第3幕 【絆、そしてあなたの瞳に映るものは…】 / 第1節
――ジリジリとした夏の暑さは嘘のように過ぎ去り、青々と生い茂っていた桜の葉は黄色や赤色へと衣替えを始める。また、騒がしかったはずのセミの声もいつしか聞こえなくなり、代わりに蜩の寂しげな鳴き声だけが夕暮れの空にこだまするようになった。
それは櫻美町に秋の訪れをはっきりと告げているようで、あれだけ鬱陶しいと感じていたはずの真夏への名残惜しさが不意に込み上げてくる。
突如吹きつけた肌寒い一陣の風が、ベンチに腰掛ける俺の身体へとぶつかり、音を荒げながら勢いよく通り過ぎてゆく。
その風の冷たさに俺は思わず身震いし、両肩を強くさすった。
「う~っ、さみっ。まだ九月半ばだってのに、今年は冷え込むのが異常にはえーな。あ~ぁ、こんなことならもう少し厚着してくるんだった…」
俺は手のひらにそっと息を吐きかけ、寒さでかじかんだ手のひらを温める。それからポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認すると、愛美との約束の時間である十時をすでにまわっていた。
「――変だな…。あいつ、いつもなら待ち合わせの五分前くらいには着いているのに。もしかして寝坊でもしたのか?」
少し離れた場所にあるアナログの時計台に目を移すと、やはり時計の短針は十時を差している。スマートフォンの不具合で、表示されている時刻がズレているというわけではないようだ。
(あれっ、待てよ…。もしかして俺が約束の日付を間違えたとかっていうオチじゃねーよな?)
次第に嫌な予感が頭をよぎる。不安げな表情になりながら、ラインのやり取りを確認しようと再びスマートフォンに目を落としたとき、
「お~い、歩夢く~ん!」
大きく右手を振りながら、向こうから駆け寄ってくる愛美の姿があった。
首元にぐるりと巻かれた白いマフラーの裾が、愛美の動きに合わせてゆらゆらと左右に揺れている。
「集合時間に、間に合わなくて、ゴメン、ね。お婆ちゃんの、お手伝いを、していたら、遅く、なっちゃった…」
目の前で立ち止まった愛美はほのかに頬を赤らめ、はぁはぁと息を切らしている。愛美の口から洩れる息が湯気のように立ち昇り、瞬く間に消えていった。
「へぇ~、そうだったのか。にしても、なんでお婆ちゃんの手助けを? あれっ、でもお前のお婆ちゃんって確か…」
俺は腰かけていたベンチからゆっくりと立ち上がり、困惑した表情で愛美に尋ねる。
愛美は何度か大きく深呼吸を繰り返して息を整えた。それから、
「うん、その人はもちろん私のお婆ちゃんじゃないよ。まったく知らない人。
実は待ち合わせ場所に向かっている途中、道端でお婆ちゃんが重そうに荷物を運んでいるのを偶然見かけてさ。
時間が迫ってたから見て見ぬふりをしようかとも思ったんだけど、やっぱり放って置けなくて、つい――」
と、申し訳なさそうに目を伏せ、小さく縮こまった。愛美の様子を見る限り、今の話はまんざら嘘でもないようだった。
俺は少しの間、腕を組んで考える仕草を見せた後、
「そっか…。まぁ、お前のそういう思いやりがあるとこ、俺は嫌いじゃないぜ。しょうがないな…、その見知らぬお婆ちゃんに免じて今回の遅刻は大目に見てやるよ」
腰に手を当て、やれやれと鼻で軽く溜息をつく。俺の言葉を聞いた瞬間、愛美はホッと安堵の表情を浮かべた。
「よかった、ありがと。実は私、歩夢君ならきっとそう言ってくれるって信じてたんだ」
「ふっ、既にお見通しってことかよ。甘く見られたもんだな、俺も…。んで、その左手に持ってる小さなビニール袋は?」
すると愛美は目を輝かせながら、俺の目の前にビニール袋を勢いよく差し出し、
「お煎餅とお饅頭だよ。そのお婆ちゃんがお礼にくれたんだ~。“ほんの気持ち程度だけど、彼氏さんと仲良く分けて食べてね”だって!」
嬉しそうに微笑んだ。
「へぇ~、それは良かったじゃん。俺の分まで気遣ってわざわざ用意してくれるとか、よほど性格の良いお婆ちゃんだったんだな」
「うん、すご~く優しいお婆ちゃんだったよ。一緒に歩きながら、隣で楽しい話をたくさんしてくれてさ。またどこかで会えるといいな~…」
愛美は自分が走ってきた道の方を振り返り、遠くを見つめていた。しかし、急にハッと我に返ったように頭を左右に振り、
「あっ、いけないいけない、余韻に浸っている場合じゃなかったね。私のせいで時間も押しちゃってることだし、歩夢君、それそろいこっか?」
そう言って左手に持っていたビニール袋を、肩に掛けているアイボリーのショルダーバックに仕舞う。
そして、トコトコと俺の隣へ歩み寄ると、
「えいっ!」
小さなかけ声とともに、俺の左腕にギュッとしがみついてきた。
「―――っ!」
その瞬間、俺の頬が急激に熱を帯び、まるで魔女に石化の魔法をかけられしまったかように身体が硬直してしまった。
とはいえ、愛美のこの行動は特別今回だけに限ったことではないのだけれど…。
学校内では普段通りに接しているのだが、なぜかデートで愛美と二人きりになるたびに、彼女はこうしていつも俺の腕にしがみついて甘えてくる。
そんな彼女の学校とプライベートとの性格の豹変ぶりに、初めは俺も戸惑いを隠せなかった。
そんなわけで、本来はそろそろ慣れてきてもいい頃なのだろうが、根がピュアな俺は未だに気恥ずかしさが抜けないのだ。
「それにしてもお前、よく人目もはばからずにいつもそんなことができるよな?」
「えへへ。だって、このほうが落ち着くんだもん。第一、私たちはつき合っているんだから、仲の良いカップルがこうするのは当たり前でしょ?」
あきれ顔な俺のことなどお構いなしに、愛美はニコニコと嬉しそうに微笑んでいる。
「とは言えなぁ、俺らはほら、付き合ってまだ日も浅いわけだし、やっぱりそういうのはもっと…」
「――ダメ?」
愛美は俺の話を遮り、子猫のような上目遣いで俺の顔をじ~っと覗き込んできた。
「――うっ。あっ、いや、別にダメなわけじゃ、ない、けど…」
俺はそんな愛美の不意打ちに、思わず彼女から視線を反らす。そして、さらに熱の帯びた頬を人差し指で軽く掻いた。
「わーい、やった~!」
俺の言葉に、愛美はパッと花が咲いたように再び笑顔を浮かべる。そして、俺の左腕に再び身体をギュッと強く押し付けた。
「――おい、愛美、ちょっ、ストッ…」
それと同時に愛美の胸元がさらに強く肘にあたり、更に動揺した俺は止めさせようととっさに口を開くが、
「ん~? どうしたんでしゅか~?」
タジタジな俺の反応を内心面白がっているのか、相変わらず愛美は俺のことなどお構いなし。相変わらず俺の隣で満足げに笑みをこぼしている。
(はぁ…。そんな顔で見つめられたら、とてもじゃないけどダメなんて言えないだろ…)
――今日は九月十九日。俺と愛美が付き合い始めて、もうすぐ一か月を迎えようとしていた。
――少し時間を遡り、例の海水浴から戻ってきた、その日の帰り道。
俺は大輔に“大事な話がある”という一言だけを伝えて櫻美公園へ誘い、そこで昨晩の海岸での出来事を打ち明けた。
海水浴、二日目。本来の予定であれば、二日目は近くにある水族館や観光スポットを巡る予定だった。
しかし、メンバー全員の初日の疲労が予想以上に溜まっていたため、話し合いの結果、体調を考慮して午前中のうちに荷物をまとめて帰ることに決まった。
二日目の朝、大輔は俺や望海にはいつも通りに明るく振る舞っていたものの、
「や、やぁ、愛美ちゃん。おはよう…」
「う、うん。おはよ…」
昨晩の出来事もあってか、やはり愛美を目の前にすると笑顔がぎこちなくなり、どこか無理をしているようで…。
そして、それはまた愛美も同じだった。
「――そっ、か…。まさか愛美ちゃんが、歩夢のことを、ね…」
大輔は色褪せた茶色いベンチに浅く腰かけながら、両手を膝元に組んだまま真っ直ぐに遠くを見据えている。
「お前は、どうなんだ? その…、俺と愛美が、付き合うことについて…」
俺は躊躇しながらも、まるでパンドラの箱を開けるような複雑な心境で大輔に尋ねた。
大輔は俺の言葉にすぐに返事を返すことはなく、少しの間、二人の間に重苦しい沈黙の時間が訪れる。
もしかしたら、今回の件で俺と大輔の関係に大きな亀裂が入ってしまうかもしれない…。
俺は一抹の不安と緊張に耐え切れず、口の中に広がる不快な唾をゴクリと音を立てて飲み込む。
遠くの方で轟いているはずのセミの声が、俺の耳にはやけにはっきりと大きく響いていた。
俺が次に何と言葉を掛けるべきか、頭の中で考えをひたすらに巡らせる。すると突然、大輔は沈黙を破るように自分の頬を両手で二度叩き、決意を固めたように力強く立ち上がる。
そして、
「――うし、決めた。俺は二人のこと、応援する!」
と、声高らかに言葉を発した。
「えっ、いいのか? 俺と愛美が付き合っても…。だって、元々愛美のことを好きだったのはお前で、俺はただお前のために―――」
「俺がいいっつったらいいんだよ、それで。確かに俺は愛美ちゃんが好きで、フラれた今でもそれは変わらない。だけどな―――」
大輔はゆっくりと振り返り、俺の目を真っ直ぐに見つめる。
「愛美ちゃんが俺よりも歩夢と一緒にいることで幸せになれるんだったら、俺はそれを快く受け入れるよ。
だって、自分の好きになった人にはいつでも笑顔でいて欲しいじゃん?」
人差し指で鼻の下を軽くこすり、へへっと照れ臭そうに微笑んだ。その言葉に嘘偽りがないことは、彼の清々しい表情から読み取れた。
「大輔、お前…」
「――でも万が一、もしもお前のせいで愛美ちゃんが悲しむようなことがあれば、そのときは俺がお前を許さない。それがどんな理由であったとしてもだ!
ただ…、それだけは覚えといてくれ」
そう、大輔は圧倒されるような力強い声で言い放った。
――付き合うってことは、実は俺が思っていた以上に難しいことなのかもしれない。
大輔だけじゃない、これまで愛美に思いを寄せていた人はきっと数えきれないほどいたのだろう。純粋にただ一緒の時間を過ごしたいと願う人、相手の幸せを自分の手で築きたいと願う人。
そして大輔のように、どのような形であれ相手の幸せを第一に願っている人。
人によって“好き”の重みは違えど、好きな相手のことを考えていた時間は、きっと本人にとってかけがえのない時間だったはずだ。
だからこそ、彼らのその時間を無駄にしてはいけない。彼らの分まで愛美を幸せにしなければならないんだ。大輔を見ていると、自然とそんな使命感にも似た感情が込み上げてくる。
だけど果たして、今の俺にその資格は、覚悟はあるのだろうか。彼女の隣にいるべき人は、本当に俺でいいのだろうか…。
俺は目を閉じ、改めて自分の心に問いかけてみる。そして、
「――わかった。お前に言われて、心の整理がようやくついたよ。これであいつに、俺の気持ちをちゃんと伝えられる。大輔、ありがとな」
「へへっ、いいってことよ。俺らは古くからの付き合いなんだから、困ったことがあったらお互い様だろ?
前回はお前に散々世話になったから、今度は俺の番ってだけの話だよ」
それから、大輔は俺の肩にそっと手を当て、
「愛美ちゃんの事、頼んだぜ!」
「あぁ、任せとけ」
そう言って、俺は力強くうなずく。
大輔と話したことで、昨晩から俺の心の中に居座っていた“迷い”という深い霧は消え去り、霞んでいた自分の本当の“想い”がようやく明確な形となって現れた瞬間だった。
「――愛美、今ちょっといいか?」
それからしばらく時が経った、夏休み明けの八月二十日。俺は意を決し、昼休みに愛美を屋上へと呼び出した。
最初、彼女は俺からの急な誘いにクエスチョンマークを浮かべていたが、二人きりで話がしたいと伝えると、それ以上は何も聞かずに黙って俺の後ろをついてきた。
まるでこの時が予知されていたかのように、ガラリと静まり返り、誰もいない屋上。俺と彼女だけの二人きりという理想のシチュエーションに、途端に気恥ずかしさが胸の内からじわじわと込み上げる。
俺はそんな気恥ずかしさを必死にこらえ、目の前の愛美に向けて、ありのままに自分の想いを伝えた。
すると、彼女はあわあわと口元を押さえ、今にも泣きだしそうなくらいのふにゃっとした笑顔で、
「――はい。よろしく、おねがいします…」
二つ返事で承諾してくれて。
――そんなわけで、俺は今こうして愛美と付き合うことになったのだ…。




