4-2.オルクスの手
遅くなってしまって本当に申し訳ございませんでした…!
久しぶり(?)のオルクスです。どうかお楽しみいただけますように…!
「……今、なんで」
オルクスの小さな声が、すぐ後ろで聞こえる。リーベラはその場に棒立ちになったまま、一瞬思考停止した。
(……うん、呼び止められたんだから、振り向かないと)
振り向くのにすら、一大決心だ。ギギギと振り向こうとすると、オルクスが「シャロン、そのタオル貸して」と言うのが聞こえた。
「……髪、まだ濡れてる。ちゃんと乾かさないと風邪ひくよ」
彼の声と共に、ふわりとしたものが頭にかかる。白くふわふわの、大きめのタオルだ。
タオルが被せられるや否や、その上から髪をそっと撫でるように拭く感触が伝わってきて、リーベラはカチコチに固まった。
そんなリーベラの隣を、シャロンが平然と一礼をした後、きびきびと歩き去っていく。
「シャ、シャロンさん……!」
このどうしたら良いか分からない状況で、置いていかないでほしい。そう勝手すぎることを思いながらリーベラが一歩踏み出すと、シャロンは一度立ち止まって珍しくにこりと微笑みを浮かべ、一礼を残して去って行ってしまった。
「リラ、髪が傷むからじっとしてて」
さわさわと細やかに、柔らかく髪を拭かれる感触がこそばゆい。半ば混乱しながら、「あの」とリーベラは口を開いた。
「じ、自分でやるから。大丈夫、ありがとう」
「……」
頭の上で、手が止まる。一拍置いた後、リーベラの肩にぱさりとタオルがかかった。
「――分かった」
そう言いながら、オルクスの手が離れていく。
同時に彼の手が持つ熱が頭からすうと引いていき、一抹の寂しさをも感じてしまう、この矛盾。
(……自分から断っておいて、いざ離れられると寂しいなんて)
つくづく自分の身勝手さが、嫌になる。
胸を締め付けられるような感覚を誤魔化すように、リーベラは肩にかけられたタオルの端を、ぎゅうと握った。
「……リラ」
「ん?」
隣に来たオルクスに再び呼びかけられ、少し目を上げる。視界の隅に差し出された右手のひらを捉えて、リーベラはゆっくりと首を傾げた。
これは何の、手だろう。
「……」
恐る恐るオルクスを見上げると、彼は神妙な顔つきでこちらに手を差し出していて。じりじりと、何かを値踏みするような、試すような、熱心な視線が突き刺さるのを感じながら、リーベラはその手に目を戻した。
(これは、何の試しだろう)
「……手を、くれないか」
数秒間の沈黙の後、オルクスが低い声で囁いた。リーベラはそろそろと、おっかなびっくり口を開く。
「……? 手を落とせと?」
痛みは感じないが、それはちょっと流石に嫌だ。
何の要求なんだと考え込んでいると、「ふ」とオルクスの笑みを含んだ声が聞こえてきて、リーベラは思わず顔を上げた。
「そんな物騒な要求、しないよ」
先ほどの囁くような笑い声は幻だったのか、少し掠れ気味の声を落としながら、オルクスがぎゅっと眉根を寄せていた。
どうやら答えを間違えたらしい。また失敗してしまったと、リーベラは俯いた。『正しい』反応の仕方が、分からない。
「……ごめん」
「……何で謝るの。ごめんはこっちだ」
彼は何を、謝っているのだろう。まさか、「王女との婚約が近いから、けじめのために君と距離を置くことにした」とか、「君との人付き合いをやめる」とか、そんなことでは――
「――手を」
「へ?」
「……手を乗せて、ほしい」
絞り出すような掠れ声で言われ、リーベラはそっと彼の様子を窺おうとする。彼が何を考えているのか、分からなくて。
そうして意を決して、目を上げて。
息を、呑んだ。
――彼がじっと、真剣な目でこちらを見つめている。
熱がこもった、何かを切々と訴えかけるような、眼差しで。
「……っ」
その目を見た瞬間、何も考えられなくなってしまった。
まるで熱に浮かされたかのように、全身がとぷんと温かい湯の中に包まれたような心地がした。
(……手を、乗せる?)
視線で促されるがままにふらふらと、リーベラは彼の方へ歩み寄る。
――目の前に、あれほど昨日切なく焦がれた、オルクスの温かい手がある。
いつも、彼しか呼ばない愛称を呼んでくれながら、優しく自分にそっと触れてくれていた手が。
――触れて、いいのだろうか。
そろそろと少し震える手を、彼の手に向かって伸ばす。ぼうっとした心地のまま。
そして、彼の手にもうすぐ近づくというところで我に返る。
(……いや、これは絶対、よくない)
昨日会った、王女のことを思い出す。自分のところまで訪ねてきて、「オルクスの元に戻らなくては」と言っていた、あの美しい王女を。
――駄目だ。自分は、身の程を知るべきだ。
触れるべきではない相手に、手を伸ばしてしまうなんて。
完全に、先ほどまでの自分は正気を失っていたとしか思えない。まるで自分が、自分でなくなってしまったかのようだった。
――そう、自分はこの手に触れるべきじゃない。この手は、近い将来、他の誰かに優しくそっと触れる手だ。
自分を叱咤し、張り裂けそうな胸の痛みを抱え、ぴたりと空中で止めた手を、ゆっくりと下げ――
瞬間、何にも触れずに終わるはずだった手を、オルクスの手がそっと受け止めた。
慌てて身じろぎし、手を引こうとすると、オルクスの指が少し動いてリーベラの手を引き留める。
――そのまま彼の指がぎこちなく動いて、リーベラが置いた手を包み込むように握って。
じんとした甘い痺れが、手を起点に腕へと駆け抜け、体全体に伝わった。
「……行こうか。朝食にしよう」
そのまま彼は何も言わずに、ゆっくり歩き出した。
――私、なにやってるんだろう。昨日、さよならの練習をしないとなんて、思ってたのに。
なのに、一度握られてしまった手が離せない。リーベラは彼に引き寄せられながら、のろのろと歩き出した。
「……リラ。昨日は、ごめん」
しばらく無言で歩いていると、オルクスがぽつりと呟いて。
瞬間、リーベラの手はぴくりと震えた。
――昨日。昨日、あった、ことは。
(どうしよう、聞きたくない)
美しいロイヤルブルーのドレスを身にまとったたおやかな王女を思い出して、リーベラの背筋が強張った。
――言わないで、言わないで、言わないで。あの王女様とのことを、言わないで。
叫びたくなるような気持ちを堪えながら、リーベラは彼の手が与えてくれる温もりに集中しようとして。
「昨日、僕があまりに動転してて。……リラ、夜ご飯食べてないだろ」
「へ、あの」
予想外のことを言われて、リーベラはじわりと目を丸くした。あまりに色んな事がありすぎて、夕食のことなど、頭からすっかり抜けていた。というか食べていないことすら忘れていた。
「なんだ、そんなこと。忘れてた」
「……『そんなこと』じゃ、ないんだよ」
リーベラの手をぎゅっと握り、オルクスが立ち止まる。その瞬間に走る、手を握られた瞬間の甘い痺れ。リーベラはくらくらとしながら、ぼんやりと彼の顔を見上げて立ち止まった。
「食事は、生きてく上で必要なことだ」
「いや、でも別にそんな」過去、食事を取れないことなんて幾らでもあった。一食ぐらいどうってことないし、むしろ何もしていないのに食事まで世話になっているのだ、過ぎた待遇と言えよう。
「――リラ、頼むから」
悩まし気な顔をしながら、オルクスが掠れ声でリーベラを見下ろした。
「僕が言うのもなんだけど、ちゃんと食べて。……でないと、不安だ」
「不安? 何が」
「――君が、ちゃんと生きてるかどうか」
一足飛びに、生死の心配になっている。リーベラは戸惑いながら口を開いた。
「そんな大げさな。大丈夫だよ、私はしぶといから」
「……どの口が、言ってるんだ」
語尾を少し震わせながら、オルクスが呟く。俯いていてその表情は読めず、リーベラはすっかり立ち竦んだ。
「オ、オルクス……?」
「――それから」
俯いて立ち止まったまま、オルクスがリーベラの左手を更に下から強く握った。
「……お願いだから、地下室には行かないで」
「地下室……ああ」
リーベラははっと思い出す。
――そうだ、地下室。それで昨日オルクスと揉めたけれど、もうその懸念点は解消されたのだった。
「ごめん、あれは私の勘違いだった。もう行きたいとか、言わないから」
「……本当に?」
「うん」
「……そう。なら、良かった」
大きくため息を吐き、オルクスは再び歩き出す。
――なんだか今日は、オルクスが変だ。随分と元気がない。
(……でも、優しさは変わらない)
完全な厄介者の自分の心配をしてくれて、こうして手を引いてくれて。
リーベラの歩調に合わせてゆっくり歩き、時折様子を窺うようにそっと向けてくれる視線が、彼の優しさが嬉しくて。
そっと優しく、でもしっかりと手を握ってくれる彼の手のぬくもりが、切なくて嬉しくて。
――全然、こんなんじゃ覚悟が出来ない。さよならが言えない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
「さよなら」を言う瞬間を思い浮かべるだけでも、ひくりと喉が震えて。
――近いうちに別れの期限が来てしまうのに。少し手を触れ合わせて歩くだけでも、こんなにも離れがたい。
いつからこんなに自分は、弱くなってしまったのだろう。
いけないことだと分かっていながら、オルクスの手の温もりを感じて。リーベラはそっと、唇を噛み締めた。
ご評価、ブクマ、「いいね」、本っ当にありがとうございます…!
嬉しい…嬉しい…!(嬉しさを噛み締める)
これからも楽しんでいただけるように精一杯頑張ります!
どうかお付き合いいただけますと嬉しいです!




