第1幕 【愛美(つぐみ)と愛美(まなみ)】 / 第3節
――あの日以来、俺たち家族の歯車は大きく狂っていったんだ…。
交通事故直後、大けがを負った愛美はすぐさま近くの病院へと運ばれ、緊急手術が施された。だけど、交通事故による脳へのダメージが相当深刻だったらしく、施術後も危篤状態のまま、予断を許さぬ状況が続いた。
そして闘病の末、二日後に入院先の病院であいつは静かに息を引きとった。
事故を起こしたワゴン車は愛美を跳ね飛ばした後、そのまま近くの電柱に激突。運転手は救助されて何とか一命をとりとめたものの、乗っていた車が炎上し、地元のニュースに大きく取り上げられるほどの大事態となった。
あとから聞いた話だと、事故の原因は暴走車を運転していたドライバーが過剰な飲酒で錯乱し、正常な運転ができていなかったことだったらしい。
テレビの中では日常茶飯事のように取り上げられている交通事故。会見でたくさんのカメラを前に、親族を亡くした悔しさに涙をにじませる遺族。そして、己の罪を悔いて憔悴しきった加害者。
テレビ越しに同情しながらも、俺にはどうしても他人事にしか思えなくて、あの頃は“どうせ自分には無縁の話だろう”と信じて疑わなかった。
それがまさか現実のものとなって俺ら家族の身に襲いかかろうとは、いったい誰が想像できたというのだろう…。
「――っ…。僕が、あの時、ちゃんと、引き止めて、いれば。そもそも、僕が、あんな、思い付き、を、しなければ…、愛美は‼」
――愛美が旅立った日の夜、僕は自分の部屋に鍵をかけて閉じこもった。そして、照明もつけずにすぐさま枕に顔を埋め、とめどなく溢れてくる涙とともに、何度も何度も自分を責めた。
悔しさと悲しさと自分への不甲斐なさと…。複雑に入り混じった感情が僕の幼い心を容赦なく蝕んで、今にも自分が壊れてしまいそうだった。
「歩夢、ちょっといいか?」
――閉じこもってから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。コンコンという軽いノックの音とともに、扉の向こうからお父さんの声が聞こえてきた。
「―――…」
しかし、泣き疲れていた僕は返事をする気も起きず、無言のまま涙と鼻水で湿った枕に強く顔を押し付ける。
今の僕に構わないでくれ…。本当は誰かに慰めてほしいはずなのに、今はそう願わずにはいられなかった。
不意に開いていた窓からそっと風が入り込み、カーテンをひらひらと揺らす。そのカーテンの隙間からは月明かりがほのかに差し込み、波のようなゆらゆらと幻想的な幾何学模様を壁に演出していた。
しばらく僕が返事をしないでいると、お父さんは諦めたように深く溜息をつき、
「はぁ…。なら、そのままでいいから聞きなさい。愛美が死んだのは、二人だけで買い出しに行かせてしまった父さんにも責任はある。もしもあの時、俺がちゃんとついていっていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。俺は親として失格だな…」
扉越しにお父さんの力のない声が聞こえた。お父さんも僕以上に苦しんでいるのがじわじわと伝わってきて、僕はやるせない思いになった。その一言を言い終えた後、お父さんと僕の間に再び沈黙が流れる。
そして、
「――だけど、一つだけ勘違いしないでほしい。あの事故は不慮の事故であって、決してお前のせいじゃないんだ。だから、辛いのは分かるけど、そんなに自分を追い込んじゃいけない。愛美もきっとそう思ってるはずさ」
お父さんはいつになくゆっくりと、それでいて力強い口調で言葉を紡いだ。きっと、それが今のお父さんにできる僕への精一杯の気遣いだったのだろう。
しかし、そんなお父さんの優しさが、かえって僕の心をさらに傷つけた。
(どうして誰も僕を叱らないんだ。僕は悪い子なのに、愛美の命を奪うきっかけを作った張本人なのに…。怒られて当然のことをした僕に、どうしてこんな僕に優しくするんだよ!)
唯一、僕を叱ってくれるはずだった父さんにも同情され、悔しさで再び涙がこみ上げてきた。
「ぐずっ…、でも、だって、僕のせいで、愛美が…。いっそのこと、僕があいつの代わりになればよかったんだ‼」
抑えきれなくなった僕の心の叫びが、虚しくも薄暗い部屋中に響き渡る。僕はこのどうすることもできない感情を、ただ自分にぶつけることしかできなくて…。
愛美は僕ら家族にとってかけがえのない宝物で、だからこそ、愛美を失った悲しみは計り知れないほど大きかった。それはまるで大空を優雅に飛行していた鳥が、急に翼をもがれて地面に叩き落されるように。
「愛美…、ゴメン。ゴメンなっ―――…」
――それから月日は流れ、悲しみに暮れていた俺は周りに支えられながら、なんとか事故のショックから立ち直ることができた。
しかしあの日以来、俺の心にはどうしようもない大きな穴がぽっかり開いてしまって、それが癒えることは決してなかった。加えて、愛美の一件が大きなトラウマとなり、俺は自分の行いで周りの誰かを傷つけ、失うことが怖くなって…。
そうしたらいつの間にか、俺は家族以外の周囲の人間と少しずつ距離を置くようになっていた。
学生にも関わらず、学校以外で人と極力関わることを避け、ゲーム機やパソコンと時間を共にする毎日。明るくて積極的だった性格から一転、根暗で消極的な性格へと変わっていった。
そしてあの日を境に、俺だけじゃなく、親父や母さんも大きく変わってしまった。
愛美を失った悲しみを振り切るように、親父も母さんもひたすらに仕事に打ち込む日々。気づけば、二人も日常でほとんど笑顔を見せることがなくなっていた。
あの頃のようにリビングに集まり、家族みんなで楽しくわいわい会話をする時間は消滅し、今では必要最低限の会話をするだけの冷め切った関係に…。
――そして、そんな経緯を経て現在にいたる。