5-8.沙汰と、生きること
今日も遅くなり、申し訳ございません…!
どうか少しでも、お楽しみいただけますように。
師匠。確認したかった事って、さっきの話ですか?」
「ん、う、うん」
いつの間にか硬直した表情からいつもの調子に戻ったアドニスから問いかけられ、リーベラはオルクスの腕の圧力を感じつつ、ぎこちなく頷く。
――正直、どんな感情を抱いていいのかが分からない。
オルクスの腕の中で安心したせいか、今更ながら頭が酷く、割れるように痛んでいることに気づく。
アレスへの畏怖、不快感、拒絶、虚しさ、そんなものが胸中に渦巻いて、収集もつかずに煮えたぎっている。だが、そんな中でも新たに追加された感情が一つ。
「なるほど。……兄上、俺はどうやら少し思い違いをしていたようです」
「ほう。何がかな」
目を三日月型に細めるアドニスに、穏やかな微笑みでアレスが応えた。
「兄上が毒をそのまま放置していたのは、犯人探しを徹底的に追求するためではなく、自分を早く終わらせたかったから、ですか?」
「……」
「その割には、未練がましく師匠を呼び出したりしてますけど」
「……最後くらい、と欲が出たんだ」
アレスの虚空の瞳が、リーベラを視界に捉える。
「だけど、そう。もう叶わなかったね」
そうして眩しそうに、その目を瞬いて。
「……君たちは本当に手強くて、そして2人ともしぶといくらい折れなかった。――すまなかった、リーベラ。そして、オルレリアン公爵もだ」
穏やかにすべてを悟ったような目で、微笑んだ。
(……ああ、この気持ちを、どこへやればいい)
思わず唇を噛み締めようとしたとき、オルクスの手がさらりと宥めるように頬を掠めた。
「リラ。自分を傷つけるのは、もう止めろ」
そう言ってゆるゆると顔を上げたオルクスが、リーベラの瞳を覗き込む。
「君のことだから、また『自分のせいで』って思ってるんだろうね」
――そう、アレスに向けて新たに追加された感情は、罪悪感。
自分がアレスに魔法を失敗させ、彼に向かって跳ね返してしまったこと。結果的に、第二の自分を作ってしまったこと。
そして、彼の境遇に、当時気づけなかったこと。
図星を指され、リーベラはその場で硬直した。
「忘れちゃ駄目だよ、どう考えても悪いのは最初に引き金を引いたあいつだ。どんな背景があろうとも、してはいけないことを、あいつはした」
王をさらりと「あいつ」呼ばわりするオルクスだが、誰もそれを咎める者はいない。
「そうですね。そしてそれは一言謝ったくらいで、済むものでも到底ない。――兄上。謝っても、残念ながら時間自体は巻き戻しが効かない」
それに、と言いながら。アドニスが立ち上がり、アレスの前に書類を置いた。
「例え、どんな背景があったとしても、だから他人を傷つけていいということにはならないんです」
「……ああ、正論だね」
凪いだ目で微笑みながら、アレスはアドニスに促されてペンを手に取り、書類に署名を書きつける。
書かれた書類を受け取って、アドニスは深々とため息をついた。
「――ありがとうございます。これでやっと終わりだ。実にこの世界は面倒ですね、実質王の権利はもう俺にあるってのに、形式的にこんな同意書面まで必要なんですから」
「嘘に駆け引き、騙し合いの情報戦。収益と損失の天秤で事が進む――そういう世界だからね、紙も物証として必要になるさ。分かっていて、戻って来たんじゃないのかい。新国王様」
「ま、そうですね」
穏やかにソファーへ身を沈めるアレスに、アドニスが狐のような笑顔でにこやかに答える。
「……さて、そうなると次は私の断罪になるのかな。今ここで終わらせてくれてもいいよ。君の大事な師匠を害そうとしたんだ、処刑かな、それとも追放か幽閉かな?」
「……そんな生易しいもんじゃないですよ。あんたは人の人生に消えない傷跡を残したんですから。それに処刑なんて一瞬で終わるもの、つまらないじゃないですか」
静かに微笑むアレスとアドニスの言葉に、リーベラはびくりと身を震わせた。
――処刑よりも生易しいもんじゃないって、なんだ。何をするつもりなんだ。
「アド……」
「リラ。大丈夫」
思わずアドニスに呼びかけようとするリーベラの肩を、ぎゅうとオルクスがやんわりと、けれど強い力で押さえつける。
「大丈夫って、何が」
「大丈夫なんだ」
ただそう繰り返して、オルクスは微笑みつつ、身を目の前のアレスに向ける。
(この会話、前もどこかで)
そう、前にリーベラを助けに来てくれた時と同じような状況で。
「残念ながら、兄上。確かに貴方にも気の毒な点はあるし、同情もするべきなんでしょうが――そもそも俺は、周りと同じく貴方に興味がない。貴方の異変を理解してくれる師匠がいて、本当に良かったですね」
「……何が、言いたいのかな」
「ためらいはしないって言ってんですよ。身の上話を聞いたところで、あんたのやったこと、人につけた傷跡は消えない。俺たちの出した結論は変わりません」
そしてアドニスは、アレスに向かって身を屈め、兄と同じ空色の目を眇めた。
「……兄上。貴方には王位を退いても、王城でこれまで通り仕事には関わってもらいます。勿論会議にもね。――ま、特別顧問みたいなもんです。貴方は仕事だけはちゃんとやってましたから」
「……何?」
あまりに予想外だったのか、ここに来て初めてアレスの顔に動揺の色が走る。そんな彼に、アドニスは末恐ろしい笑顔と共に畳みかけた。
「勝手にこのまま貴方の望み通り、死なせも退却もさせませんよ。――生きる方が、辛いんです。人間の世界で生きて、利用され、嘘や上辺に翻弄され、苦しい思いをする方がずっと辛い。そう、いま貴方が絶望を感じている通りに」
「……」
言葉を失ったアレスに、アドニスは容赦なくにこりと微笑んだ。
「上の人間は俺の提出したこの前の証拠で、貴方の所業を知っています。その状況で、針の筵と実権のない席に座り続けながら、貴方の手の届かない場所で師匠が幸せになる姿を見て――自分のしでかした罪を一生抱えたまま、どうぞ死ぬまで生きてください」
――「簡単に楽に死なれちゃ困るから、起きてもらわないといけないんです」。
アドニスが前にそう、言っていた理由は。
「ま、簡単に言うと一生死ぬまで許さないから覚えてろ、ってことだね」
そう言いながら、今度はオルクスがゆらりと立ち上がる。リーベラが止める間もなく、彼は懐から出した紙をアレスの前に突きつけた。
「――ということで、アレス元陛下。僕たちはこれからこの書類を行政府へ提出してくるので、そろそろお暇を」
オルクスの出した紙の材質に見覚えのあったリーベラが目を見開く前で、アレスが今日初めて笑顔をその顔から消し、苦い顔を見せた。その顔に無理やりと言ったように笑みを浮かべながら、彼はオルクスをため息交じりに見遣る。
「地獄をこのまま生き続けろと言った上に、これか。本当に容赦がなくて――そして歪んでるね、君たちは」
「お褒めに預かり、光栄です。……行こうか、リラ」
呆気に取られるリーベラの手を握り、オルクスが外に出ようと有無を言わさぬ笑顔で促してくる。視線を移せば、「それしか頭にないんですね」と呟く呆れ顔のアドニスと、こちらを虚空の瞳で見つめるアレスの姿があって。
先ほどから頭を悩ませる割れるような頭痛と闘いながら、リーベラが口を開きかけると。
「……師匠。まさか兄上に同情したとか、甘いこと言うんじゃないでしょうね?」
目を眇めたアドニスが、リーベラが言葉を紡ぐより先にぴしゃりと言葉を吐いた。
「先に言っておきます。全ての権限は俺にある。ーーこれは、俺の復讐の一環でもあるんです。あんたに邪魔されちゃ困るんだ」
「アド」
「オルクス殿、俺は兄上と今後について話すことがあるので、早く師匠を連れて出てください」
「ああ、言われなくとも。リラ、早く行こう」
素っ気ない調子でアドニスが狐の微笑みを浮かべ、リーベラたちに背を向ける。その背中と、早く出ようと急かしてくるオルクスを前に、リーベラは言葉を詰まらせた。
そう。ことは、リーベラとアレスのことだけではない。彼らとアレスの間にも因縁はあって、それに対してリーベラが口を挟む権利は、ない。
ーーそんな状況で、何が言える。
けれど。
そう、言わなければならないことがあった。
これだけは、アレスとリーベラの間の問題の話だ。
「……アレス、陛下」
言葉に迷いつつそう呼びかけると、彼はぴくりと反応して「何かな」と薄く微笑んだ。
その顔は、何かを諦めきった顔つきで。
――リーベラの胸に、えも言われぬ気持ちがせり上がる。
彼に対する色々な感情が迷子になって、胸につかえて。
そしてただただ、彼が今までしてきたこと、背景、そうせざるを得なかった境遇、全てが切なくて苦しい。
なぜなら、思わずにはいられないからだ。
もし自分が、出会うべき時に出会う人と会っていなかったら。
もし自分の傍に、誰もいなかったら。分岐点が違えていたら、自分はどうなっていたのだろうと想像して。
――そしてもし、自分が王の異変と気持ちに気づけていたならばと、「もし」を考えずにはいられないけれど。
「リラ?」
優しく促しながら手を握ってくれる、一番大事な人の手の温かさがここにある今。
「もし」があったとしても、きっと自分は変わらず、オルクスを追いかけていたという確信がある。
「……もっと早く気づけなくて、そして同じ温度で応えられなくて、ごめんなさい」
出てきた言葉はあまりに平凡で、自分でも呆れてしまうけれど。
そう、これは世界中どこでも繰り広げられている、想いを相手と同じ温度で返せない、2人の間の謝罪の言葉だ。きっと、ありふれた風景の一つ。
人の気持ちは、自由に遣り取りしていいけれど。
想いを、同じ温度と質量で返せるとは、想いを通じ合わせることができるとは限らない。むしろ、想いが通じ合う確率の方が低いかもしれなかった。
「――いいや。君だけは気づいてくれて、ありがとう」
偽りも、取り繕った様子もない声音の言葉が、アレスから掠れ声で返ってくる。
その横でオルクスがドアを開け、リーベラの背中をやんわりと押して。
「……さよならまたね、リーベラ」
アレスのその声を最後に、目の前で部屋の堅牢な扉が、ゆっくりと閉まった。
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