終幕 【遠き日の願い、そして…】 / 第7節
――あれからどのくらいの時間が流れたのだろう。
幾度も季節は巡り、お兄ちゃんが中学生、高校生と着実に歳を重ねていく。
お父さんやお母さんの白髪の数が少しずつ増え、二人の素敵な容姿が徐々にやつれていく。
相変わらず家族の溝は深まるばかりで、私が大好きだったあの頃の面影はもうない。
私は行く当てもなく、気づけばいつもの河川敷の河原に一人腰を下ろしていた。
水面に移る、ひどく憔悴しきった表情の私。
以前まで自分の姿かたちはどんなものにも一切映らなかったが、最近になってからは唯一この天野川の水面にだけ、自分の姿が映るようになった。
霊体であるにも関わらず、不思議と私の身体は歳相応の成長を遂げている。
しかし、今の私がそのことに喜びを感じている余裕はどこにもなかった。
あの日から家族のため、私なりに何かできないかといろいろ試みた。
みんなに私の思いを届けることができたなら、もしかしたら現状が変わるキッカケになるかもしれない。
そんな淡い期待を込めて。
テレビでやっていた心霊番組を参考に、お父さんやお母さんが目を離してるうちに携帯電話を使い、メモ欄にメッセージを書き残そうとしてみたり、電子機器に自分の声をすべり込ませようとしてみたり…。
でも、所詮は実体を持たないただの幽霊。
結局は何かができたわけでもなく、かといって、今日までこの世から消え去ることもできない。
(私、もうどうしたらいいか分からないよ…)
両手で膝を抱え込み、そこに強く顔を押し当てた。
誰一人として頼る人もいない絶望的な状況に、素の弱い自分が私の心を容赦なく蝕んでいく。
「――ようやく見つけたよ、お嬢さん」
突然、後ろから誰かが私に声をかけてきた。私は顔を上げ、その声のする方へゆっくり視線を移す。
すると、そこには黒いフードを深く被り、背丈ほどの黒いステッキを持った人物が立っていた。
背丈は小学校低学年くらいだが、その声色や話し方からは大人びた印象がうかがえた。
また、背丈に見合わないぶかぶかの、赤く縁どりされた黒いローブを着ている。
そのため、外見はまるでゲームに出てくる魔術師のようだった。
「あなた…、私のことが、見えるの?」
私の問いに、ローブを着た人物は小さく頷き、
「そりゃそうじゃ。何を隠そうワシも君と同様、この世の人間じゃないからのう」
フードの陰から私に鋭い眼光を覗かせ、含みのある言い方をした。
「この世の人間じゃ、ない? じゃあ、あなたは一体…」
「ワシか? ワシは冥界の神、名をアヌビスと言う。
おぬしも一度くらい名前は聞いたことがあるじゃろう?
君を迎えに来たんじゃよ」
そう言って、アヌビスと名乗る人物は深く被っていたフードをとった。
すると、頭の上にピンと立った白い耳とスラッとした高い鼻、そして白い毛で覆われた凛々しい顔が姿を現した。
「えっ…。あなた、ワンちゃんだったの?」
「ワッ、ワンちゃんとは失礼な!
しかと見よ、この整った毛並み、そして長く美しいこの立ち耳! どこからどう見ても、紛れもなくジャッカルじゃろうが。
餌につられてほいほいと人間に平気で媚びるような、崇高さのカケラもない生き物と同等にされちゃ困るわい!」
(ジャッカルってそもそも白かったっけ?
う~ん、どこからどう見ても、ソ○トバンクのコマーシャルに出てくるお父さんにしか見えないんだけどな…)
さっきまでの緊迫した雰囲気とは一転、急に顔を赤くして子どものように取り乱すアヌビスの姿に、私は少し微笑ましくなった。
「――どうして、今さらになって私を?」
そう言って、私はおもむろに首を傾げる。
「ふっ、その理由は極めて簡単じゃよ。おぬしがこうして長い間現世に留まっているからに決まっておろうに」
そこで、アヌビスはコホンと小さく咳払いをした。
「本来は現世の命が尽きたら冥界へ行き、そこで安らかな眠りにつく。
それは人間に限らず、現世を生きるもの全てじゃよ。そして、時が来れば新たな生命として再び現世へ舞い戻っていく。
現世と冥界の際限ない命の流れ。これが輪廻の理としての正しいあるべき姿なのじゃ」
「輪廻の、理…」
私はアヌビスの気難しい話に、キョトンとしながら話を聞く。
「左様。しかし、おぬしは不運にも霊体の姿で現世に再び具現化してしまった。
さらに何があったかは知らぬが、この世への強い未練が心の中に生じてしまっているせいで、無意識に自らをこの地に縛りつけてしまっているんじゃよ」
「今まで現世に束縛された魂は数多く見てきたが、現世で維持できるのは長くても一~二年程度。
大抵は何かのキッカケで昇華され、自然に理の流れへと戻っていく故、普段であればワシが気にかけるようなものでもないがのう」
すると突然、アヌビスは自分の下顎を親指と人差し指でなで、険しい表情を浮かべる。
「じゃが、おぬしほどの執念深い魂は見たことがないわい。
酷なことを言うようで申し訳ないが、おぬしはこの地に長くとどまりすぎた。もう並大抵のことでは昇華することも叶わぬじゃろう。
今のおぬしは過ぎゆく時間の流れにただ身を委ねるだけの、小さな草舟と変わらないんじゃよ」
「私が、草舟…。じゃ、じゃあ、私はこれからどうしたらいいんですか⁉
まさかこのままずっと…」
衝撃的過ぎるアヌビスの言葉に私の顔は真っ青になり、自分の身体から血の気が引いていくのが分かった。
「まぁまぁ、そう慌てなさるな。じゃから、このワシがわざわざおぬしの元へ出向いて、おぬしを輪廻の理へ返してあげようとしとるのだよ」
そう言って、アヌビスは私に優しく微笑んだ。
「おぬしが冥界へ帰りたいと願うのであれば、ワシの力ですぐにでも冥界へ帰してしんぜよう。いかがかな?」
(私がお願いすれば、今すぐにでも冥界に…)
私はまさかの願ってもないアヌビスの申し出に、一瞬目の奥を輝かせるが、
「――…。私、やっぱりここを去ることはできない。
せっかく私のためにここまで来てくれたのに、ごめんなさい…」
そっと目線を下に落とし、うつむきがちにそう答えた。
「なっ…⁉ おぬし、自らで輪廻の理に戻れなくなって、さっきまで明け暮れておったじゃろうが!
どうしてそう思うんじゃ?」
「だって私には…、その資格がないもの。
自分のせいで大好きな家族をめちゃくちゃにしてしまった。私が幽霊としてここに留まり続けてるのは、きっと私が現世で家族に対して犯してしまった罪を清算するためなんだ。
だから、自分が苦しいからと言って目を背けて逃げてしまうのは、何か違う気がするの」
すると、私の返答にアヌビスは顔をしかめ、頭をポリポリと掻いた。
「う~む、思いのほか手のかかる娘さんじゃのう…。
じゃからと言って、これからもこのまま現世に留まり続けるのか?
そんなことをしても何も解決しないのはつくづく分かっておろうに。
今日に至るまで、おぬしが自分の家族のために何ができたというんじゃ?」
「そっ、それは…」
アヌビスに痛いところと突かれ、私はきつく唇を結んだ。
(そんなこと、自分でも痛いほど分かってるんだ。だけど…、だけどこのままじゃ――)
そんな苦悶の表情を浮かべる私を見兼ねてか、アヌビスは腕を組み、
「やれやれ、このままでは埒が明きそうになさそうじゃな…。
とはいえ、ワシの手でおぬしを強引に冥界へ連れ戻すこともできなくはないが…。さて、どうしたものか」
困り果てた表情でうーんと唸る。そして、
「仕方ない…、それではここでおぬしに一つ、チャンスをやろう。
とはいえ、本当はあまり気が進まんのじゃがな」
「チャンス、ですか…? それはどういう――」
「おぬしをもう一度、人の姿で現世に戻してやろう。
そこでおぬしがやり残したことを自らの手で叶えてくるのじゃ」
アヌビスは教師のように人差し指を立てながら、落ち着いた口調で話した。
「ほ、本当に⁉ それなら私、今すぐにでも――」
すると、アヌビスは私の言葉をすかさず手で制し、
「た・だ・し。それにはおぬし自身に大きなリスクを伴ってもらうことになるが、それでも良いかのう?」
ニヤッと意地悪な笑みを浮かべながら、含みを持たせた言葉を放った。
「大きな…、リスク?」
「そりゃ当然じゃ。死者を蘇らせるということは、本来の輪廻の理に背くことになる。
だからこそ代償として、おぬしにはいくつかの制約を課さねばならん」
そう言って、アヌビスは自分の持っているステッキの頭部を、おもむろにグイッと私の顔の前へ突き出した。
「一つ、おぬしは此度の現世での消滅後、強制的に輪廻の理から外される。
自らの意思で輪廻の理から外れた魂は、再び現世へ舞い戻ることは叶わぬ」
「一つ、おぬしの此度の消滅後、此度の現世での記憶を含め、おぬしがこれまで生きた軌跡は全て現世から忘却される。
それは生前に現世で過ごしたおぬしとの記憶、すなわち家族や友人、関わりを持った人間すべてが二度とおぬしのことを思い出すことはない」
「一つ、おぬしが現世で生きられる刻限は、現世で関わりを持った友人、もしくはおぬしの身内の誰か一人にでも自分の素性が明らかとなった、その日の日没までとする。
仮に死者の甦りが現世で明るみに出て、生死の概念を揺るがしたとあっては、ワシとしても具合が悪いからのう」
アヌビスは小さく咳払い。そして
「――これを聞いて、それでも尚おぬしの意思は揺るがんのか?
おぬしの全てを犠牲にしてでも、それは本当に救う価値のあるものぞ?」
威圧するような力のこもった鋭い眼光と声で、再び私を真っ直ぐ見つめた。
見た目からは想像もできないようなオーラと言葉の重みを感じ、私の額からじんわりと脂汗がにじみ出た。
(私の全てを、犠牲にしてでも…)
私は大きく深呼吸をし、ゆっくりと胸元に両手を当てて、そっと瞼を閉じる。そして、
「はい、変わりありません。お願いです、私を生き返らせてください。
私にとって自分の事よりも、今の家族の姿を黙って見ていることの方が何十倍も辛いんです。
そしてなにより、これが今の私にできる、いや、私がやらなければならない最後の務めだと思うから…」
アヌビスを揺るぎのない眼差しで見つめ返した。
「――ふっ、あっぱれじゃ。おぬしの心意気に免じて、今回は特別におぬしを現世に再び蘇らせてしんぜよう。
おぬしの務めが見事果たされること、ワシは心より願っているぞよ」
アヌビスは満足げに微笑むと、持っていたステッキを両手でグッと握りしめ、自分の目の前で地面に強く叩きつける。
すると、途端に私の足元からサークル状の術式が姿を現し、身体からホタルのような光がボワッとにじみ出てきた。
「ありがとう、アヌビスさん。こんな私にもう一度、チャンスを与えてくれて…」
「な~に、冥界神のただの気まぐれじゃ。おぬしから礼を言われるようなことなどしておらんよ。
それよりも、まだおぬしの名前を聞いておらんかったのう…。おぬし、名は何というのじゃ?」
「愛美です。たくさんの人から愛されるような、心の美しい人になりなさいって、お父さんとお母さんから心を込めて付けてもらいました」
「――愛美か。うむ、実に良い響きじゃのう。
それでは、愛美よ。おぬしの旅路に冥界の祝福があらんことを」
その言葉の直後、私は幽体離脱をしたかのように身体がふわりと軽くなり、そのまま意識を失った――




