1-12. おはよう、素敵な一日の始まりを。
おはよう、おやすみ。
さよなら、またね。
行ってらっしゃい、おかえりなさい。
――人には、さまざまな挨拶のカタチがある。
そして『挨拶』には、必ず一つの条件が常について回る。
――「挨拶をする、相手がいること」。
相手がいなければ、挨拶もできない。ただの「音」にしかならない。意味を、持ち得ないのだ。
「……朝か」
挨拶が意味を持ち得ない屋敷の中で、リーベラは目を覚ました。窓の外はまだ仄暗い。
体を確認してみれば、やはり16歳へと若返った昨日と変わらず小さくなったまま。
こんな時だと言うのに習慣とは恐ろしいもので、いつも通り早朝に起きてしまったらしい。リーベラはのろのろとパッチワークを施したカバーのかかるベッドから下り、いつものように屋敷の2階から1階へと続く木製の階段を降りた。
「……そういえば、任務がない」
誰にも聞こえることのない呟きが、宙に浮く。リーベラはぼんやりとダイニングルームに入ったところで立ち尽くした。木製の大テーブルが部屋の真ん中に置いてある、キッチンへと続く部屋。ドライフラワーやリース、リーベラが使う薬草などが壁にかけられたり並べられたりしていて、いつもながらに乱雑な雰囲気を与える部屋である。
この部屋は、こんなに広かったろうか。
「とりあえず、朝食を作るか……」
胸にぽつんと、よく分からない空っぽの箱があるような感覚が引っかかる。リーベラはそれに直面するのを避けるようにして、キッチンへと向かった。
早速朝食を作るべく、リーベラは戸棚をごそごそと探り、朝食の準備を始める。
今は何も、考えたくない。料理はそんな時にうってつけの作業だった。
小麦粉に砂糖、卵にベーキングパウダー、そしてレーズンに紅茶の葉。湯を沸かし、大量に作り置きする目的で紅茶を淹れ。大量のレーズンを手に取って容器に移し、砂糖と共に紅茶の一部に漬け込む。
その間にクランペットを焼き、先ほどの紅茶に漬けたレーズンに卵と小麦粉、そしてベーキングパウダーを混ぜ合わせて縦長の焼き型へ。それをオーブンに入れたところで、リーベラは気づいた。
「……作りすぎた」
一人で食べるには、多すぎる量。無心で作っていたので、無意識にいつもの量を作ってしまっていた。
――これから、一人きりの生活になるというのに。
胸に空虚な箱が引っかかるような感覚がまた出現し、膨らんでくる。ちょうどその時だった。
けたたましく、リーベラの屋敷の呼び鈴が鳴った。リーベラはゆっくりと首を傾げる。
「……なんだ?」
いつもであれば杖を構えながら扉に一直線に向かうところであるが、今のリーベラは役立たずの魔女だ。それもできず、リーベラは二階の寝室まで俊敏に駆け上がる。そして呼び鈴を鳴らした人物を確認すべく、寝室の窓を開けて下を見下ろした。
「おはよう、リラ」
声を少し張って呼びかけてくる騎士服姿のオルクスと、ばっちり目が合った。その後ろには同じく騎士団隊服のデルトスと、それからリーベラの知らない、町娘姿の茶髪の少女が立っていた。
「……オルクス? どうした」
一体全体、何事なのか。まだぼんやりとした頭でリーベラが首を傾げていると、オルクスは「入ってもいい?」と懐からリーベラの屋敷の鍵を出した。そういえば、まだ鍵を返してもらっていなかったのだとリーベラは思い出す。
「入ってきていい。すぐ行く」
「りょーかい」
ガチャリと、屋敷の扉が開く音がした。リーベラは身を翻し、階下へ続く階段を駆け下りていく。
「やあ、リラ。おはよう、元気?」
「……おはよう」
オルクスからの二度目の「おはよう」は、なんだか笑顔の圧がすごかった。
リーベラは挨拶を返しながら、まじまじとオルクスの顔を見上げる。朝から見るには眩しい顔だ。その眩しい顔から眼をそむけて彼の背後へ視線を向けると、「おはようございます」と頭をかくデルトスと、初対面の少女が見えた。
白く清潔なシャツに、深緑色のワンピース。顔回りを軽くカールしながら縁取るブラウンの短めの髪の毛に、明るい大きな翠の瞳。顔は小さく引き締まり、バランスよく鼻筋の通った小さい鼻と、薄い唇を有するその少女は、リーベラを見るなり口に手を当てた。
「うっそ、もんのすごい美少女! オルクス様、この子ですか!?」
はきはきと良く通る明るい声に気圧されて、リーベラは軽くのけぞる。一方のオルクスは苦笑しながら「そう」と短く言った。その隣で、デルトスが半ばあきれ顔で少女を見遣る。
「フローラ、初対面からはしたないぞ。頼むぞ、ちゃんとしてくれよ」
「あああ、すみませんでした。初めましてお嬢様、フローラ・ヴィ・シュナイダーと申します」
茶髪の少女が微笑みながら、リーベラへ向けて礼儀正しく一礼をする。つられてリーベラも「は、はじめまして」と頭を下げた。
そして一拍遅れて、また首を傾げる。
「……ん? シュナイダー?」
「彼女はデルトスの妹さんだよ。今日から君の薬草屋の、店員さん」
「……!?」
色々と話が飛んでいる。涼し気にこちらを見下ろす幼馴染の騎士に向けて、リーベラは口をぱくぱくと開け閉めするのだった。




