―プロローグ― 【薄れゆく意識の中で…】
――どこまでも果てしなく広がる、目に見えるもの全てが暗黒に覆われた空間。それは目を覚ました私が見た、最初の光景。そしてただ一人、私だけがぽつんとその場に取り残されていることに気がつく。
(ここは…、どこ?)
我に返った私は突如として込み上げてきた不安から、胸元に手を当ててキョロキョロと周囲を見渡す。しかし、何か目印になるようなものは一切見当たらない。上下左右も分からない、何の音も聞こえない、静寂でただただ冷酷な空間。
「おーい、誰かいませんか~!」
口に手を添え、できる限り声を大きく張り上げて呼びかけてはみるものの、私の声はやまびこのように反響する間もなく、すぐに闇の中へ飲み込まれてしまった。
私のいるこの空間には、言い表しようのない虚無感が支配し、それが私の心へ容赦なく流れ込んでくる。孤独、そして圧倒されるほどの無力感。私という存在を根底から否定しているような、そんな絶対的な空間を目の前にして、まるでおとぎ話に出てくる悪い魔女に心臓を握られたかのように、私の心はきつく締めつけられた。
それからしばらくその場へ立ち尽くしていた私だったが、この空間が放つ異様なプレッシャーにやがて耐え切れなくなり、その場に静かに座り込んで小さく膝を抱え込む。そして、目の前の現実から目を背けるように、膝に深く顔を埋めた。
(ここにいると、私が私じゃなくなっちゃいそう…。お願い。誰かっ…、誰か早く私をここから連れ出して!)
――しかし、そんな私の切なる願いとは裏腹に、いくら待てども現状を打開するような兆しは一向に現れてくれない。
もしかしたら、このまま私はこの訳のわからない空間に一生閉じ込められたままなのだろうか? 誰からも気づかれることなく、このまま一人で寂しく消えてなくなってしまうのだろうか?
はっと我に返った私は、振り払うように私はすかさず頭を左右に素早く振る。
(大丈夫、誰かがきっと助けてくれる。だから、そんなこと考えちゃダメ。諦めちゃ…ダメ…なのにっ)
いけないことだとは頭で分かっていても、無意識のうちに思考が悪い方へ悪い方へと考えてしまう。
普段はポジティブ思考が取り柄の私なのだが、今はその余裕が微塵もない。それだけ、この空間が放つ負のオーラは異質で、私の心はすっかり疲弊しきっていた。
そして、もうどうにでもなれと心の糸が完全に切れかけた時、
「――…、――ぐみ、しっかりしろ、愛美!」
まるで一筋の光が差し込むかのように、私の名前を呼ぶ声がどこからともなく聞こえた。
私はその声にピクリと耳を動かし、ゆっくりと埋めていた顔を持ち上げる。しかし、目の前には相変わらず先の見えない暗闇が広がるばかりで、誰かがいるような気配は感じられない。初めは何かの間違いだと、自分の耳を疑った。
でも、確かにあの瞬間、私の耳にははっきり聞こえたんだ。私がよく知っている、とても聞き覚えのある声が…。
「お兄ちゃん…、ねぇ、もしかしてそこに…いるの?」
私はそっと立ち上がり、その声のした方へゆっくりと右手を伸ばす。私が手を伸ばしたところで何かが変わるとも思えない。でも、今は藁にもすがる思いで、私は手を伸ばさずにはいられなかった。
すると、私の中指の先に一瞬何かに触れる感覚があった。触れた指先からぼわっと淡い光が現れ、光はまるで水面に小石を投げ入れたかのように波紋を描きながらゆっくりと空間中へ広がっていく。そして、目の前に映る暗闇ばかりの世界は、瞬く間に温かな光に包まれた。
――私の耳元に、急にけたたましいサイレンの音が飛び込んできた。それと同時に、何かの焦げたような匂いが私の嗅覚を強く刺激する。
(も~っ、うるさいな~。一体何だっていうのよ…)
私はそんなサイレンの音と焦げ臭い匂いに思わず顔を歪ませる。
(あれっ、そういえば、さっきまで別のどこかにいたような…)
不思議と込み上げる違和感に若干の戸惑いはあったものの、今の私に違和感の正体を思い出そうとするほどの余力はなかった。
寝起きのときのように、頭の中が霞かかっていてボーっとする。身体の感覚がやたらと鈍い。理由は分からないが、どうやら私はたった今まで記憶を失っていたらしかった。
(私、どうして眠ってたんだっけ…。――痛っ‼)
ぼんやりとしていた意識がはっきりし、身体が感覚を取り戻し始めたのと同時に、私の身体を今までに経験したことのない激しい痛みが襲った。
私はグッと歯を食いしばり、なんとかその痛みをこらえる。そして、自分の置かれた状況を確認するため、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
――すると、私の霞んだ視界には涙でくしゃくしゃになった父と母、そして兄の顔が飛び込んできた。
「ようやく気がついたか、愛美。今――車を呼――からな! それまで、――れよ!」
「そうよ、私たちが傍に―――らね。最後――あき――ないで!」
お父さんやお母さんが、私に向けて必死に何かを語りかけている。しかし、言葉が周囲の騒がしい雑音に遮られ、途切れ途切れでよく聞きとれない。
だけど、私は二人の言葉の意味を問うより先に、頭の中に一つの疑問が浮かんだ。
(――みんな、どうして泣いているの?)
目の前で悲痛な表情を浮かべる三人の様子に、心がきつく締めつけられる。
私はこうして大好きなみんなのそばにいるよ。どんなことがあっても私は大丈夫。
だから…、そんなに悲しそうな顔をしないで―――
三人につられて私の視界が涙で歪み、仄かな温かさを帯びた雫が私の頬をそっと伝った。
すると、その直後、
(――っ‼)
私は激しい頭痛に見舞われ、意識を失う直前の記憶がフラッシュバック。映像が走馬灯のように、私の頭の中を勢いよく駆け巡った。
(何なの…、これ。頭が、壊れそう…)
――フラッシュバック。けたたましい音のする方へ振り向いた視界が急に白い光に包まれる。そして私の全身を襲う、今までに経験したことのない強烈な衝撃と稲妻のような鋭い痛み。
――フラッシュバック。瞬間的な重力からの開放と、天と地の逆転。頭と背中が大きくバウンドし、私の身体へ立て続けに襲い来る容赦のない激しい痛み。
――フラッシュバック。私の目の前で目まぐるしく変わりゆく景色。身体がボールのようにコロコロと転がり、その度に私の腕や足のあちこちが切り裂かれていく。
そこで、私の記憶は途切れていた…。
そして脳裏をフラッシュバックした記憶の数々が、さっきまでの私の憶測を確信に変えた。
一瞬にして、私の身に命を脅かすような何かが起きた。そして、この後に意識を失い、さっきまで生死の狭間を彷徨っていたのだろう。
にしても、あまりにも断片的すぎるシーンや感覚。そのため、何が引き金となって意識を失ったのか、どうしてこんな状態になってしまっているのか、幼すぎる私の頭ではちっとも理解できなかった。
(え~っと…、確か私はあの時…、独りぼっちだったくーちゃんを拾いに戻って、それで…)
――だけど、そんな私でも理解できたことがある。それは、みんなを悲しませている原因が今の私自身なんだってこと。
(そっか、みんなが泣いているのは、私がこうして辛そうな素振りを見せているからなんだね…。それなら、私が大丈夫だってことを証明すれば、きっとみんなも――)
真っ先に私はみんなの呼びかけに返事をしようと、ゆっくり口を開く。
――しかし、パクパクという口の動きとは裏腹に、私の声は痰のように喉元でつっかえてしまい、吐き出すことができない。代わりに口を開いたときににじみ出た、生温かく少し錆びた鉄の味が、じわりと口の中へ広がっていった。
(あ、あれっ、おかしいな…。声が、出ない…?)
それならば、と懸命に手足を動かそうと試みるが、
(うぐっ…‼)
強烈な痛みのせいで、指先一つ動かすことすらままならない。
いつもだったら“愛美は大丈夫!”って元気な声で伝えられるのに…。
どんなに辛いことがあっても、家族みんなの前ではいつも笑顔でいようって決めていたのに…。
今は身体が私の言うことを全く聞いてくれない。
(みんな、ゴメンね…。私、もう、ダメかも…)
傀儡師を失った操り人形のように何もできない自分への悔しさで、とめどなく涙が溢れてくる。大事な場面で、私はなんて無力なんだろう…。ただみんなを悲しませ、迷惑をかけているだけの今の私がとても惨めに思えて、自分自身に嫌気がさしてくる。
そして、そんな私にさらに追い打ちをかけるかのごとく、少しずつ私の身体から感覚が薄れ、ぼんやりと意識が遠退き始めた。
(あ~ぁ、みんなとこのままサヨナラだなんて、私、嫌だな…。これからもお父さんやお母さん、お兄ちゃんとずっと一緒にいたかったのに。仲良しだったさっちゃんやみーちゃんと、もっとたくさん遊びたかったのに…)
――神様、どうして私ばかりにひどいことをするの…? こんなにも残酷なお仕置きを受けるくらい、私はいけない子だったの…?
薄れゆく意識の中で、私はぼんやりと自問する。しかし、どんなに私が問いかけても、神様は何も答えてはくれなかった。
やがて私の身体から完全に力が抜け、強烈な眠気に襲われた。一度心が折れてしまった私にはもう運命に抗うだけの気力は残されておらず、むしろ早くこの苦しみから開放されたいとさえ願っていた。
(お父さん、お母さん…、最後まで期待に応えられないこんな弱い子でごめんなさい。私、先に逝くね――)
心の中で静かに懺悔と別れの言葉を言い残す。そして、瞼が完全に閉じかけた、まさにそのとき、
「愛美、頑張れ!」
眠気が吹き飛びそうなほど、私を呼ぶ声が再びはっきりと耳元に響く。その時、私が最後に見た家族の顔が脳裏をよぎった。
私がこのまま死を受け入れてしまうのは簡単なこと。でも、本当にこのまま私がいなくなってしまったら、残されたみんなはどう思うのだろう? この先、みんなはこれからも私の大好きな家族のままでいてくれるのだろうか?
もしもそれが私じゃなくて、代わりに大切な家族の誰かが突然いなくなってしまったら…。そう、私はきっと…。
――呼吸をするのが苦しい。身体はすでに悲鳴をあげている。もうこの身体は長くは持たないかもしれない。
それでも、みんなのために今の私ができること、いや、私がやらなければいけないこと、それは…。
(――やっぱり大好きなみんなにはずっと笑顔でいてほしいし、私がやり残したことだってたくさんある。だから、私を信じて待ってくれているみんなのため、そして何よりも未来の自分のために…、私はまだ諦めるわけにはいかないんだ‼)
私は小さな身体に残された可能性を信じ、閉じかけていた瞼を気力でなんとか持ち上げる。そして、
「みん、な…。つぐ、み、は、大丈夫。だから…、もう、泣かな、いで―――」
必死に言葉の一つ一つを絞り出し、今できる精一杯の笑顔を作って見せた。
でも、私のその声はとても弱々しく、今にも周りの騒音で掻き消されてしまいそうなくらい微かなものだった。
(あははっ…、頑張ったけどやっぱりダメか~。あ~ぁ、悔しいな…。私、最後の最後までツイてないや)
しかし、
「えっ、ま、愛美!? あぁ、よかった~。一時はもうダメかと――」
奇跡的にもその声が届いたのか、お父さんを筆頭にみんなは安堵の表情を浮かべた。私は目を丸くし、同時に自分の最後の頑張りが無駄じゃなかったと心の底から喜びが込み上げてきた。みんなのその表情が、生きることを諦めかけていた私に勇気をくれた。
(よかった…。私の想い、みんなに届いてくれたんだ。うん、これでもう大丈夫。あとは私自身がこのまま意識を保ち続けられれば――)
――だけど、私がホッと胸をなで下ろして気を緩めたその瞬間を、悪魔は決して見逃してはくれなかった。華やかだった舞台の照明が一斉に落ちるかのように、私の視界が一瞬にして暗闇に包まれた。
(えっ、そんな…。私はまだっ――)
そして考える間もなく、私の意識は再び別の世界へと誘われていった。