異世界トリップⅣ
「ところで、レン? こういうときくらいは名前で呼ぶべきだわ」
「まあ、気にするな。こういう時にしろ常に呼びやすい名前が一番だ」
「TPOを考えたら? こういう時は結構絵になるような場面なのだからニックネームよりも名前の方が格好つくじゃない」
「別にいいだろ? 男と男の関係じゃあるまいし、そんな熱い友情みたいな青春ドラマみたいなことを語られてもな。ルーズも悪くないぜ」
「分かったわ。あなたがそう言うなら、そうさせてもらうわよ」
「良かった。拒否されるかと思ったよ」
「それは、それとして早くこの森から抜け出したいところね」
ネコミミは小さくため息をついて、こう呟くのだった。
「何で?」
僕はその様子に思わず首を傾げた。
例えば、この森は危険な場所だからだろうか?
それならば、話は分からなくもないだろう。
だが、もしもそれ以外だとしたら他に何があるだろうか?
僕はどこか判然としない様子で理由の詮索を始めた。
例えば、この森は幽霊が出るとか? 森に入った者は呪われるとか?
「それは、この森は一度入ったら二度と帰れないと言われている《彷徨いの林獄》だからよ」
彼女は言った。
すると、周囲の木々が大きく蠢き始める。
それは、猛烈な烈風によるものでもなければ、何らかの自然の力による影響でもない。
ズシン、ズシンと鈍く響き渡る地響きと共に、グオオォォォという雄たけびが周囲に轟く。
雄たけびが森を揺らしてるのだ。
台風を上回る、甚大な風圧と轟音と共に。
姿形はゲームで倒したワイバーンと似ている。
大きさはワイバーンよりもひと回り大きく、巨大な羽を広げて4つんばいになってこちらにゆっくりだが確実に迫ってきている。
全身を見るからに頑丈そうな漆黒の甲殻に身を包んだ鎧染みた身体は鋼鉄の剣では全く歯が立たなさそうだ。
僕は、このレベルのサイズのモンスターならばゲーム内で見慣れたつもりではあったが、やはり3Dホログラムで再現されたものと実物とでは存在感が天と地ほども違っていた。
僕はその存在感にしばらく圧倒され、思わず足が震えた。
「……ダーク・ペテルギウス・ワイバーン。別名、“黒い死神”。私も傷だらけで空も飛べないし、この場から逃げる術はない。もう終わりね、私の人生も」
少女は悲しげに微笑む。
自身の不幸を哀れみながら。
「“黒い死神”だって? 面白い! さすが異世界だよ! こんな展開を僕は待っていたんだ!」
僕は戦慄した感情を抑えきれず、すっかり興奮気味になってその場から立ち上がる。
「ちょ……何やってるのよ! 相手はあの“黒い死神”よ! まともにやったって勝ち目はないわ!」
ネコミミ……は言った。
そして、僕のジーンズのすそを力なさげに引っ張った。
それは小さい手だった。
小さくて可愛げのある少女の手だった。
指の一本一本が細く繊細で力を加えると折れてしまいそうな儚さがあった。
僕は彼女のその小さな手の甲に自身の手のひらを添えた。
「大丈夫だ、心配はいらない。僕は神になる男だから」
僕は彼女に満面の笑みを浮かべながらそう告げると、彼女はキョトンとした表情で僕の顔をじーっと見つめていた。
「そうね、あなたはいずれ神様になる存在だものね。でも、負けて死んだら承知しないわよ」
少女の顔に再び笑顔が戻る。
そして、ネコミミは僕の腕をつかんでゆっくりとその場から立ち上がると、その時に僕の体が前かがみになったところを狙って、目をかたくつむり、かかとを上げ背伸びして僕の顔に自身の顔を近づけて、
――キスするのだった――
彼女のやわらかい唇の感触が僕の唇から全身に伝わるのが分かった。
僕は頬どころか耳の裏まで真っ赤にして、戸惑い気味に瞳を震わせ彼女を見た。
そして、彼女が僕の唇から離して静かに目を開けると、僕は慌てたように後ずさって、
「い……いきなり、何をするんだ!?」
こう尋ねるのだった。
「何ってキスじゃない?」
ネコミミは何事もなかったかのような安定した様子で首をかしげた。
どうかしたのかしら? とでも言うように。
それを聞いた僕はさらに取り乱した様子で彼女の方を見た。
「さっきのキスで私はあなたに悪魔の力を与えたのよ。だから、絶対に生きて帰って来なさいよ」
ネコミミは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう」
僕も満面の笑みでそれだけ告げると、その場からいきおいよく飛び出すのだった。