終幕 【遠き日の願い、そして…】 / 第6節
(う~ん、ここは…?)
再び目を開けると、私は薄暗い廊下の長椅子で横たわっていた。
ゆっくりと上体を起こし、ゴシゴシと強く眼を擦る。そして、慎重に顔を動かしながらぐるりと周りを見渡した。
時折チカチカと点滅を繰り返す、天井の蛍光灯。前と後ろは暗闇で先の見えない廊下が続いていて、左右には年季の入った白いコンクリートの壁。
そんなあまりにも殺風景で、いかにも幽霊が出てきそうな不気味な光景に、私は思わず両腕をさすった。
(うぇ~、なんか気味悪い場所…。あれっ、そういえば私はあの時――)
さすっていた手を放し、両手を開いたり閉じたりして再び動かしてみるが、見違えるように痛みは消えていた。
「あー、あー。テステス」
喉の痛みもなく、声も問題なく出る。ただ不思議なことに、私はいつの間にかサンダルと白いワンピースを身にまとっていた。
しかし、今はいつもの自分に戻った安心感で心が満たされていたため、そんな些細なことはどうでもよかった。
「ふっ。な~んだ、あれは全部悪い夢だったんだ。
うん、そうだよね。私がそんな簡単に死んじゃうなんてありえないし。
それにしても、何でこんなところで眠ってたんだっけ?」
腕を組んで必死に思い出そうとするが、本のページが切り取られたように記憶が綺麗に抜け落ちていて、全く思い出せない。
とりあえず、私は横たわっていた長椅子から立ち上がる。
すると突然、廊下の向こうから動物の甲高い鳴き声のようなものが聞こえてきた。その声に身体が瞬時にピクリと反応し、緊張で顔がこわばった。
よく耳をすますと、それは動物ではなく、女の人の泣き声のようだ。
もしかして…、ホントに幽霊?
(も~っ、最悪! 誰か~、早く私を迎えに来てよ~)
淡い期待を込めて再び辺りを見渡してみるが、誰かが来る様子は微塵も感じられない。
でも、だからと言ってここでじっと待っていても、恐怖と心細さに心が苛まれ続けるだけ。
「私がみんなを探しに行くしか、ないか…。あ~ぁ、嫌な夢は見るし、気づけば独りぼっちだし、なんか今日はツいてないな~」
私は涙を潤ませて半べそを掻きながらも、勇気を振り絞ってその声のする方へ慎重に歩きだした。
――歩を進めるにつれて、徐々に泣き声が大きくなる。
その声と比例して、私の鼓動も大きくなった。本当は行きたくないはずなのに、怖いもの見たさという私の心の中に隠れていた好奇心が、自然と足を前へ進ませる。
それからしばらくして、私は泣き声の聞こえる部屋の前で立ち止まった。
「結局、来ちゃった…」
扉は開いており、部屋の奥からぼんやりとした淡い光が漏れている。
私は壁から恐る恐る顔を覗かせる。すると、そこには一台のベッドがあり、白衣を着た男性の医師と看護士さんがベッドの横に並んで立っていた。
その表情に笑顔はなく、どちらも神妙な面持ちで視線を落としている。そして、
(あっ‼)
そのベッドの向かい側にお父さんとお母さん、お兄ちゃんがいた。
(みんな、こんなところにいたんだ…。それにしても、こんなところでいったい何してるんだろう?)
よく見ると、お母さんは地面に膝を折り曲げ、ベッドにしがみつくようにして泣き崩れている。
お父さんとお兄ちゃんは、そのベッドの横にある丸椅子に並んで腰を下ろし、小刻みに肩を上下させていた。
ベッドの上には誰かが横たわっていて、顔に白い布を掛けられている。枕元にはロウソクが灯されており、線香が焚かれていた。
「愛美…」
お母さんが声を震わせながら、ポツリと小さく呟いた。
(えっ、私? でも、私はちゃんとここに――)
私は丸めた人差し指を唇に軽く当て、少しの間、探偵のように思考を巡らせる。そして、
(あっ、そっか! あそこにわざと私を一人にしたのは、みんなの考えたドッキリで私を驚かせようとしていたからなんだ。
やれやれ、エイプリルフールはついこの間終わったばかりなのにしょうがないな~)
――よし、みんながその気なら私だって!
私は物陰から勢いよく飛び出し、
「じゃじゃーん、残念でした! みんな、愛美はここですよ~‼」
両手を大きく広げ、声高らかにみんなの前へ登場した。それから、
「あのさ~、いくら愛美への手の込んだイタズラでも、あんなところに一人で置いてけぼりだなんて、さすがにヒドくない⁉」
不満げな表情を浮かべ、両頬を目一杯膨らませて腕を組んだ。
しかし、みんなはまるでそんな私を無視するかのように、誰も顔色一つ変えない。
(あ、あれっ、おかしいな~? もしかして、聞こえてなかった?)
「ねぇねぇ、お母さん。もうそんな演技をしなくても、ちゃんと愛美はここに――」
そう言ってお母さんの服の裾に触れた瞬間、服の裾をするりと私の手がすり抜けた。
(えっ、どういう…、こと?)
私は一度自分の手のひらを見つめ、再び裾ををつかもうと試みるが、やはり結果は同じ。
私は動揺を隠せず、困惑しながらキョロキョロと周りを見渡す。すると、私の近くの壁に取り付けられている一枚の姿見がたまたま視界に入った。
みんなは当たり前のように鏡に姿が写り込んでいるにもかかわらず、なぜか鏡の前にいる私一人だけが写っていない。
「――えっ、そんな…。嘘、嘘よ!」
あまりにも受け入れがたい事実に、私の身体から一気に力が抜け、後ろ側へよろよろと数歩下がった後、その場に倒れ込むように尻餅をついてしまった。
すると、倒れ込んだときにたまたま私の肘が触れた近くのパイプ椅子が、偶然にも無残にガチャンと大きな音を立てて倒れた。
「えっ、愛美…? もしかして、そこにいるの…?」
お母さんはベッドに埋めていた顔を上げ、パイプ椅子が倒れた方に視線を移す。
幸か不幸か、私とお母さんは思いがけず視線が重なった。
私はその場からゆっくりと立ち上がり、
「おかあさ――」
そう言いかけたとき、
「ママ、やめてくれ。現実を受け入れたくない気持ちは分かるけど、愛美は、もう…」
お父さんは最後の言葉を濁し、とっさに右手で口元を押さえた。普段は涙を見せないお父さんが、今は涙でくしゃくしゃになっていた。
「そう、よね…。そんなはずないわよね…。私も気が動転してどうかしてたわ、ごめんなさい」
お母さんは深くうつむき、力のない声で小さく呟いた。
そんな二人のやり取りを目の当たりにして、私はこの現実を受け入れざるを得なかった。
(それじゃあ…、ホントに私は――)
「あの時に見た光景は全て現実で、あそこに横たわっているのが本物の私…。
あははっ、な~んだ、幽霊は他の誰でもなく、この私自身だったんだ」
その瞬間、私の瞳から一気に涙が溢れ、とめどなく頬を濡らした。
さっきまで張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、私は地に両手をついて力なくその場にへたり込んだ。
――本当にお別れなんだね、大好きなみんなと…。
あ~ぁ、こんなことになるなら、最後はあんな強がりじゃなくて、素直にお別れの言葉を伝えておくんだったな…。
でも、みんなならきっと、私がいなくても大丈夫だよね。だって、みんなは私なんかよりもずっとしっかりしている、私の自慢の家族なんだもん。
(もう一緒にいることはできないけど、私はみんなを陰から見守ってるから。
いつ消えてしまうか分からないけど、せめてその時間くらいは許してくれるよね、神様?)
私は再び立ち上がり、目の前にいる三人をゆっくりと見渡す。それから小さく頷いて部屋を後にした。
――でも、そんな私の願いとは裏腹に、みんなはバラバラになっていく。
「僕のせいで愛美が…、いっそのこと、僕が愛美の代わりになれば良かったんだ!」
(お兄ちゃん、違うの…。あれは愛美が勝手に――)
「愛美と歩夢の二人の成長を見守っていくことが、俺の父親としての使命だったはずなのに。
この先、俺はこれからいったい何を生きがいに生きていけばいいんだ…」
(お父さん、そんな悲しいこと言わないで…。生きがいになるものなんて、この世にはたくさんあるじゃない――)
「愛美、ごめんなさい。母親として最後まであなたを守ってあげられなかった、こんなどうしようもない私を許して――」
(お母さん、もうやめて…。全部、全部私が悪いの。だから――)
――愛美、いいかい? 生きていればね、いつか必ず遠い場所へ一人で旅立たなきゃいけない時が来るんだよ。
それはあたしだけじゃなく、お父さんもお母さんも、愛美自身もだ。そして、その時は数十年後かもしれないし、もしかしたら今日かもしれない。
それは神様が決めることで、自分自身じゃ決めることができないんだ。
でも、旅立ちを迎えることは決して悪いことじゃない。何かが終わるということは、そこが自分にとっての新しいスタート地点でもあるんだよ。
だから、その時が来たときは涙じゃなくて、笑顔であたしを送り出しておくれ…。
――いつだったか、お婆ちゃんがそんなことを言っていた気がする。
だけど、当時の私は言葉の意味をよく分かっていなくて、
“大丈夫、離れ離れになんてならないもん。そのときは愛美も一緒についていってあげるから。だから、お婆ちゃんを絶対一人にはしないよ”
なんて誇らしげに言ったっけ。
だけど、いざその時が来て、棺の中に横たわっているお婆ちゃんを目の前にしたとき、初めてお婆ちゃんの言葉の意味を知ったんだ…。
「――ねぇ、お母さん。お婆ちゃん、いつになったら目を覚ますの?
こんな狭い棺桶に閉じ込められて、お婆ちゃんが可哀想だよ…」
「愛美…、辛いかもしれないけどよく聞いて。
お婆ちゃんはね、死んじゃったの。もう二度と私たちの前で目を覚ますことはないの…。
お婆ちゃんはこれから旅支度をして、立派な仏様になるために一人で長い長い旅へ出るのよ――」
お婆ちゃんの言っていた旅立ち。それは“生物としての死”。
お母さん曰く、それは私たちがこうして生きている以上、絶対に抗えないものなのだ、と…。
あの時は大好きなお婆ちゃんともう会えなくなることがとても悲しかったけど、私はお婆ちゃんの言いつけを守って、
「お婆ちゃん、元気でね…」
ただ一言、精一杯のくしゃくしゃな笑顔で送り出したのを覚えている。
――今回はただ、私はみんなよりもその時が少し早かっただけ。
本当はまだまだやりたいことがたくさんあったけど、もういいんだ。
私がいなくても、今までのようにみんなが明るく仲良く過ごしてくれたなら。
いなくなった私の分までみんなが前に進んでくれて、その過程でたまに私のことを思い出してくれたなら、それだけで私は――。
なのに、どうして誰も前を向こうともしないで、いつまでも変えられない過去ばかりにしがみついているの?
不幸な現実を自分のせいだと無理矢理言い聞かせて、どうして自分ばかりを責めようとするの?
ねぇ、どうして、どうして…?
私はそんなこと、これっぽっちも望んじゃいないのに…。
胸の奥が締め付けられるように苦しい。こんなボロボロな家族の姿、もう見たくない。
でも、この原因を作ってしまったのは紛れもない私で、みんなを不幸にしてしまったのも私…。
だけど、今の私じゃどうしようもできない。
私にできることはみんなの行く末を見守ること、ただそれだけしか――




