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思い出したくもない話だけど、あの事件を語らずにイマードとの再会を回想することは出来そうもない。だからなるべく要点だけを振り返ってみる事にする。
一言弁解をさせてもらえるのなら、私が注意力散漫だったのには理由があった。
元の世界で、私は結構太っていた。日本でポッチャリ体形の女の子というのは、程度の差こそあれ、異性から熱い視線を浴びる事があまり無い。かなりの確率で恋愛対象から外されていると言っても過言ではないのだ。男の人と目が合ったからと下手に意識しようものなら"自意識過剰"と罵られる。
『うわ、すげー肉』『お前なんか見てねーよデブ』……。
視線を感じたとしても、それは多くの場合体形への蔑視であり、スルーする習慣が私につくのも無理からぬ事だろう。
まあ、あれだ。人の事を外見でしか判断できないような男、こっちからお断りだけどね!
過去の経験から、"見られる"事への危機感が、同世代の他の女子よりも私は希薄だったのだと思う。
そして、この世界に来てからはなおのこと。
最下層の貧民の男の子として扱われる事に、私は慣れてきていた。
一目で異民族だと分かる容姿、慣習に物慣れない様子、たどたどしい言葉使い、身寄りもない路上生活者……誰もが関わり合いになりたくなるような身の上ではない。排除もされないけど積極的な援助もされず、街中から遠巻きに見られているような感じだった。
たとえて言うなら、いつの間にか路地裏に住み着いてしまった野良猫、それが私。特別誰かに懐く訳でもなく、特別誰かに迷惑を掛ける訳でもない。比較的無害であるがゆえにお目こぼしされているだけの存在、という事だ。
言葉の方も、三か月経ってようやく必要な単語を幾つか――『水』、『パン』、『肉』、『ありがとう』くらい――覚え始めたところだった。誰かに教えてもらったのではなく自然と耳で覚えたので、読み書きは当然無理。片言も片言、他人とコミュニケーションを取れるような言語レベルではなかったし、私としても街人と必要以上の接触は望んでいなかった。そこまで前向きにはまだなれていなかったから。
だから、一部の人達の視線がいつしか私の性別を疑うものになっていたのに、私本人は全く気付いていなかったのだ。
◇◆◇
あの日、私は小川に水浴びに来ていた。
街から半日ほど歩いた地点に身を隠せる良いポイントがあり、入浴と洗濯目的に、結構定期的に通っていたのだ。
早朝に街を出て水浴びを済ませ、身支度を整えてから折り返せば、夕方の施しの時間に充分間に合う。一回の食いっぱぐれは二日近い絶食を意味するので、絶対に遅れるわけにはいかない門限だ。
色々と制限はあったけど、やはり日本人女子にとって入浴は心躍るイベントだと思う。
シャンプーもボディソープも勿論無かったが、水で垢を落とすだけで気分がだいぶ違う。特に髪を洗えるのが大きい。こちらの世界にやって来た当初はショートヘアだった私の髪も、その頃にはボブくらいの長さになっていた。そうなると脂っぽさがどうしても気になってしまう。水洗いの自然乾燥だから、髪がバサバサになる割に根本の脂分は完璧には落とせないのだけど、もうそこは仕方が無い。
『泥シャンプー』という単語を元の世界で聞いたことがあって、川底の泥で洗髪できるんじゃないかと思って一度だけ試してみた。でも乾いた後に頭皮がすっごく痒くなったので、それから二度とやっていない。多分、あっちの世界で商品化されていたのはもっと特別な泥だったんだろう。それか、異世界人の私の頭皮にこちらの泥が合わなかったのかも。残念だ。
繰り返していた手順はこうだ。
全てを手短に済ませるために、まず靴を脱ぎ、ジーンズを洗って干す。これが一番乾きにくいからだ。とはいえ湿度が低いせいか、良く絞って小一時間も干していれば半乾きくらいにはなる。あとは履いて帰って自分の体温でどうにか乾かすのだ。
それから他の服を着たまま小川に入って、髪と顔を洗う。服と下着を脱いでからTシャツで身体を擦り、次いでそれらを洗って、干す。
衣服の乾燥を待っている間は、素肌の上に直接マントのような布を被って日光浴。この布は屋台の庇として使われていたものの再利用だ。街で捨てられていたのを拾ってきた。ところどころ穴が開いているのだが、裸でいるよりは断然マシだから。
このマント(元・庇)は、普段使いもしていた。Tシャツとジーンズという、ここの人々から見たら珍妙なはずの格好を誤魔化すために上から羽織っているのだ。足元まで覆う長さはなかったが、一枚羽織るだけで異分子な私でもそれなりに風景に溶け込めている気がする。さすが巻き物。ショールとかストールとかマフラーとか、あるだけでだいぶ印象が変わるもんね! 痩せてからは私の女らしい体形を隠す意味合いも兼ねていた。夜は布団代わりにもなるし、とても便利。薄地なので冬に防寒効果は期待出来なそうな所だけが難点だけど。
体型が変わった所為で色々な衣服がぶかぶかになっていたが、ジーンズはベルト部分に紐を通し、ショーツは余った部分を結んで、ブラは合わないアンダーを我慢して、という風に工夫して三か月なんとか保たせてきた。そのせいでかなり生地は傷んでいたけど、私は同じ服を着続けた。携帯電話同様、日本から着てきた衣服を手放す事はどうしても出来なかったのだ。これを未練というなかれ。
うちに帰るためには、来た時と同じ格好をしておく必要があるのかもしれない――私は心のどこかでそう考えていたのだと思う。根拠は全く無い、妄信のレベルだ。でも、どういう理屈で自分が異世界に飛ばされたのか分からない以上、考え得る全ての手を打っておきたかったのだ。おまじない程度の気休めでしかなかったけど、あの時私に出来る事なんてそれくらいしかなかったし。
それに、路上生活者にとって財産は常に携帯すべきものだ。身に着けておくのが一番確実な保管場所。まあ、ボロボロの服と充電切れの携帯なんて、他人には盗む価値もないかもしれないけど。所持品が帰還の条件に含まれていないとしても、私にとって故郷を思い出す縁くらいにはなる。
あの日の私もいつもの服装で小川までやってきて、水浴びをしようとしていた。
纏っていたマントを畳み、最初に靴を脱ぐ。次にジーンズのボタンを外そうとして、ふと、違和感を感じる。誰かに見られているような気がしたのだ。さっと振り返ると、少しだけ後ろに男が三人離れて立っていた。相変わらず年齢は良く分からなかったけど、私より多分上で、中年まではいかないくらいの年齢の人達。どこか見覚えがあるような気がしたので、街中で何回か擦れ違った事でもあったのかもしれない。
「え……何、ですか……?」
小川を背にして若干引き気味に問い正すが、私の日本語が通じるはずもなかった。
「*****」
「**」
「*****」
三人は互いに話しながら、近寄ってくる。私を中心にして描かれた輪の円周を縮めるように。のんびりとした足取りだけど、確実に私の逃げ道を塞ぐように。三人の表情に浮かぶ下卑た笑いを見て、遅まきながら私の背中に冷たいものが走った。
―――街からつけられてたんだ……!
咄嗟にマントを掴んで横向きに逃げる。
金目のものなんか持っていない。からかっているだけなら、どうか見逃して……!
そう願いながら走ったけど、呆気ないほど簡単に男のうちの一人に追い付かれた。
「痛い……っ!」
容赦のない力で腕を掴まれ、捻り上げられる。
「*****!」
男は仲間に向けて勝ち誇ったように何かを叫んだかと思うと、いきなり私の胸を鷲掴みにしてきた。
あまりの事に声も出ない。茫然としているうちに地面の上に押し倒され、男は私の上に馬乗りになった。
「******!!」
大声で仲間を呼びながら、私の身体をまさぐる男。
恐怖と混乱で凍り付いていた私は、その手の動きに吐き気を催した。
気持ち悪い。やめて、嫌だ、触らないで。何か武器、何か、何かないか……!
掴まれていない方の手でジーンズのポケットから携帯を取り出したのは、本当にただの偶然だったと思う。我ながらあれは、意図しての動きではなかった。助けを求めてさ迷う掌が固いものに触れ、瞬時にそれを男に向けて大きく振りかぶった。
ゴツッ――と鈍い音がして、私を押さえつけていた男から力が抜ける。それでも重い。男を何とか振り落して、私は慌てて立ち上がった。
「**********!」
残りの二人が血相を変えて駆け寄ってくるのを見とめて、今度は小川の中に逃げる。反対側の岸に這い上がろうとした所で裸足の踵を掴まれた。
「嫌……っ!」
振り切ろうとした拍子に指がボタンを押したのか、携帯のフラッシュが光った。突然の閃光に男達が怯む。その隙に私は走り出した。一瞬間が空いて、罵声と共に追い掛けてくる気配がする。
怖い。心臓が早鐘のようだ。走っているせいだけじゃなく、息が切れた。
苦しい。でも走れ。何が何でも逃げ切るんだ。走るしかない。
携帯のバッテリー。もうとっくに切れたと思っていた。なのに光った。パパとママが助けてくれた……!
浮かぶ考えは支離滅裂で、泣きながらの全力疾走でフォームも滅茶苦茶、それでなくても男と女の脚力差だ。いくらも行かないうちに私は男達に再度捕まった。二人掛かりで手足を抑え込まれたらもう抵抗も出来ない。絶望感に襲われて、私は悲痛な叫び声を上げた。
「やだぁぁっ」
助けて、誰か、誰でもいい、お願い誰か来て―――――!
ジャリッ。地面に押し付けられた私の頭の上の方で、土を踏みしめる音がした。
欲望に瞳を濁らせた男達が、他者の存在に気付いて顔を上げる。駱駝から降り立った人物は、吐き捨てる様な口調で男達に語り掛けてきた。
『――何をしている』
現れたイマードは怒りも露わにそう言った……んだそうだ。