1-4.婚約話と最後の挨拶
「君、なんだか変だよ。おかしいのはいつもだけど、今日はそれに輪をかけて様子がおかしい」
「お前は本当に、いつも一言二言多いな」
肩を落とし、リーベラは俯いて額に手を当てる。先ほどまでは驚きの連続で一時的な緊張状態にあったのだろうか、今になって疲労感が全身に滲み出てきていた。
冷静になってみれば、いや冷静にならずとも、おかしな状況ばかりなのだ。
身に宿した魔物が覚醒してしまった弟子を封印し、100年後人間に戻った状態で目覚めるよう魔法をかけ。その代償に、自分は死ぬはずだった。
死ぬはずだった自分。なぜか1人だけこの場に残り、しかも年齢が逆行してしまった自分。
――なぜ、なぜ、なぜ。
「何で、私だけ……」
ポツリと呟いた言葉が、実感のなかった自分の感覚に一雫の穴を開ける。それは、じわりじわりと自分の心を蝕んでいく感覚。
手足が冷え切っていくような感覚。
奈落の底へ、落ちていくような――……。
「リラ」
ふと腕を引かれて、リーベラはハッと我に返る。顔を上げてみれば、オルクスが表情の読めない目でこちらを見下ろしていた。
「とりあえず、靴と服を買いに行こう」
「え」
「いいから、早く」
オルクスの白手袋にぐいと腕を引っ張られ、リーベラは半ば引きずられるように歩き出す。
「いやあの、私は」
「そのままの格好だと、みすぼらしくて見てられないよ。折角元が良いのに台無し」
「……」
いつもの、貶すような言い草だ。リーベラはそれに反応せず口をギュッと結び、ふっと歩みを止めた。
「……私は、やっぱり行けない」
――そう。動転するあまり、どうかしていたのだ。アドニスのことをすっかり忘れて笑うことなど、決してできない。してはいけない。
(私だけでも、側に居ないと)
たとえ、どんな凶悪な存在だったとしても。彼と共に過ごした日々は確かにそこにあったのだから。
『師匠!』
目を閉じれば、まだアドニスの声が聞こえる気がするのだ。まだ平和だった頃の、あの日々の声が。
――100年後、彼が目覚める頃にはリーベラはこの世にもういないだろう。二度と、会えないのだ。
それまで彼は、一人きりで眠り続ける。
「……そう。じゃあ、仕方ないね」
呟く声と共に、オルクスが腕を離す。リーベラが頷き、踵を返そうとしたその時だった。
「そんじゃ、ちょっと失礼」
声と共に、リーベラの首の後ろ側へ唐突な衝撃が訪れる。
「オルクス、お前……」手刀でやられたのだ、と思った瞬間には、意識が完全に朦朧としていて。
「ごめんね、少しの間お休み」
――そういえば、こいつに体術で勝てたことは一度もなかった。
正確無比な手刀の威力に歯噛みしつつ、リーベラの意識は闇の中へと完全に落ちて行った。
*****
『僕もそろそろ、身を固めないといけないっぽくてさ。もう周りがうるさいのなんの』
――「ああ、これは夢だ」とリーベラは思う。
実際に現実に起こったことを繰り返し見る類の、夢。
「あの時」のことを、リーベラはきっと、いつまでも覚えているだろう。
忘れたくても忘れられなくて、ふとした折に思い出してしまう、思い出したくもない記憶。
オルクスの言葉を、あの時リーベラは彼の屋敷のソファーの上で、彼の目の前で聞いた。
『そうか。ま、その歳で独り身じゃあ、言われもするだろうさ』
『君に言われたくはないね、リラ』
紅茶を傾けながら、黒髪に碧い目の青年はその整った顔に苦笑を浮かべる。黒に金糸の刺繍が施された騎士服を優雅に着崩し、茶を楽しむ姿はさすが貴族と言ったところだ。
同じ色合いでも、魔女のローブに身を包むリーベラとは雲泥の差である。
豪奢な客間に、身がすっと沈みこむほどふかふかのソファー、そしてマホガニーのテーブル。その全てが上品かつ、それに囲まれている本人にマッチしている。
リーベラは知っている。オルクスは引く手数多の社交界の人気者だ。公爵家、そして王国の守護の要・第二騎士団の筆頭騎士という、おいそれと手出しできない家門と身分ではあるが、彼の心を射止めて嫁入りをしたいという娘は数知れず。
この美貌と実力、そして上辺の人の良さでは当たり前だろうな、とリーベラはぼんやり思った。
『私とお前じゃあ、前提条件が違う。引く手数多のくせにのらりくらりとかわしているのはどこの贅沢者だ?』
『お、分かってるじゃないか。偉い偉い』
『キツい攻撃、一発お見舞いしてやろうか……?』
リーベラは仏頂面で、手に持っていたシェリー色の宝石を冠する杖をひょいと上に上げて見せた。
『ごめんって。さすがに君の攻撃には僕も勝てないよ、破滅の魔女さん』
『……』
『目が怖い。そう睨むなよ』
飄々と笑いながら、オルクスが紅茶のカップを置く。リーベラはため息を吐きながら杖を下ろした。
『……で? 式はいつだ? 流石にお祝いくらいは私もしよう』
自分から言いながら、胸の奥が少し軋んでいくのをリーベラは感じる。
そう、ほんの少しだけ。ほんの少しだけだ。
何も悟らせてはならない。心残りを、残してはいけない。
――自分は今日この後、この世から姿を消すのだから。
『気が早いな、まだ何も決まってないよ。……でもそうだな、婚約は近々済ませようと思ってる』
『そうか。そりゃめでたい』
リーベラは紅茶を啜って僅かに顔を顰める。冷めてしまった紅茶は苦い。
『ねえ、リラ。君はどう思う?』
『何が?』
ふと投げかけられた質問に、リーベラは顔を上げる。先ほどと同じような飄々とした態度で足を組み直しながら、彼女の幼馴染の騎士様はこともなげに言った。
『僕がいよいよ身を固めようとしてること』
『いいんじゃないか。――幸せになるよう、祈ってるよ。憎ったらしい腐れ縁でもね』
『そうか。ありがとう』
オルクスはにっこりと微笑んで紅茶を啜る。もう会話は終いらしかった。
――これが最後か。まあ、ある意味心残りがなくていいかもな。
リーベラはぼんやりとそう考えた。婚約した幼馴染の幸せそうな姿を見ないでいられるだけ、マシかもしれない。
実のところ、彼の結婚生活の『幸せを祈る』気には到底なれそうになかった。
『オルクス、私は帰る』
『ん? ……ああ、もう行くの? 気をつけて』
『ああ、じゃあな』
短く答え、リーベラは踵を返す。
話はそれきり。それが最後だった。
*****
――あの時、私は何が嫌だったのだろう。
なぜ、胸の奥が軋んだのだろう。
何を『悟らせてはならない』と思ったのだろう。
「――オルクス様、これはどこに運べば?」
「ああ、そこに置いといて」
ふと、会話の声が聞こえる。リーベラは記憶の波からぼんやりと覚醒し、目を開けた。
「あ、起きた? 随分長い昼寝だったね」
目の前に、先程まで夢に出てきていた顔がある。リーベラはパチパチと瞬きし――次の瞬間、顔を背けた拍子に硬い地面に転がり落ちた。