終幕 【遠き日の願い、そして…】 / 第5節
「――紅葉ハイツ。ここ…か」
俺は手元の小さなメモと目の前のアパートを見比べた。
そのアパートは二階建てで、各フロアに三部屋ずつの計六部屋が集約されている。
建築されてからそこそこ年数が経っているらしく、階段の手すりには錆がちらほらと目立ち、壁にはところどころに傷や汚れがあった。
階段の手すりの側面に取りつけられている、薄汚れた表札には“紅葉ハイツ”と大きな文字で書かれていた。
「んで望海の話だと、この建物の二〇三号室に愛美が住んでいる、と…」
(望海…。お前のくれた最後のチャンス、絶対にモノにしてみせるからな)
俺の中に芽生えた強い決意と共に、つい数時間前の出来事が頭をよぎっていた。
「――なによ、急にウチの事を呼び出して。もうアンタと話すことは何もないんだけど?」
望海との一悶着があった翌日の昼休み。俺は意を決して望海を屋上に呼び出した。
「ってか、そもそもこうやって顔を合わせること自体が凄く不快だわ」
望海は堂々と腕を組み、そっぽを向きながら吐き捨てるように冷たい口調で言い放った。
「――…」
(まぁ、望海にそう思われてても当然だよな…。でも、望海にどう思われようと、俺は――)
俺は終始不機嫌な望海を前に、深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、
「望海、昨日はホントにすまなかった。お前が俺や愛美をとても気にかけてくれていたのに、一時の感情に任せて俺はお前にひどいことを…」
目の前で手を合わせ、誠意を込めて深々と頭を下げる。すると、
「――…。えっ、何か、あったの? 昨日の今日でこんな急に態度が百八十度も変わるなんて」
望海は呆気にとられたように、キョトンと目を丸くしていた。
「実は昨日、お前や大輔に愛美のことを言われて、ずっと考えてたんだ…。今の俺がこれからやらなきゃいけない事って何だろうってさ」
そこで俺は一呼吸を置く。それから、覚悟を決めたように望海を真っ直ぐに見つめ、
「それで、これから愛美に直接謝りに行く前に、まずはお前にちゃんと謝らなきゃと思って。
昨日の事を許してくれだなんて、そんな都合のいい事はとても言えないけど、せめてこうしてお前に面と向かって謝らないと気が済まなかったんだ。ゴメンな…」
力強く言葉を口にした。
すると、望海は急にうつむき、
「そうよ、バカ…。ウチがそんなことで簡単に、許すと、思ってるの…?
誰が…、あんた、なんかっ――」
小刻みに肩を震わせながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「おい、大丈夫か、望海? もしかしてお前、泣いてるんじゃ…」
そう言って、俺が望海の方へ歩み寄ろうとしたとき、
「う、うるさい! 久しぶりにウチの好きだった頃の誠実な歩夢を見れて嬉しかったとか、そんなこと微塵も思ってないんだから!」
望海は潤ませた瞳をごまかすように、指先でさっと瞳を拭った。
「お、おぅ、そうか…」
(改めて目の前で言われると、やっぱり照れるな…)
「そういえば歩夢、“これから愛美に直接謝りに行く”って言ってたけど、そもそも愛美の家の住所知ってるの?
っていうか、歩夢は愛美の彼氏なんだから、もちろん知ってて当たり前よね?」
望海は腰に手を当て、ぐいっと俺の顔を覗き込んできた。
「うっ、それは、その…」
(よくよく考えたら、俺の家に愛美を呼ぶことはあっても、俺から愛美の家に行ったことは一度もなかったな…)
望海は俺の反応を見るなり、やれやれと言わんばかりに小さく鼻息を漏らし、
「まぁ、そんなことだろうと思ったわよ。ウチ、歩夢のことはだいたいお見通しなんだから。はい、これ」
ポケットから一枚の小さな紙切れを取り出して、強引に俺へ差し出してきた。
「何、これ? この前のミーティングの時に使ったくじ引き?」
すると、望海は不満げに顔を歪め、
「あ~もう、あんたってホントにいつも肝心なところで察しが悪いわね~!
愛美の住んでるアパートの住所が書いてあるメ・モ・よ。ありがたく受け取りなさい!」
俺の左側のブレザーのポケットへ強引に紙切れを押し込んだ。
「あぁ、悪いな、助かるよ。ってか、何でお前がこんなものを?」
俺のその言葉に望海は途端に目を泳がせ、頬を人差し指で掻きながら、
「あー、え~っと…。じ、実は最近、不登校気味の愛美のことが心配で、部活帰りにちょくちょくそのアパートに顔を出してたのよ。
って言っても、ここしばらくはいつも部屋の鍵が閉まってて全然出てきてくれないから、まともに会話できてないんだけどね…」
それから視線を落とし、悲しそうにうつむいた。
「実をいうとこの住所、愛美がクラスメイトの中で唯一ウチにだけ教えてくれたの。
本当はウチ以外には内緒にしてって本人から固く口止めされてるんだけど、彼氏の歩夢になら別にいいかなって…」
そう言ってから、望海はコホンと小さく咳払いをし、
「と、とにかく! せっかくウチがここまでお膳立てしてあげてるんだから、ちゃんと仲直りしてきなさいよね?
これでまた愛美を泣かせるようなことがあったら、次は絶対に許さないんだから!」
軽く腰に手を当て、俺の顔にビシッと力強く人差し指を向けた。
“もしもお前のせいで愛美ちゃんが悲しむようなことがあれば、そのときは俺がお前を許さない。
それがどんな理由であったとしてもだ!”
俺は目の前の望海の姿が一瞬、いつかの大輔の姿と重なり、
(大切な相手の事を本気で思い合えるこの二人だったら、きっといいカップルになれるんだろうな…)
クスッと思わず笑みを溢した。
「ん、何よ? そんな気味の悪いニヤけ面なんてしちゃって」
「えっ、いや、何でもない。とりあえずサンキューな、望海。俺はお前が友達でいてくれてホントに良かったよ」
すると、望海は後ろへ一歩後ずさり、
「――バ、バカじゃないの⁉ あんたってどうしてそう面と向かって恥ずかしいことを、よくもそう軽々と…。
うん、まぁ頑張りなさい」
頬を赤らめながらも、満足そうに唇の端をあげた。
――俺は階段を一段一段踏みしめながら登り、一番奥の部屋の前にたどり着く。
そして、大きく深呼吸をしてから、近くのインターホンを押した。
――ピンポーン…。
寂しげな音が部屋の奥に響き渡る。しかし、内側から足音が近づいてくる様子はなく、一切反応はない。
もしかしたら居眠りをしていて、聞こえてなかったのかもしれない。
そう思い、再びインターホンを人差し指で強く押し込んでみるが、相変わらず現状に変化はなかった。
俺はダメもとでドアノブをゆっくりひねる。すると、ドアは思いのほかすんなりと開いた。
(あれっ、鍵が…、かかってない?)
「お~い、愛美? 歩夢だけど、いるのか?」
扉を開けて中に呼びかけてみるが、やはり反応はない。
まさか、何か事件にでも巻き込まれてしまったのだろうか?
とっさに嫌な予感が頭をよぎり、俺の額から脂汗がじんわりとにじみ出た。
俺はやむなく靴を脱いで、部屋の奥へと慎重に歩み寄る。そして、
「愛美!」
目の前にあるリビングへと通じる扉のドアノブを下げ、ガチャッと勢いよく扉を開けた。
しかし、目の前に広がるのは綺麗に整理整頓された部屋で、特に荒らされた様子はない。
彼女はどうやら鍵をかけ忘れ、一人でどこかに出かけてしまったらしい。
「――なんだよ、あいつ。いらない心配をさせやがって」
そう言って、俺は安堵のため息を漏らす。
「それにしても、やけに殺風景な部屋だな。まぁ、俺も人のことは言えた義理じゃないけど」
俺はぐるりと部屋全体に目を通す。
彼女の部屋にあるのは、小さな勉強机、ベッド、備え付けのエアコン、そして三段構成のカラーボックスと背丈ほどある長方形の姿見鏡が一つずつ。
他にはドライヤーやヘアアイロン、化粧品といった小物はいくつかあるものの、必要最低限の生活用品のみで、俺がイメージしていた女子の部屋とはほど遠いものだった。
「さすがに、部屋の住人がいないのにここで長居するってのもな…。しょうがない、今日はこのへんで――、ん?」
俺は勉強机の上に、ぽつんと一冊のダイアリーが置かれているのが目についた。
ピンク色の表紙で、表紙の上に可愛らしい熊の顔のシールが貼られている。
そして、その横に小さな南京錠が開錠された状態で放置されていた。
「日記帳? へぇ~、あいつ、こんな趣味があったのか」
俺は勉強机の方へゆっくりと歩み寄り、単行本サイズの日記帳を手に取る。
すると、なぜか俺の中で“この日記帳を開いてはいけない”という直感が働いた。
しかし、今はそれ以上に大きな好奇心が不思議と俺の中にこみ上げてくる。
「ま、まぁ、ちょっとくらいなら大丈夫だろ。さてさて、いったい何が書かれていることやら」
結局、俺は自分の好奇心を負け、一抹の不安と期待を胸に、ゆっくりと日記帳を開いた。
――四月七日。「憧れの高校生活、初日!」
『今日は念願だった登校初日!☆
う~っ、ドキドキとワクワクで朝から胸が張り裂けそう…。
勉強、ちゃんとついていけるかな。友達はたくさんできるかな。いろいろと不安はあるけど、くよくよしたって仕方ないよね!(笑)
まずは懐かしの櫻美公園にでも行って、空でも見ながら高ぶる気持ちを落ち着かせて…って、えぇーっ‼
偶然にも朝からお兄ちゃんと大輔君にばったり遭遇!
大輔君、やっぱり昔から変わらないな~(*^▽^*)
だって、話し方も雰囲気もあの頃のままなんだもん。
大輔君とおしゃべりしてると、不思議とあの頃に戻ったみたい!♡
でも、それに比べてお兄ちゃんは…(´;ω;`)
ううん、いいの。今はそのままで…。
少しずつでも、あの頃のお兄ちゃんの面影が戻ってくれれば。
愛美はそのためにここへ来たんだから』
――ここまで目を通して、俺は一旦ダイアリーをそっと閉じる。
(大輔があの頃のまま? お兄ちゃん?
愛美は一体、何を言ってるんだ…?)
俺は訳も分からず困惑する。愛美は過去に大輔と面識があったってのか。
でも、大輔はあの時、愛美とは明らかに初めて会ったような口ぶりで、全く覚えてなかったみたいだし…。
ってか、そもそもあいつの兄は小学一年生の時に両親と行方不明だったはずじゃ――。
もう少し、読み進めてみよう。きっと何か手がかりが掴めるはずだ。
俺はダイアリーをパラパラとめくり、綴られた日記に再び目を通し始めた。
――七月二十日。「仲良しメンバーで海水浴! 波乱万丈、ドキドキの旅!」
『今日は待ちに待った海水浴っ!☆
愛美と望海ちゃん、大輔君、そしてお兄ちゃんの四人で美浜海岸へレッツ・ゴー!
あれっ、生で海を見るのっていったい何年ぶりだったかな?(*^-^*)
美浜海岸か~。そういえば前にお父さんの車に乗って、家族みんなでそこに行ったっけ。
お兄ちゃんやお父さんと砂のお城を作ったり、海の家で焼きそばを食べたり。
あの日はなにもかもが新鮮で、何よりも家族みんなで出かけられたのが嬉しくて、時間があっという間だったな~。
まぁ、行きと帰りは車が全然前に進まなくて、車内の雰囲気が最悪だったのは置いといて…(;´・ω・)
移動中の電車の中で、みんなで楽しくおしゃべりしたり、ババ抜きをしたり、なんか幼稚園の遠足みたいですごく楽しい!(*^-^*)
窓からの景色もいいし、このままこの幸せな時間が続けばいいのに…。(笑)
な~んて、そんなことを思っている間に、美浜海岸に到着!
空を飛びまわるウミネコの鳴き声、寄せては返すさざ波の音、身体をふわりと私を包みこむ心地よい潮風。
ん~、やっぱり夏の海はサイコーだね!♡
望海ちゃん家で手荷物を整理して、それから美浜海岸でみんなとビーチバレー、スラックライン、砂のお城づくり。
ビーチバレーやスラックラインは初めての経験だったけど、砂遊びの他にもこんな楽しい遊びがあったんだね。
いや~、贅沢なくらい夏を満喫してますな~、なんて一人で優越感に浸ってみたりして。(笑)
望海ちゃん家での夕ご飯。
望海ちゃんのおばさんが作ってくれた料理、美味しすぎてほっぺたが落ちちゃいそう!☆
タイやアワビを食べる機会なんてきっとないんだろうな~って思ってたけど、まさかその日がこんなに早く来るなんて!
あぁ~、幸せすぎる~♡ 生き返ってよかった!
――大輔君に連れられて、夜に二人きりの美浜海岸。星がキラキラ瞬いてて、すごくロマンチック!
この景色をお兄ちゃんと二人で、肩を並べて見られたらな~なんてふと思う愛美なのでした(笑)
それにしても大輔君、さっきから妙にソワソワしてるけど、どうしたんだろ?
どこか具合でも悪いのかな?
――ど、ど、ど、どうしよう…、大輔君から告白されちゃった!
なんか、胸の奥がムズムズして気持ち悪い。
これが俗にいう恋心っていうものなのかな?
確かに大輔君はいい人で、昔からすごく尊敬してる先輩だし、愛美もそんな大輔君が好き。☆
大輔君が愛美の彼氏さんか~、きっと毎日が楽しいんだろうな~(笑)
でも、ゴメンね、大輔君。今の愛美にはそんな資格はないんだよ。
だから、辛いけど、苦しいけど…、感情を押し殺してでも伝えなきゃいけない。
許してなんて言わないから…。
――お兄ちゃんがはぁはぁと息を切らして、私の前に現れた。
顔を上げたお兄ちゃんの目がものすごく怖い…(´;ω;`)
次にお兄ちゃんが何を言いたいかなんて、だいたい検討はつくよ。
そうだよね、愛美は怒られて当然のことをしたもの…。
でも、これでよかったんだ。
一時の感情に流されて、自分のなすべきことを見失っちゃいけない。
私は”志乃咲愛美”としてお兄ちゃんと家族のために生きていく。
アヌビスさんに“生き返らせてもらった”あの時から、私は自分の胸に強く誓ったんだから…』
――俺はダイアリーを再び静かに閉じる。ダイアリーを持つ手が小刻みに震え、手にはじわりと脂汗がにじんだ。
(そんな、バカな…。仮想世界でもあるまいし、そんな非現実的なことがあるはずは…)
だけど、受け入れざるを得ないのかもしれない。
今までの彼女の不可解な行動や言動、俺の中の違和感、デートで見たショーウィンドウの熊のぬいぐるみ、お兄ちゃんの文字。
そしてこのダイアリーに書かれてあることが仮に本当なのだとしたら、全て説明がつく。
彼女の本当の正体は、きっと…。
――ガチャッ…。
不意に後ろからドアが開く音が聞こえる。俺が慌てて振り返ると、そこには愛美が立っていた。
彼女は俺の手に持っているダイアリーを見ると、今までになく悲しそうな表情を浮かべ、
「日記帳、見ちゃったんだね。歩夢君…、いや、”歩夢お兄ちゃん”」
重々しく口を開いた。
「やっぱりお前…、愛美だったんだな。」
俺の言葉に、愛美はゆっくりと頷いた。
「バレちゃった以上、もう隠し事はいらないね。
お兄ちゃん、今から少し愛美に付き合ってくれない? 全部そこで打ち明けるから…」
「――…。あぁ、分かった」
――それから、俺と愛美はアパートの近くにある天野川の河原へ場所を移す。
そして、河原の土手に二人並んでゆっくり腰を下ろした。
「ごめんね、お兄ちゃん…」
しばしの沈黙の後、愛美は曲げた膝を抱え、静かに呟いた。
「――お前は本当に“つぐみ”なんだよな? 俺の、妹の…」
すると、愛美は透き通った瞳で真っ直ぐに俺の方を見つめ、
「うん。目前にいるのは正真正銘、お兄ちゃんの知っている東雲愛美だよ。
そんなこと言っても、すぐには信じてもらえないのかもしれないけど…」
それから気まずそうに再び視線を足元に落とした。
「そりゃ、今まで彼女やクラスメイトとして接していたやつが、実は死んだはずの妹でしたなんて、そんな事実をすんなり受け入れる方がどうにかしてるだろ?」
「まぁ、それもそうだよね。そんなの、私だってすぐには受け入れられないもん」
愛美は口元に手を当て、クスッと笑みをこぼした。
「どうして、今まで嘘をついてたんだ?
たとえ周りが信じてくれなくても、せめて兄の俺には話してくれても良かったんじゃないか?」
「ううん、違うの。逆に、このことは”お兄ちゃんにだけは”話せなかったんだ。
だって、お兄ちゃんとまだサヨナラしたくなかったから…」
俺は愛美の言っている意味がよく理解できず、おもむろに首を傾げ、
「どうして俺に知られることが俺と別れることに繋がるんだ?
俺が問い詰めたあの時、その事実を正直に話してくれていたなら、むしろ俺は愛美のことをもっと――」
「その理由も含めて、今から話すから。私が亡くなったあの日から今日まで、私が過ごしてきた全てを…」
愛美は俺の言葉を途中で遮る。
それから小さく深呼吸をし、哀愁漂う表情を浮かべながらゆっくりと再び口を開いた――




