第1幕 【愛美(つぐみ)と愛美(まなみ)】 / 第2節
――話は十年前の今日に遡る。
「一年三組、東雲 愛美さん」
「はいっ!」
体育館中に愛美の元気な声が響き渡る。愛美のその声を聞き、壇上の校長先生は思わず目を細めた。
愛美は今日、小学校の入学式を迎え、晴れて小学生の仲間入りを果たした。
入学式の前夜、愛美は先日お父さんに買ってもらったピンクのランドセルを背負い、リビングで自慢げに家族みんなに見せびらかせていた。
愛美にとって、ずっと憧れだった小学生。明日からその仲間入りができることが相当嬉しかったようだ。
「愛美はね~、小学校で友達を百人作って、お兄ちゃんみたいにお勉強で百点をたくさんもらって、それから――――…」
目を宝石のようにキラキラと輝かせ、小学校での抱負を話す愛美の愛らしい姿を見て、家族みんなが自然と笑顔になった。
今年で二年生に進級する僕も、明日から愛美と一緒に学校に通えることがとても嬉しくて、これから愛美と僕が一緒に登校する姿を想像しながら胸を高鳴らせていた。
――しかし、まさにこの日。現実は前触れもなく牙を剥き、無残にも俺たち家族の幸せを奪い去っていくことになる…。
入学式を終えた日の夜、愛美の入学祝いと僕の進級祝いも兼ねて、家族で夕ご飯を食べに行くことになった。
「それじゃあ今回は入学式を頑張ったご褒美に、今日は特別に愛美の好きなものを食べに連れていってあげよう。さ~て愛美、何かリクエストはあるかい?」
お父さんはダイニングにある肘掛け椅子に深々と腰をかけ、穏やかな口調で尋ねる。すると、
「えっ、ホントに! やったー‼ 愛美はね~、こ~んのくらいの大きいパフェを食べたいな!」
愛美は座っていたリビングのソファーから勢いよく飛び上がり、ジェスチャーを交えながら無邪気に答えた。
「ははっ、そんな大きなパフェ、本当に愛美一人で食べきれるのかい?」
お父さんはニコニコしながら、からかい交じりに問いかける。
「大丈夫だもん。愛美、パフェだったらいくらでも食べられるよ!」
そんなお父さんの言葉をものともせず、愛美は腰に手を当てて誇らしげに答えた。
「そっかそっか、それはとても頼もしいね。なるほどね~、パフェか…」
お父さんはわずかに残っている顎ひげを指で撫でながら少し考え込んだ後、
「よし、わかった。それじゃあ、つい最近に隣町にオープンした、美味しいパフェがあるって評判のレストランにでも行ってみようか? 確か比較的遅い時間まで営業してたから、まだこの時間だったら開いてたはずだし…」
閃いたように指を大きくパチンと鳴らした。
「ただ、愛美がイメージしてるくらいの大きなパフェがあるかは分からないけどね?」
「えっ、そんなところがあるの? 賛成~!」
愛美はビシッと右手を挙げ、目を輝かせながら言った。お父さんの提案がよっぽど気に入ったようだ。
「愛美、良かったな!」
「うん!」
そう言って、僕と愛美は嬉しそうにハイタッチを交わす。
「りょーかい。ちなみに、ママもそれでいいよね?」
お父さんはゆっくり振り返り、後ろのキッチンで洗い物をしているお母さんに視線を移す。
「えぇ、もちろん。今日の主役は愛美だもの。愛美の好きなところに連れて行ってあげなくちゃ。あっ、もちろん歩夢も主役の一人だからね?」
お母さんはせっせと手を動かしながら、フフッと嬉しそうに微笑んだ。
「それじゃ、決まりだね。ほらほら二人とも、急いで支度をしなさい。お母さんの洗い物が終わったら、すぐ出かけるよ?」
「「はーい!」」
その後、僕らはお父さん愛用の黒いセレナに乗り込み、目的地のレストランへと出発した。
――車窓から見える景色は、隣町に近づくにつれて賑わいを見せ始めた。先ほどまであったはずの道路脇の街路樹は、いつの間にか光を帯びたオフィスビルや雑居ビルへと姿を変える。また、すれ違う車の数は次第に増え、気づけばその列は一筋の川のようにとめどなく流れていく。
先ほどまでとの景色の変貌ぶりに、僕は不意に胸を高鳴らせる。それはまるでアリスが突然目の前に現れた白い兎を夢中で追いかけ、その最中で意図せず不思議な国へ足を踏み入れているときのような、未知との遭遇。そして、不安と期待とが入り混じった感情。
その何とも言えない心地よい感情が僕の心を満たしていた。
それからしばらくすると“レストラン ファンタジア”と赤い字で書かれ、その文字を際立たせるようにアームライトでライトアップされた屋外看板。そして、きらびやかなイルミネーションで装飾がされた平屋の大きな建物が姿を現した。どうやらここが、お父さんの言っていたレストランらしい。
――が、その店はとても人気があるらしく、夕飯の時間帯をとっくに過ぎているにも関わらず、駐車場は満車だった。
「お父さん。車、停めるとこないね~。どうするの?」
愛美は運転席と助手席の間に身を乗り出し、不安そうな面持ちで尋ねる。
「そうだな~…。せっかくここまで来たことだし、とりあえず近くのコインパーキングに車を停めることにしよう。そこから少し歩くことになるけど、二人はそれでもいいかい?」
「うん、愛美は全然大丈夫だよ!」
「僕も!」
それを聞くとお父さんは小さく頷き、レストランからそのまま車を走らせる。そして、少し離れた場所で空きのあったコインパーキングに車を停めた。
コインパーキングから五分くらい歩き、ようやく目的のレストランへ入店することができた。しかし案の定、店内は予約待ちの人で込み合っていた。周りを見回すと、学生やカップルよりも家族連れの客が大半を占めている。きっと、今日はそれぞれ僕たちのように何かお祝いごとがあったのだろう。
僕たちに気づき、足早に駆け寄ってきた若い女性店員の話によると、待ち時間は早くても三十分はかかるとのこと。
「う~ん、早くても三十分…か。愛美、長い時間ここで待つことになるけど、どうする? もしお腹が減って我慢できないんだったら、別のお店でも―――」
「いやっ、愛美はここがいい! だってこのお店、美味しそうなパフェがたくさんあるんだもん!」
近くの壁に貼ってあったメニューの広告を見ていた愛美が、再び宝石のように目をキラキラと輝かせながら答えた。
「そっか…。うん、わかった。それじゃあ、愛美もそう言ってることだし、ここにしようか?」
「そうね、そうしましょう。いいわよね、歩夢?」
そう言って、お母さんが僕に視線を移してきた。
「僕は全然かまわないよ。愛美がいいなら、それで」
「わーい、やったー! みんな、ありがとう‼」
結局、僕たちは愛美の意見を尊重して、ここで遅めの夕飯を摂ることに。近くの予約表に名前を記入し、入口付近に設置されている長椅子に腰を掛けた。
――しかし、しばらくして頭を悩ませる問題が起きてしまう。
初めはおとなしく椅子に座って待っていた愛美だったが、身体を動かすことが大好きな年頃であるため、時間が経つにつれて待つことにだんだん飽きてきたのだ。
「うぅ~っ、つまんな~い! お父さん、あとどのくらいかかるの~?」
予定時刻の三十分を過ぎ、痺れを切らした愛美が足をぶらぶらさせながら、退屈そうな表情で新聞を読んでいたお父さんの顔を覗き込んだ。。
「うーん、それは父さんにも分からないな~。むしろ、父さんが教えて欲しいくらいだよ…」
そう言って、お父さんは人差し指で頬を軽く掻き、困った表情で苦笑い。そんな様子を見て隣に座っていた僕はとっさに、
「こ~らっ、愛美。お父さんを困らせちゃダメだぞ!」
と、お兄ちゃんとして愛美にビシッと注意した。しかし、そんな僕の言葉をよそに、愛美は全く反省した素振りも見せず、
「だって~、仕方ないじゃん。時間を過ぎても全然呼ばれないし、ただ座ってるだけってホントに退屈なんだもん! そういうお兄ちゃんだってそうでしょ?」
頬を膨らませながら不満そうにぼやいた。
「えっ、まぁ、僕だって退屈だけど…。でも、僕はほら、愛美と違ってお兄ちゃんだし、我慢するのには慣れてるからね。こんなの、全然へっちゃらだよ!」
僕は誇らしげにトンと軽く胸を叩く。本当は僕もこの退屈な時間にうんざりしている。だけど、お父さんやお母さんの前だし、ここはお兄ちゃんらしく威厳を示しておかないと。
「ふ~ん…。でも、お兄ちゃんも退屈してるんなら、愛美の事は言えないじゃん? だいたい『我慢するのには慣れてる』って言ってるけど、愛美と二人きりの時にはいつも愛美ばっかり我慢して、お兄ちゃんが我慢したことなんてほとんどないじゃん。別にお父さんやお母さんの前だからって、そんなに大人ぶらなくたっていいのにさ~」
不意に放たれた愛美の見透かしたような一言に、僕は動揺を隠せなかった。
「なっ…、べ、別に大人ぶってなんかないし! だ、だいたい愛美はさ―――」
愛美のちょっとした余計な一言が起爆剤となり、それから俺と愛美は人目を気にせず口論に。しかし、それを見かねたお父さんがすぐさま止めに入った。
「こらこら二人とも、ここで喧嘩するのはやめなさい。待っている他の人が迷惑してるだろ!」
落ち着きを取り戻した僕が周りを見渡すと、周囲は迷惑そうな顔を浮かべながら僕らに冷ややかな視線を向けていた。
お父さんは周りの人たちにペコペコと軽く頭を下げ、
「待ち時間がイライラしてるのは分かるけど、ちゃんと場をわきまえないとね。仕方ない…、歩夢、お父さんのために一つ、お遣いを頼まれてくれるかい?」
頭の後ろを掻きながら、ため息交じりに言った。
「まぁ…、別にいいけど。お遣いって、僕はどこで何を買ってくればいいの?」
僕はお父さんの唐突な頼みごとに、不思議そうに首を傾げる。
「そうだな~。たしか大通りを挟んで向かい側にコンビニが一軒あったはずだから、そこで小さいペットボトルのお茶を一本買ってきてくれないか? 呼ばれるのはまだ先になりそうだし、何よりお昼から飲み物をほとんど飲んでなかったから、お父さん喉がもうカラカラでさ~」
そう言って、お父さんは財布をポケットからおもむろに取り出し、千円札を一枚、僕に差し出してきた。
「あぁ、もし歩夢も喉が渇いているようなら、このお金で自分の分も一緒に買ってくるといい。ただ、あまり無駄遣いはしちゃダメだからね?」
「うん、わかった。僕に任せて! それじゃあ僕、ひとっ走りしてコンビニに行ってくるよ。お父さん、ちょっと待ってて!」
僕が椅子から立ち上がり、くるりと出口のドアの方へ身体を翻した時、
「え~っ、お兄ちゃんばっかりずるい! お兄ちゃんが行くなら、愛美も行く~! おとうさ~ん、いいよね? いいよね!?」
愛美も椅子から勢いよく立ち上り、ここぞとばかりにモノをねだる様な目でお父さんをじーっと見つめる。これにはお父さんもたまらず、
「えっ? あ~、わかった、わかった。そういうことで歩夢、悪いけど一緒に愛美の面倒もよろしくな」
と、笑顔であっさり承諾してしまった。ったく、本当にお父さんは愛美にはいつも甘いんだよな~。
「まったくも~、パパったら…。本当に二人きりで大丈夫? お母さんも一緒についていこうか?」
そう言って、僕の横に座っていたお母さんが心配そうに声をかけてきた。
「だいじょ~ぶ、だいじょ~ぶ! 僕らはもう小学生になったんだし、それくらいのお遣いなら二人だけでもちゃんと行けるよ。なっ、愛美?」
「うん!」
僕の期待に応えるように、愛美は力強く頭を縦に振った。
「そう…、分かったわ。それじゃあ二人とも、くれぐれも気をつけるのよ」
「「は~い!」」
――それから僕たちはレストランを元気よく飛び出し、向こう側に見えるコンビニへ行くため、近くの横断歩道で仲良く信号待ちをしていた。
そこの交差点の道路は片側三車線に加え、道路の中央に大きな高架橋が通っているため、道路の中央には幅広い安全地帯が設けられている。だから、そこの横断歩道は向こう側までかなりの距離があった。
加えて、外出した時間が比較的に遅かったこともあって、信号待ちをしていたのがたまたま俺と愛美の二人だけ。車通りもほとんどない。
――幸か不幸かそのシチュエーションが、幼い僕の好奇心をかきたてた。
「なぁなぁ、愛美」
「急にどうしたの、お兄ちゃん? そんなニヤニヤして…」
突然の僕の呼びかけに、愛美は振り向き、不思議そうに首を傾げる。
「ちょっと面白いことを思いついたんだけどさ…、どちらが先に横断歩道の向こう側へたどり着けるか、競争しないか?」
僕は冗談半分で愛美に打ち明けた。すると、
「オッケー、いいよ~。さっきまで座りっぱなしだったから、ちょうど愛美も運動したくてウズウズしてたんだ~。お兄ちゃんには絶対に負けないんだから!」
愛美は嬉しそうに躊躇うことなく、すぐさま僕の提案に賛同してきた。
「うしっ、それじゃあ決まり! スタートのタイミングはあの信号が赤から青に変わった時な? スタートの掛け声は僕がするから」
「わかった! でもお兄ちゃん、愛美に負けたくないからって、合図のタイミングをズルしないでよね~?」
「はいはい、分かってるよ。お兄ちゃんとして、そんなせこいマネはしないさ」
それから、僕たちはすぐさま足首を回したり屈伸をしたりして、軽いストレッチを始めた。
――あのときの俺はただ、小学生になる妹の前で改めてカッコいいお兄ちゃんを演じたかったのかもしれない。だけど、その純粋な思いつきが間違いであったことを、俺はすぐに気づかされることになる…。
愛美は在籍している園内の女の子の中で、“不動の一番”と言われているくらい足がダントツで速い。それ故、他の並大抵の男子と競争をしてもめったに引けをとることはない。お父さんとお母さんが元々陸上の国体経験選手であるため、二人の遺伝子が起因しているのは確かなのだが、普段から外で朝から晩まで遊んでいる活発的な愛美の性格が、無意識のうちに自分のセンスにさらに磨きをかけていたのかもしれない。
ただ、それは僕も例外ではなく、クラスで一位二位を争うほどの足が速いため、愛美に負ける気はさらさらないのだけれど。
――今思えば、僕は今まで愛美と足の速さのことで白黒をつけたことがなかった。
最後に愛美と足の速さを競う機会があったのは、僕がまだ幼稚園児だった時。運動会の各組合同のチーム対抗リレーで愛美と顔を合わせることが何度かあった。
しかし、
「歩夢は俺らの中で一番足が速いから、お前がリレーのアンカーな?」
「愛美ちゃん、私じゃ自信ないから、悪いけどアンカーお願い!」
僕らはただ足が速いという理由だけでいつもお互いのチームのアンカーを任されていたため、当然僕らがスタートするタイミングはいつもバラバラ。ましてや、僕が幼稚園を卒業してからは、愛美と競争する機会は完全に絶たれてしまっていた。そのため、こうして愛美と真剣に競争するのは実はこれが初めてなのだ。
さっきまで青色だった車両側の信号機が黄色、そして赤色へと色を変える。その様子を見て、僕は緊張でバクバクと鼓動が高鳴った。
(いよいよだ…)
愛美の様子を横目でそっと確認すると、愛美もどこか緊張した面持ちでスタートの合図を待っていた。
それから間もなくして、目の前の信号が青に変わった。
「よーい、スタート!」
元気な掛け声とともに、僕たちは勢いよく飛び出して風を切る。掛け声を任されていたため、スタート時に僕は若干の優位はあったものの、スタートのタイミングはほぼ同時。それから少しの間、僕らは横一列で並走し、両者ともに拮抗した状態が続く。
(嘘だろ? 全力を出しても全然引き離せない…。ヤ、ヤバい、このままじゃ…)
――しかし、小柄な体格の愛美と僕の体格の差が勝負の勝敗を分けることとなった。
僕は残り十メートルくらい手前のところでジワジワと愛美を追い抜き、そのまま駆け抜けた。
「はぁ、はぁ…、やっぱり、お兄ちゃんには、かなわ、ないや…。自信は、あったん、だけどな~」
愛実は頬を赤らめて息を切らしながら、少し悔しそうな表情を浮かべていた。
「まぁ、僕は、愛美の、お兄ちゃん、だからな。でも、愛美も、なかなか、早かったぞ…」
――なんて表では余裕そうな表情を見せていた僕だったが、予想外のギリギリ勝利だっただけに、内心では安堵のため息を漏らしていた。
それから、僕と愛美は何度か大きく深呼吸をして息を整える。そして、
「へへっ、ありがと、お兄ちゃん。でも、そのうちきっと、お兄ちゃんを追い抜いて見せるから! それまで覚悟しててね!」
愛美は僕に人差し指をビシッと突き出し、熱い眼差しで挑戦状を叩きつけてきた。
「わかった、わかった。愛美の頼みならいつでも受けて立つよ。まぁ、どうせ次も僕の余裕勝ちだろうけどね?」
「なっ…、つ、愛美だって次こそは負けないもん!」
「なんだって~!?」
「なによ~!?」
両者一歩も譲らず、バチバチと視線をぶつけ合う。
――しかし、
「「ぷっ…」」
不意にそんな意地の張り合いがおかしくて、お互いに笑みをこぼし合った。
「さ~て…、とりあえず勝負もひと段落したことだし、そろそろ目的のコンビニに―――って、あれっ?」
僕はふと、愛美の腰につけているピンクのポーチが視界に入った。よく見ると、普段は口を閉じているはずのウェストポーチのチャックが、今日に限ってはなぜかガバッと大きく口を広げている。
「おい愛美、ウェストポーチのチャックが開いてるぞ? 大丈夫か?」
「あ、ほんとだ。勝負に夢中で気がつかなかったよ…。危ない、危ない」
そう言って、愛美はウェストポーチを閉めようと、チャックのつまみに手をかけた。
――が、愛美はウェストポーチの異変に気づき、ポーチの中に手を伸ばして、しきりに中身を確認する。それから少し青ざめた表情になり、
「あ、あれっ、おかしいな~? くーちゃんがいない…」
と、焦った口調で小さく呟いた。
「えっ、それホントか!?」
僕と愛美が慌ててあたりを見渡す。すると、僕は横断歩道の中央にある安全地帯で、街灯の照明を浴びて寂しそうに横たわっている小さな熊のぬいぐるみを見つけた。
そのぬいぐるみはベージュ色の肌で澄んだ瞳をしており、右耳には赤いリボンが結びつけられている。それは手芸の得意な母さんが去年の愛美の誕生日にプレゼントした、世界でたった一つだけの手作りのぬいぐるみだった。
愛美はそのぬいぐるみをとても気に入っていて、“くーちゃん”と名付けていつも肌身離さず持ち歩いていた。
「あっ、くーちゃん、あんなところに!」
愛美も僕よりも少し遅れて、そのぬいぐるみを視界に捕える。
幸い、落ちているのが広い安全地帯だったということもあって、ぬいぐるみは車に踏まれてはいなかった。
愛美は胸元に両手を当て、よかったと言わんばかりに安堵の表情を浮かべる。それから、
「くーちゃん、ゴメン。あんなところに一人きりで寂しかったよね…。愛美、急いでくーちゃん拾ってくる!」
信号がまだ青であることを確認した愛美はそう言い残し、ぬいぐるみの方へ向かって一目散に駆けだした。
「あ、おい! つぐ――…」
僕は愛美を引き止めようと、とっさに愛美の腕をめがけて手を伸ばした。が、儚くも僕の右手は空を掴み、愛美の背中をただ見送ることしかできなかった。
――しかし、その愛美のとっさの行動が、彼女の運命を大きく左右することに。
愛美が横断歩道を引き返していたその時、黒く大きなワゴン車が嵐を思わせる荒々しいエンジン音とともに、中央にある高架橋の柱の陰から猛スピードで飛び出してきた。そして、横断歩道を横切る愛美の方へ一直線に走ってきたのだ。
だけど、そのときはまだ、愛美の目にはぬいぐるみしか映っていなくて。愛美がその事態に気づいたときには既に手遅れだった…。
「愛美! 危な―――」
僕の叫びも虚しく、ガシャンッ!という大きな音とともに、愛美の姿は僕の視界から消えていった…。