリナは偶然、ユリウスと執事が密談している場面を立ち聞きしてしまう。

 廊下の影から漏れ聞こえてきたのは、あまりにも皮肉な言葉だった。


「……看取り夫人の評判を逆手に取るんだ。エリナは、父を看取る形で正妻となり、世間から同情も集められるはず。そうすれば援助が……」

「しかし、ユリウス様。本当にその方法でよろしいのですか? もしエリナ様がそれを知ったら……」

「構わない。俺は家を救わなければならないんだ。彼女を愛しているわけでもない。父が信じているから利用しているだけだ。今回こそは失敗できない」


 その言葉に、エリナは息を呑む。心臓が凍りつくようだった。

 家のために愛を利用する――それは、かつての自分と同じだ。金や地位のために相手を裏切る行為。それを、今度は自分がされる側になるなんて。


「……わたしが、この人に少しでも心を許しかけていたなんて……馬鹿みたい」


 エリナの瞳には涙が滲む。だが、そのまま静かに後ずさりし、自室へと戻った。



 翌日。ユリウスはエリナのもとを訪れ、改めてプロポーズの言葉を告げようとする。

 だがエリナは彼の前で指輪を取り外し、静かに差し出した。


「……エリナ?」

「あなたに騙されるには、もう遅すぎたわ。わたしのことを“看取り夫人”と利用したいんでしょう? その計画、上手くいきそうにないから、諦めてちょうだい」


 ユリウスは思わず言葉を失う。まさかエリナが自分の胸の内を知ってしまったとは思っていなかったのだろう。


「待ってくれ、誤解だ……そういうつもりじゃない。俺だって、もう少しで本当に――」

「何も言わなくていいわ。……あなたはきっと、本当は優しい人なんでしょう。でも、それでもあなたは“家のため”に嘘をつくのね。わたしは今まで嘘をついて生きてきた。でも、最後くらいは誠実でありたかったの……」


 エリナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。ユリウスはエリナの手を掴もうとするが、エリナはそれを拒むように身を引く。


「さようなら、ユリウス……あなたは、あなたの道を進めばいい。わたしはもう、金のためだけに生きるのはやめるわ」


 そう言い残して、エリナはツェルヴィッツ家の大きな扉を開け放ち、外の光の中へと出て行った。ユリウスはその場に立ち尽くすしかない。自分の行いがどれだけ彼女を傷つけたのかを、今さら理解してももう遅かった。



 こうしてエリナは、三度目の玉の輿の道も自ら捨てることになった。噂好きな王都の人々は「看取り夫人がとうとう破滅した」と嘲笑するかもしれない。

 だがエリナはそんな噂からも遠く離れるように、屋敷を売却し、郊外の小さな家を一軒買って暮らすことにした。もはや豪華なドレスもなく、広大なサロンもない。

 けれど、彼女の心はどこか穏やかだった。


 ある朝、市場へ買い物に出かけたエリナは、以前ヴァルデマール家で働いていた侍女と偶然再会した。侍女は目を丸くして彼女を見つめる。


「エ、エリナ様……もう“看取り夫人”じゃ、ないのですね?」

「そうね。今はただの……エリナよ。何の肩書きもないわ」


 エリナの笑顔は、以前のような嘲笑や皮肉めいたものではなく、自然な柔らかさを帯びている。侍女が心からホッとしたような表情を浮かべるのを見て、エリナは自分も笑みをこぼす。


 侍女と別れたあと、エリナは家に戻り、庭を眺める。そこには、白いアネモネの横で新しく咲き始めた、一輪の紫のアネモネがあった。

 紫のアネモネの花言葉は、いくつかの意味を持つが――「真実」そして「別れ」。それはまるで、エリナ自身の人生を象徴しているようでもあった。


「今度は、わたしがわたしのために生きる番……。あなたも見守っていてね、おばあさま」


 エリナはそっとアネモネを撫でる。朝の光を受けて、白と紫の花びらがそよ風に揺れている。


 かつては快楽と金こそが全てだと思っていた。しかし今、エリナはようやく知ったのだ――誠実や優しさは、確かに脆くて簡単に踏みにじられるかもしれない。けれど、それを捨ててしまえば、自分の心はいつまでも満たされないままだということを。


「これからは、誰のためでもない、わたし自身の時間を生きよう」


 白い花から紫の花へ。かつては過去の自分を縛っていたアネモネが、いまは新しい未来へ向かう道しるべとなっている。

 エリナはそっと庭にしゃがみこみ、紫のアネモネの花に唇を寄せるように微笑みかけた。


 ――そうして、看取り夫人と呼ばれた女は、ついに自らの仮面を脱ぎ、静かに新しい人生を歩み始めたのだった。

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