出会いは突然に
”絶対に叶わない恋”
そんな言葉は、古に詠まれた俳句や和歌から始まり、そして中世ヨーロッパの恋愛悲劇のメインテーマへと移ろい、今では少女漫画や恋愛シミュレーションゲーム、さらには異世界ファンタジー小説まで、多様なジャンルで大小関わらず物語の要素の1つとなっている。
だが、そんな事が現実で起こる事はまず無い。
想い人が死別でもしない限り、人は、”絶対に叶わない恋”だと一瞬でも感じ取ると次の恋へと歩みだす生き物なのだ。
だからこそ、人はこの世に生を受け続けていく。
そして、人は、その行いに反発するようにして、”絶対に叶わない恋”という理想に憧れを抱く事によって、今日の文化形成の1つの要素として根付いていったのである。
ーーーーーしかし、そんな事が現実で起こってしまうなんて……。
◆
カーテンの隙間から漏れる朝日の光が、天使でも舞い降りたかのように薄暗い部屋を照らす。
枕元に置いたスマホからは、等間隔で鳴り続けるアラーム音が耳元で響いていた。
快眠の邪魔をしたスマホを手探りで探し、画面を連打してアラーム音を消す。
眠気まなこを薄めに開いて、スマホの画面をチェックした途端、一気に眠気が飛んでいった。
”AM 7:50”
ベッドから飛び上がると、クローゼットに閉まっていた制服を引っ張り出し、猛スピードで着替えを済ませ、部屋を飛び出した。
階段を駆け下り、リビングへと向かうとそこには朝食を食べ終えた妹の姿があった。
両親は、共働きで朝が早く、いつもは妹と二人で朝食を食べている。
「お兄ちゃん、寝坊は良くないよ」
「だったら起こしてくれよ、亜希葉!」
「もう高2なんだから、それぐらい一人で起きなさい! 私だってちゃんと起きれてるんだから」
亜希葉が口元に押し付けてきた半分に切られたトーストを、ハムスターがひまわりの種を齧るように口に詰め込み、テーブルの上に置かれたコップ一杯のオレンジジュースで流し込んだ。
亜希葉と共に玄関に向かい、かかとを潰した状態で黒のローファーを履き、玄関の扉を開けた。
その瞬間。
彼の目に映ったのは、一人の女の子であった。
鎖骨付近まで伸びた黒く艶やかな髪が、透き通るような白い肌。
ほんのり桜色した唇と吸い込まれるような瞳は、まさしく清楚女子の典型であった。
「おはよう。陽くん、亜希葉ちゃん」
その女の子は、ニコリと微笑んだ。
彼は、その笑顔に本当に天使が舞い降りたと思い、今にも天に召されるような感覚に陥った。
「優奈ちゃん、おはよー! ほら、お兄ちゃんも空見上げてないで挨拶しなさいよ」
亜希葉に、カバンでお尻を軽く叩かれ、我に返る。どうやら、先程の感覚が表に出てしまったようだ。
「おはよう、優奈。遅くなってごめん」
「大丈夫だよ。でも、今日は歩いてると遅れちゃいそうだし、陽くんの後ろ乗せてもらおうかな」
優奈は、体を少し前かがみにし、覗き込むように彼を見つめる。
彼は、寝坊して良かったと心から思い、「神様ありがとう」と小さく呟きながら、再び空を見上げた。
しかし、すかさず亜希葉にカバンで叩かれ、彼は正気を取り戻す。
そんなやり取りに、優奈は口元に手を当てクスクスと小さく笑っていた。
(ああ、なんて愛おしいんだろう)
そんな事を思いながら、彼は自転車に乗り、続けて優奈が後ろの荷台部分に横座りすると、自然と優奈は彼の腰元をギュッと掴んだ。
制服越しからでもわかる優奈の小さくて柔らかな手の感触が、腰から脳内へ伝わっていく。
「それじゃあ、優奈ちゃん、お兄ちゃん、行ってきます!」
「おう、気をつけるんだぞ、亜希葉」
「お兄ちゃんもね」
そうして、亜希葉は手を振り、彼らを見送ると、彼らとは逆の方向へと歩いて行った。
「よし、俺達も行きますか!」
「そうだね! でも、陽くん、可愛い子見つけて、よそ見しちゃダメだよ」
優奈は、掴んでいた彼のブレザーの裾を数度小刻みに引っ張った。
行動1つ1つが、可愛さに溢れていて、彼の脳は水蒸気のように蒸発しそうになる。
他の女子を見るわけが無い。だって、俺の後ろには、この世で一番可愛い女の子がいるのだから。
彼は、内に秘めた決意を隠すように「はいはい」と生返事をして、自転車を漕ぎ出した。
それからは、優奈と何気無い会話をした。昨日テレビでやってたドラマの話だったり、優奈の飼ってる犬の話だったり。
何気無い会話も、優奈とだから飽きないし、心から楽しいと思える。
この朝の登校が、彼にとって、1日の中で最も幸せに感じる時間なのである。
だが、その時間もそう長くは無い。
彼の登校ルートの途中にある交差点に差し掛かると、彼は、ブレーキレバーに手をかけた。
自転車は、ゆっくりとスピードを緩め、交差点の信号の前で止まる。
すると、優奈は自転車が止まったと同時に荷台から降りると、自転車の籠に入れていたスクールカバンを取り出した。
「陽くん、ありがとう。おかげで学校間に合いそう」
「これくらいおやすいご用だよ。むしろ、俺の方がありがたいというか……」
「ん? 最後、何か言った?」
「いや、何でもない」
「そっか……」と呟いた優奈は、口角を軽く上げて優しく微笑むと、彼に向かって手を振り、自分の通う高校へと歩いて行った。
彼もまた、優奈に応えるように手を振り、彼女の背中を見送った。
「はああー」
最も幸せな時間が終わりを遂げた悲しさと自らの寝坊のせいで優奈と過ごす時間がいつもより短くなった事への悔しさが、大きなため息となって空気中へと吐き出されていった。
その時、彼の背中に何者かがのしかかり、肩に手を回してきた。
「おっはー! 陽介」
「何だ、久慶かよ。朝から暑苦しいな」
彼は、本田久慶。
陽介と高校1年の時に同じクラスになって以来、意気投合した友人である。
「その反応はねえだろう。心の共と書いて心友の間柄だろ。それより、遅刻すっからチャリの後ろ乗っけてくれよ」
陽介が、「それは無理だ」と言おうとした時には、既に久慶は自転車の荷台にまたがっていた。
優奈の座った後に男の硬い尻が乗っかった事に内心苛立ちを覚える陽介だが、始業式の日に遅刻するのはさすがにまずいと感じ仕方なく自転車のペダルを踏み込んだ。
(後で、アルコール消毒をしないとな)
そう心に誓った陽介であった。
「なあ、陽介。お前、あの子といつ付き合うんだよ」
「あの子って……あー、優奈の事か。どうだろうな」
「お前、毎回その反応だな。毎朝、一緒なんだから普通は進展するもんだろ。俺ならもうまぐわいは済んでる頃だな」
「おい、やめろ!久慶みたいに万年発情期じゃねえんだよ。何回も言ってるど、俺と優奈は、ただの幼馴染だ」
そう、ただの幼馴染……。
その言葉を、何度口にしても胸が締め付けられる。
でも、仕方ない。
優奈は、手に届かない存在だから……。
陽介は、自転車のグリップを強く握りしめた。
「へいへい、そうですか。じゃあ、万年発情男じゃないお前にはこの代物は必要ねえか」
すると、久慶が、陽介の目の前である物をチラつかせる。
それは、大人気グループに所属していた元アイドルが、セクシー女優に転身して初めての作品のDVD。
『もう恋していいですか? 上目遣いで誘ってくる元アイドルに、僕の”濃い”をプレゼントしました』
即日完売した超レア物のDVDに思わず手が伸びる陽介であったが、久慶がその手をかわし、自らのカバンの中にしまった。
「お前も万年発情男と認めるか?」
陽介は、無意識の内に頷いてしまっていた。
「じゃあ、いつものところで鑑賞会な」と久慶は言って、陽介の肩を軽く叩いた。
そんなやり取りをしている内に、彼らの視線の先に高校の正門が見えてきた。
陽介が通う青桐高校は、県内では中の上といった偏差値ではあるが、付属大学も含めた大学の推薦枠が多く、県内では人気の高校の1つとされている。
だが、人気の理由は、それだけではない。
青桐高校は、”生徒の自主性を重んじる”というのが理念らしく、制服は決まっているが、自分なりに制服をアレンジしても良いし、髪色も自由にできるのが、人気な理由の大半を占めている。
久慶も、自由さを選んでこの高校を選んだらしく、髪型は、ブラウン系の流行を取り入れたマッシュヘアーに、左耳にはシルバーのピアスをつけ、ブレザーではなくワンサイズ大きいグレーのパーカーを着ている。
身長も180センチ程あり、あっさりとした癖のない顔立ちが、学校の女子からも人気が高い。
一方の陽介は、身長は久慶より5cm程低く、可もなく不可もなくといった表現がふさわしいくらいパッとしない顔立ちをしており、制服もネクタイを少し緩めている以外は、何もアレンジしていない。髪型も前髪が眉上くらいのショートヘアで、至って普通である。
陽介がこの高校を選んだ理由は、大学の推薦枠がある事と何よりも優奈の通っている高校が近くという事が大きいな割合を占めている。
陽介達は、正門近くの駐輪場に自転車を止め、高校の入口へと向かった。
正門から入口までの間に、満開に咲いた桜の木が二本あり、女子はスマホ片手に写真を取り合っている。
そして、陽介は、桜の木の近くを通るたびに、女子の視線がこちらに向いているのを感じる。もちろん全て久慶に向けられた視線だ。
陽介は、久慶のカバンに目をやった。
(君達は知らないんだよな、このカバンの中に何が入っているのか)
陽介は、久慶の肩に手を置き「お前って相変わらず凄いのな」と伝えると、久慶は、陽介の言葉に理解できないのか首を傾げたが、すぐに何事も無かったかのように笑ってごまかした。
そう、久慶は、この1年間、自分がモテている事に全く気づいていない。
高校1年の一学期終わりには、陽介に対して「お前ってモテんのな」と言う程に自らの視線に無自覚なのだ。
陽介達は、下駄箱で上履き用のスニーカーに履き替えると、クラス分けの確認のため、下駄箱を出てすぐの掲示板に目をやった。
”夏川陽介”と”本田久慶”の名前は、同じ1組の欄に書かれていた。
今年も同じクラスになった事に、久慶は、陽介にハイタッチをせがんでくる。
陽介も、うっとおしそうに久慶のハイタッチに応えたが、内心は嬉しく思っていた。
陽介は、久慶とは違い人見知りである為、久慶が同じクラスになったのははかなり大きかった。
陽介達は、1組の教室に入ると、既に教室に入っていたクラスメイトが「おはよう」と声をかけてくる。
久慶が、挨拶を返すタイミングで、陽介もまた「おはよう」と返した。
「夏川くん、久慶、おはよう! 今年もよろしくね!」
陽介達に声をかけてきたのは、クラスメイトの一人、咲良美雪であった。
首元まで伸びた黒髪に、クリッとした目が特徴的な赤いメガネがトレードマークの女子で、高校1年の時も陽介達とクラスが一緒で学級委員長を務めていた。
美雪は、久慶と小学校からの付き合いで、人見知りの陽介も美雪とは打ち解けていた。
陽介達は、「おはよう」と返すと、美雪は、赤いメガネの端を人差し指と中指でクイッとあげると、ニヤリとして陽介達に食い気味に迫ってきた。
「ところでお二人とも、そろそろ答えを出して欲しいんだけど……。どっちがタチで、どっちがネコなの!」
鼻息を荒くする美雪に、陽介達は、声を揃えて否定した。挙げ句の果てには、久慶が女好きをアピールする為に、今日のお楽しみDVDをカバンから取り出そうとしたが、陽介が全力でそれを阻止した。
このやり取りは、高校1年の時から定期的にあり、陽介は、美雪の問いかけに煩わしさを感じる反面、この3人のノリを心地よくも思っていた。
その時、教室の後ろの扉が開き、二人の甲高い女子の声が教室に響いた。
すると、教室の雰囲気が、一瞬張りつめた空気になる。
「今日さー、帰りに駅前のスムージー屋寄ってかない?」
「それいいねー! あたしは、今日、バナナスムージーにしよっかなー」
「じゃあ、あたしは、グリーンスムージーかな」
「健康志向うけるんだけど」
彼女達は、一番後ろの窓側の席に縦並びに座って、その後もガールズトークを続けている。
先程まで、ワイワイとしていた教室も、一部を除いて、少しばかり声が小さくなった気がした。
その一部は、久慶と美雪で、まだ先程の件を言い争っているのだが。
(ああいうタイプ苦手なんだよな)
陽介は、何気なく彼女達に視線を向けた途端、奥側にいた派手めの女子と目が合い、陽介は慌てて目をそらした。