心に残る授業1 ~教育実習~
1 中学校
私が初めて教壇に立ったのは、大学4年生の時、母校の中学校で教育実習をした時だ。もう30年以上前になるが、定年を前にした私は、今でもあの時のことを時折思い出す。感謝と幾ばくかの悔恨の情をもって。
教員免許もない仮の先生だが、初めて先生として生徒の前に立つのはとても緊張した覚えがある。当時、実家は母校とは離れたところにあったので、中学校に配慮いただき、学校の近くの旅館に安く泊めてもらった。その旅館は、私が配属された学級の女の子の家でもあった。
電車とバスを乗り継いで、学校の校門をくぐると、懐かしい桜並木が見えた。毎日通った長く続く坂道を登るにつれ、過ぎし日の思いが胸を掠める。10年間が瞬きするほどの時間に感じられ、ふわりと浮遊したような感覚になる。
広い校庭に出ると、放課後の部活動が始まっていた。野球部がかけ声にあわせてランニングをしている。体育館からは、ピンポンを打ち合う音、ドリブルの音、シューズが擦れる音、笑う声。そう、中学校の音が聞こえた。
昇降口から入り、事務室で名前を告げると、職員室に通された。入り口で40年配の眼鏡をかけた先生に出迎えられた。
「社会科担当の脇坂です」
「教育大学の北城仁志です。よろしくお願いします。」深々と頭を下げる。
「どうぞ。かけて。」椅子を出されて座る。
職員室というのは、どうも苦手だ。呼び出されて立ったまま小言を言われるのがおちで、職員室の椅子に座って話をするというのは初めての経験だ。
何か景色がちがって見える。立場がちがうとこうも変わるものか。先生方が忙しそうにしている。パソコンの画面に向かっている先生、プリントを抱えて足早に動き回っている先生、隣同士で打合せしている先生、コピーをしている先生、何か書き込みをしている先生。
「他にも3名、教育実習生がいます。控え室は向かいの相談室ですから、荷物はそこに置いて。貴重品は必ず身につけておくように。」
「はい。」
「北城さんには、2年生の社会科を受け持ってもらいます。担当のクラスは2年2組です。明日、ホームルームで生徒に紹介します。簡単にあいさつしてもらうので、何か考えといて。」
「わかりました。」と答えたが、早口で話される内容に事務的な印象がある。歓迎されていないのだろうな。歓迎?そんなわけは無い。実習生なんて迷惑以外の何物でもない。担当者にとっては仕事量が増えるだけだと要らぬことを考えてしまう。
「これが2週間の実習の計画書です。よく目を通しておいてください。」
「ありがとうございます。」
いよいよ始まるのだ。期待と不安が入り交じる。
「校長室に行って、あいさつしてください。」
「分かりました。よろしくお願いします。」と言って職員室を後にした。
職員室の斜め向かいに校長室があった。私は、校長室の前に立ち、ノックした。
「失礼します。」
「どうぞ。」と声が聞こえる。
校長室というのは独特の雰囲気を醸している。大きな机にソファー。歴代の校長の写真が壁に掛かっている。硬い空気感に威厳と言ったら良いのか、冷徹な近づき難さがある。しかし、この校長室は。何か明るい柔らかさを感じる。窓から差す日光、窓際の観葉植物、そこにちょこんと座るおじいさん、ではなく校長先生。
「よろしくお願いします。」
「北城君だね。2週間、君にとっても生徒にとっても良い経験になるように。」
校長先生が微笑をもって迎えてくれた。
2 初日
2週間お世話になる旅館に向かった。国道沿いに建つ、少し大きな民宿という印象だ。
玄関を入ると、2階奥の突き当たりの部屋に通された。
「ここなら隣の音も聞こえないし、集中できると思うから。」旅館の奥さんが気遣ってくれた。丁寧にお礼をし、部屋に入る。すでに布団が敷かれている。こたつがぽつんと置かれただけで何の飾りも無いが、10畳はある広々とした部屋だ。十分だ。障子を開けると国道を行き交う車が見えた。
荷物を床の間に置き、スーツを脱ぐ。緊張したせいか、肩が凝った。いやスーツのせいだ。ただでさえ着慣れないし、ネクタイは締め付けられて苦しい。皆よくこんなものを着ているなと社会人になりきれない不甲斐なさも感じながらハンガーに掛ける。
大きく伸びをし、良し頑張るぞと自分自身に言い聞かせるようにつぶやく。
「食事どうぞ。」と女の子の声がした。1階に降りると食堂に夕食の用意がしてあった。他には誰も居ず、一人だけだ。奥さんに後で聞いたら、付近の工事現場の作業員さんが数人、泊まっているだけとのことだった。
中学生らしい女の子がお茶をもってきてくれた。
「ありがとう。」と言うと、ぺこんと頭を下げてそそくさと奥に引っ込んだ。あれが配属された学級の子かなと思い、いろいろ聞いてみたいこともあったが、出てきてくれなかった。
お風呂に入った後、部屋のこたつに入って明日の準備に取りかかった、と思ったら朝が来ていた。どうやらこたつで眠ってしまったらしい。教科書が開いたままになっていた。何とたるんでいることか。
急いで支度をし、学校に登校、ではなく通勤?すると、同じ実習生が3人、控え室に来ていた。私以外、皆、同じ大学の学生で、ちょっと疎外感を感じたが、教育実習の仲間が居るのはうれしい。
「ホームルームに行くよ。付いてきて。」脇坂先生に呼ばれた。
教室に入る。40人の生徒の視線が一斉に異邦人に向かう。ここが一番緊張する場面だ。
「教育大学から来た北城と言います。君たちの先輩です。社会科を担当します。2週間よろしくお願いします・・・。」と、ジョークの一つも交えれば良いものを、ありきたりの挨拶しかできず、シラけ顔の生徒が妙によそよそしかった。一人だけ、旅館の娘、恵子さんだけがうなずいてくれたように見えた。
1日目は、オリエンテーション、学校概要の説明を教頭先生から受け、午前中は脇坂先生に付いて授業参観、午後から自由参観、教材研究。放課後は部活というスケジュールだった。
部活は、卓球部に配属された。中学校当時、私も卓球部だった。小学校から卓球をしていた。それほど上手くなかったが、団体戦のメンバーには選ばれていた。早速、先輩面して生徒と試合をしたら、ブランクが響いたのか、散々に負かされた。
「先生のバックハンド強いですね。僕ももっと強いバックハンド打ちたいんです。教えてください。」と生徒に言われた。真剣に取り組めば、真剣な答えが返って来るという至極当たり前のことにひどく感動した。
部活が終わると、控え室に戻って実習日誌を書く。今日一日取り組んだ内容、所感を記入する。A41ページほどだが、時間がかかった。他の実習生も同様だ。なかなか話をする時間もない。それぞれ配属された学年、学級、部活の中で生活していた。私と同じで、みんな四苦八苦して余裕が無く、自分のことで精一杯のようだった。
次の日から、毎日1時間の授業を担当させられた。社会科の地理だ。私は大学では日本史を専攻したが、地理ということで、自らも勉強せざるを得ない状況だ。旅館に帰って、次の日の授業の準備という日々が続いた。毎日実習を終え、旅館に帰ると、教材研究に頭を悩ませた。どう生徒に教えたら良いか、どうしたら分かってもらえるだろうかと、毎日毎日、教科書、地図帳、指導書とのにらめっこが続いた。
3 研究授業
実習も残りあとわずかになり、いよいよ研究授業をする日が近づいてきた。単元は「北アメリカの大規模農業」で、目標は、大豆やとうもろこし等の穀物の収穫が機械化により大規模に行われている状況を理解させることだった。私は、資料を詳しく解説し、生徒に理解できるように授業展開を考えた。
「北城先生が自由に考えて授業をしてください。特に指導案は出さなくて結構です。」と脇坂先生に言われた。何でもかんでも文書での提出を求められる今では考えられないことだが、当時はフランクだったような気がする。私は教案(指導案)を胸案として授業に向かった。
3校時、2年2組。社会科の時間。地理の研究授業である。担当の脇坂先生と学年主任の先生、そして、校長先生が見に来てくれた。3人は教室の後ろに立ち、じっと私を見つめている、ように感じた。
私は、教卓に教科書と地図帳を広げた。教案は胸にある。
「起立。礼。着席。」当番の生徒が号令をかける。
私は、生徒を一回りぐるっと見回し、
「教科書38ページを開いてください。今日はアメリカの・・・。」
50分間の授業が始まった。
「アメリカ合衆国は、国土の大半が温暖な地域であり、そのため農業大国であり、「世界の食料庫」と言われている。アメリカの農業は、輸出を前提に大量生産している。そのため大規模な農家が多く、小規模な農家は少ない。小麦、大豆、とうもろこし,綿花で、アメリカ合衆国は世界最大の輸出国である。国際的な穀物の流通大手の大企業が、いくつかアメリカ合衆国にあり、それらアメリカ合衆国の穀物流通の大企業である商社を穀物メジャーと言う。穀物メジャーは、世界の穀物の流通や販売に対して、とても強い影響力を持つ。」
ひどく緊張したが、自分なりに考えたことができたことに多少の満足を覚え、授業を終了した。ほっとして控え室に戻る途中、校長先生に呼び止められた。
「ちょっと校長室に来てください。」
授業の講評をいただくのだなと思い、その足で校長室に向かった。
ドアをノックし、部屋に入った。校長先生の正面に立った。校長先生が顔を上げ、私を見た。
「あれは授業ではない。単なる講義です。」
いきなり校長先生から厳しい言葉が発せられた。
「そんな・・・。」
私は動揺し、頭の中が真っ白になり、ただただうつむいていた。口の中がからからに乾き、足が震えて止まらなかった。
しばらく沈黙が続いた。何も言えない。
やがて校長先生が、「放課後、相談室に来てください。私が”授業”をします。」とおっしゃった。
4 授業
放課後、重い足を引きずり、相談室に行くと、私と同じ実習生が3人、6人掛けの丸いテーブルに座っていた。私も並んで座り、校長先生を待っていた。
校長先生が相談室に入ってきた。やや緊張した面持ちだ。
「これから国語の授業をします。」と言って、ゆっくりと正面の椅子に座った。私は、さっきの言葉が脳裏をよぎり、視線を合わせることができなかった。
校長先生は数枚の短冊様の紙を携えていた。それを机の上に広げ、数枚ずつとると実習生に配った。その短冊には、1枚1枚に短歌が書いてあった。
「この短歌を黙読してください。ゆっくりで良いですから一つ一つの言葉に注意して、読んでみてください。」と語りかけた。
5分間ほど、実習生はそれぞれ短冊に書かれた短歌を読んだ。私も3枚の短冊を読み始めた。
『うとまるるわれになつける文鳥の 嘴のいたづら笑みて愛しむ』
『角膜の献納せむと乞ひて得し 養母なり養母は優しさに豊む』
『温もりの残れるセーターたたむ夜 ひと日のいのち双掌に愛しむ』
「一人ずつ、自分の短歌を読んでください。」と校長先生が皆に語りかけた。
私たちは順番に、自分の短歌をそれぞれ声に出して読んだ。
それが終わると校長先生が、
「この短歌を詠んだ人はどんな人だろうか、考えてみましょう。」と言い、様々な発問を実習生に投げかけた。
「この人は、どんなところで詠んでいると思いますか?」
「この人は男だろうか、女の人だろうか?」
「誰にあてて詠んでいますか?」
「どんな境遇か想像できますか?」
「今、どんな気持ちでこの短歌を詠んでいますか?」等々。
実習生はそれぞれ「ずいぶん寒そうだ。」とか、「寂しそうだ。」とか、「たぶん男だと思います。」とか、「お母さんに宛てた手紙のようだ。」とか、校長先生の発問にそれぞれ考え、答えていった。私も必死に考え、答えた。
実習生同士の発言を聞きながら、私の頭の中にも、その短歌の作者のイメージが出来はじめていた頃、ようやく発問のやりとりが終わり、校長先生が語った。
「その短歌の作者は、死刑囚です。」
頭を強く殴られたような衝撃があった。そうだったのか・・・。
校長先生はその短歌の作者について、とつとつと話をされた。
「強盗殺人事件を引き起こした元死刑囚であり、一審の死刑判決後、死刑執行までの7年間、獄中で短歌を詠みつづけた歌人。享年33歳・・・。」
死刑囚が刑務所の独房で詠み綴った短歌・・・、悲しみ、哀しみ、温もり、優しさ、愛おしさ。想いが深く深く感じられ、心をかきむしる。
名状し難い思いに胸がいっぱいになり、涙が出てきた。他の実習生も同じように泣いていた。声を上げて泣く実習生もいた。
こうして私の教育実習が終わった。
荷物をまとめて旅館を後にする時、恵子さんが言ってくれた。
「先生、良い先生になってね。」
30年以上経った今でも、あの時のことは忘れられない。
授業ではなくて講義。胸が張り裂けそうになった経験。心に残る授業、私の原点だと思っている。