第1幕 【愛美(つぐみ)と愛美(まなみ)】 / 第7節
――それからしばらくして、ガラガラと扉をスライドする音が聞こえた。黒崎が戻ってきたらしい。
「それでは皆さん、私にちゅうも~く! みんなが待ちに待った転校生を紹介します! それでは、入ってきてください!」
そんな黒崎の元気なコールの後に、教室の中でペタペタと軽やかな音が聞こえてきた。そしてそれと同時に、教室中がなぜか不自然なくらいにざわつき始めた。
顔を埋めて居眠りをしていた俺は何事かと思い、重たげに顔を上げる。そして、外していた眼鏡を再びかけ直し、みんなより少し遅れてその少女を視界に捕えた。
その瞬間、俺の眠気が一気に吹き飛び、真っ先に自分の目を疑った。
(あれっ? あの娘って確か、今朝公園のベンチに座っていた――)
「――皆さん、初めまして。“しのさき まなみ”です。隣町の聖姫学院高校から転校してきました。これからよろしくお願いしま――…、あっ、そういえば名前をまだ書いていませんでしたね!」
そう言って、少女は慌ただしく黒板の方に身体をくるりと反転させる。そして、チョークを手に取り、慣れた手つきで自分の名前を書き始めた。
カツカツカツカツッ――。黒板に少女の綺麗な文字が刻まれていく。
俺は頬肘をつきながら、無意識のうちにその少女の書いた文字を目で追っていた。
え~っと、意志の“志”、乃○坂の“乃”、武○咲の“咲”。
――んっ、愛……美?
その名前を見たとき、俺はしばらくそこから視線を外すことができなかった。なぜなら、読み方は違えど、彼女の名前の漢字が妹と全く一緒だったから。
彼女は自分の名前を書き終えると、ふうと小さく一息つく。そして、再び正面を振り返り、
「みなさん、改めてよろしくお願いします」
と、クラスのみんなに向けて深々と一礼。すると、教室中から異様なくらいの拍手が沸き起こった。
「志乃咲さん、素晴らしい自己紹介ありがとうございました! みんな、志乃咲さんは転入してきたばかりで慣れないことが多いと思うので、積極的にいろいろ教えてあげてくださいね。え~っと、志乃咲さんの席は~…」
黒崎は手元のクラス名簿を手に取り、名簿を指でなぞりながら志乃咲の席を探す。
「あっ、あった! この列の奥から三番目の…、東雲君の前の席ですね!」
そう言って、黒崎は俺の前の席を指さした。
(えっ、よりによってここ? てっきり病欠だと思っていたけど、俺の前の空席の意味はそういうことだったのか…)
「はい、わかりました」
志乃咲は自分の足元に置いてあった黒いショルダーバッグを肩に掛け、ゆっくりと俺の方へ歩いてくる。そして、目の前の席に着くと、そっと静かに座った。
彼女からふわりと広がる淡い香りが、俺の嗅覚を刺激する。彼女とは初めて会ったはずなのに、俺はその香りに不思議と懐かしさを覚えた。
志乃咲は着席後、俺の方をチラりと振り返り、
「東雲君、また会ったね。これからよろしく」
と、目元にかかった前髪を指先でそっと払いながら、小声で声をかけてきた。
「あ、あぁ…、よろしく――」
俺はまだ頭の整理が追いつかず、動揺したままとっさに空返事を返す。
よりによって今朝に公園で会ったこの娘が、大輔の言っていた噂の転校生だったとは…。もう関わることはないと思っていたのに――
黒崎は志乃咲が座ったことを確認すると、
「とりあえず、これで無事にクラスの全員が揃いましたね。それでは早速ですが、新学期恒例の役職決めをしていきたいと思いま~す。まずは、メインの学級委員長と副学級委員長から。やりたい人は元気よく挙手!」
黒崎はセリでも始めるかのようにクラス名簿で教卓の縁をバンッと軽く叩き、元気な声を張り上げる。
――が、当然のごとく、クラスの誰一人として手を挙げるものはいなかった。さっきまでの温かな雰囲気とは一変、急に氷河期が訪れたかのような重苦しい沈黙が教室を包む。その様子に黒崎は困惑の表情を浮かべ、苦笑い。
(学級委員長なんてそんな面倒くさい仕事、進んでやりたいやつなんかいないだろ…。どうせいつも通り、担任の指名方式で――)
――なんて考えていた時、突然目の前の席からスッと手が挙がった。
「それじゃあ、私が学級委員長をやります!」
それを見た瞬間、真っ先に黒崎が安堵の声を漏らした。
「あぁ、よかった~。誰も手を挙げてくれないから、長丁場になるんじゃないかと思って心配していたんですよ~。私から一方的に決めるようなことをして、みんなから反感を買うのもなるべく避けたかったですし…。それじゃあ志乃咲さん、転校早々で申し訳ないけど、学級委員長をお願いしますね?」
「はい、わかりました。 私でよければぜひ!」
志乃咲は黒崎の期待に応えるように、力強く返事をした。
(へぇ~、転校早々に自ら進んで学級委員長に立候補するとか、世の中にはスゲーやつもいたもんだな…)
そんなことをぼんやりと考えながら、俺は目の前の少女の背中を関心のような、不思議な生き物を見るような、複雑な感情の入り混じった眼差しで眺めていた。
黒崎は再びコホンと軽く咳払いをすると、
「え~っと、次は学級副委員長についてなんだけど…、これはあえて挙手制ではなく、学級委員長の指名制で決めたいと思います!」
その瞬間、沈黙していたクラスが再びざわつき始めた。
「あっ、先に一つだけ忠告をしておくと、この中で誰が指名されても、もし不満があったとしても、今は心の中だけに留めておくようにお願いしますね? 新学期早々、せっかく私が作った良い雰囲気に水を差すようなことはしたくないので…」
そう言って黒崎は再び笑顔を作り、志乃咲に歩み寄ってきてクラス名簿を手渡す。その笑顔には明らかに多少の悪意が含まれているのが読み取れた。
(黒崎のやつ、余計なアイディアを…。とは言っても、下手に異性と組むよりも話の分かる女子と組んだ方が連携を取りやすいだろうからな。少なくとも異性の俺が選ばれることはまずなさそうだ)
不意に周りを見渡すと、志乃咲と密接な関わりを持ちたいのか、俺を指名してくれと言わんばかりに、手を合わせて天に祈りを捧げている男子生徒が大勢いた。しかし、そんな生徒たちを横目に、俺は興味なさげに頬肘をつき、ゆっくり瞼を閉じた。
――志乃咲は黒崎に手渡された名簿を見て「う~ん」と唸り、しばらく考えこんだ後、
「それじゃあ…、私は東雲君を学級副委員長として指名します!」
と、一声。
その瞬間、生徒の安堵と不満の溜息が教室中を包んだ。しかし、俺は軽く寝入ってしまっていたため、自分の名前を呼ばれたことに全く気がつかなかった。
「分かりました。それでは、東雲君に学級副委員長をお願いしたいと思います…って、東雲君? お~い、私の話、聞こえてますか~?」
俺がその事態に気がついたのは、後ろの席の女子生徒に何度かトントンと軽く肩を叩かれ、声をかけられてからだった。
「ねぇねぇ東雲君、先生が呼んでるよ?」
「――んっ? えっ、あ、あぁ…」
俺は訳も分からず、とりあえずは黒崎の方へ視線を移す。
「あの~、俺がどうかしたんですか、先生?」
「―――…。ど、どうかしたんですかって東雲君、天気がいいからってぼ~っとしない! たった今、志乃咲さんの指名で東雲君が学級副委員長に決まりました。よろしくお願いしますね?」
「へっ、お、俺が…ですか…?」
俺は少しの間、自分の身に起きた事態を飲み込むことができなかった。
――なんでよりによって俺なんだ? 俺とこいつとの接点っていえば、今朝に公園のベンチでほんの少し話したくらいだし…。
(いや、まさか…、たったそれだけの理由で俺を? そんなしょうもない理由で、俺の平穏な高校生活を狂わされてたまるかよ!)
「先生、お言葉ですが俺は―――」
俺は勢いよく席から立ち上がり、黒崎に反論しようとした瞬間、
「東雲君! 確かにいろいろと腑に落ちないことはあるかもしれません。その気持ちは私もよく分かります! ですが…、事前にお伝えした通り、今のクラスの雰囲気を壊さないためにも、私に免じてここは一つ頼まれていただけませんか?」
溜まりに溜まった不満をぶつけるよりも先に、黒崎が発した覇気の籠った言葉に釘を刺されてしまった。
「―――…。は、はい、分かり…ました…」
黒崎にあっけなく牙を折られて戦意喪失した俺は、渋々了承して席に座る。周りからは空気を読めない俺に対する蔑みと哀れみの視線が注がれ、あまりの気恥ずかしさに心が押しつぶされそうになった。
(――な~にが“その気持ちは私もよく分かります!”だよ。だったら、元からこんなことするんじゃねーよ、ったく…)
「ふぅ…。少々取り乱してしまいすみませんでした。とりあえず、学級委員長と学級副委員長が無事に決まったので、次に書記を決めていきたいと思いま~す! では、書記の人は―――」
この後、意外にもクラス、委員会の割り当てが思った以上にスムーズに決まっていった。みんな、何かを取りまとめることはゴメンだが、誰かに従うほうにはあまり抵抗がないらしい。とはいえ俺も、本来だったらそっち側の人間だったはずなのだが…。
学級副委員長に任命された後、最初はいらだちを感じていた俺だったが、委員会の割り当てが終わるころには諦めへと変わっていた。
その後、黒崎から今後の進度のことについて説明されて、始業式で体育館に召集されて…。
そんなかんじで新学期初日の午前中はあっという間に過ぎていった。