1-4
日本じゃないのかもしれない、とは思っていた。もしかしたら名前も聞いたことが無いような外国に来てしまったのかも、と。
でも、まさか、そんな。
ここは、地球ですらないの―――?
◇◆◇
そういえば昨夜は月が出る前に寝てしまって、その上今朝は寝過ごしたんだった。道理で気が付かなかった訳だ、双子月に。色と形はそっくりだけどサイズの違う月が、大小二つ並んで浮かんでいるよ!
ええと、月って何だっけ。確か地球の衛星のことだよね。
そうそう、理科の授業の時、脱線して先生が言ってた。太陽系の惑星は結構衛星を持っているんだ。火星が二個で、木星と土星にはそれぞれ六十個以上、天王星にも海王星にも十個以上あって、冥王星には五個発見されたんだって。いや、冥王星は惑星じゃなかったか。
……でも地球には一個だけだったはずだけど。
夜空を見て、動揺のあまりどうでもいいような事を私が思い出している間。
「*****! ******!!」
私の真横に転倒してきた男の人は腕の力だけですぐさま上半身を起こし、そのまま私に向かってなにやら必死に語り掛けていた。
しかし残念ながらショック症状にあった私は、彼の言葉の総てを右の耳から左へと素通りさせていたのだった。まあ耳を傾けた所で、当時の私にこの国の言語は理解できていなかったので、ニュアンスで判断するしかなかった訳だけど。
私が彼の"イマード"という名を知るのはだいぶ後の事だ。この時点ではたまたま会った見知らぬ他人でしかない。後から本人に確認したところによると、この時イマードは、弁解と謝罪を繰り返していたんだそうな。
『急ぎの用があった自分は、近道をしようと思い立った。その為、路地裏に横たわっていた君に気付かずに、うっかり跨いで通ってしまった。申し訳ない事をした。心から謝罪したい』
……まあそんなような内容の事を、異国人だと思われる私に向かって切々と訴えていた訳だ。
ここで重要なポイントは、この国では"人の足を跨ぐ"という行為が、"相手に不幸を呼ぶ"とか"現状以上の成長や成功を出来なくさせる"ものだと信じられている、というところだ。
イマードは初見で私の事を比較的裕福な家の男の子だと思ったらしい。
まず、性別を勘違いされたのは、主に服装と髪型の所為だ。この国では女性は長髪なのが当たり前で、更に大抵の人は往来ではその髪を布で覆い隠している。奥床しい女性だと、目だけ残して顔まで覆うというから驚きだ。そんなの絶対暑いと思うんだけど。衣服も、多くの女性が選ぶのは身体の線が出ないゆったりめのワンピースで、私のように肘から先が剥き出しの服やズボンを履いたりはしないんだって。
年齢も、男の子にしては小柄だと、だいぶ低く見積もられたのだろう。横には大きくても縦がね。
次に、富裕層だと思われた理由。それはズバリ、私が太っていたからだ。ここでは貧しい家庭の者がデブだとか、絶対に有り得ない。究極の栄養失調になると腹部だけが膨れると聞くけど、私は顔から身体から、全身がふくよかだったからね! うん、考えづらいよね!
……あれ、おかしいな。目から汗が。
"未来ある少年に不幸を招いてしまった"という罪悪感が、イマードの気持ちをひとしお刺激したのだろう。冷静に考えれば、そもそも金持ちの家の子が小汚い恰好でこんな路地裏に寝そべっているはずがないのだけど。思い込みの力って恐ろしい。
とにかくイマードは誠心誠意謝り続けたものの、私が理解した様子もなくポカンとしている所から、この子は言葉が分からないんじゃないか、という可能性にやっと思い至ったそうだ。
そうなると謝りようがない。イマードは困惑した。
ぐきゅうぐるるる。
そんな時盛大に鳴り響いたのが私のお腹の虫だ。たとえ目の前の相手にそうと認識されていなくても、私だって思春期の女の子。恥ずかしくて顔が赤くなる。あっという間に私の中で、"異世界に来てしまった"衝撃よりも羞恥心の方が大きくなった。
『……腹が減っているのか?』
イマードは、良い事を思いついた。衣服の内側からハンカチに包んだ品を引っ張り出す。そっと広げて覗いてみると、派手に転んだわりには破損していなかったので安堵した、とのこと。
ほんの数秒、全部渡して良いものか思案したイマードは、私の表情を見て躊躇いを捨てた。丸ごと全部を掌に乗せる。
『受け取ってくれ』
イマードの差し出した包みからは、焼き菓子特有の香ばしく甘い香りがした。唾を飲み込もうとして、喉がカラカラに乾ききっていた事に気付く。私が喉元を押さえてハンカチを凝視していると、イマードはそれを私の膝の上にそっと置き、それから自分の水嚢を渡してくれた。この国ではポピュラーな革製の水筒だ。口を傾ける動作をして、中身を飲んでも良いと伝えてくる。
水。水だ。
むせ返りそうになりながら、一滴たりとも零すまいと慎重に口の中に流し込んだ。生温い水からは鞣した動物の匂いがした。多分入れ物の所為だろう。小川の清涼さとは比ぶべくもない。でも、甘露かと思った。
喉を潤した後は食べ物だ。自分の膝の上に置かれた包みに、私はおそるおそる手を伸ばした。
うわ、指が震える。
ハンカチの中身は、想像通りお菓子だった。見た目は一口サイズのパイ菓子に似ていた。一つ抓み上げ、口に入れる。思ったより固い、でも噛み締めるとやはりパイのようにサクサクしている。中にはクルミかアーモンドみたいな木の実が刻まれて入っている。そして甘い。
なんて事だろう、甘い!
私は夢中で残りのお菓子も口に放り込んだ。
甘い。美味しい。微かに花の香りもする。蜂蜜だろうか。
お菓子に掛けられていた甘いコーティングが溶けて指がべとつく。水嚢の水を遠慮なく飲み干してから、一本一本の指を丁寧に舐めて落とした。意地汚いと思われようが、構うものか。思春期の乙女心は食欲に負けた。
子供の機嫌を取るには甘味。うん、正しい選択だ。惜しむらくは、もっと量があったら良かったのに……。
『……気に入ってくれたようで良かった』
品の無い私の行為に明らかに引きながら、イマードは立ち上がった。
『では済まぬが急ぐので、これで』
本人の談ではそう言ったそうだ。当然私には分からなかったが。
けど目の前の青年が立ち去ろうとしているのは気配で察知できる。私は感謝の念と共に、空の水嚢を返そうとした。
『……ああ、いや、いいよ。それは君にあげよう』
目の前の子どもが富裕層の民ではないようだと、さすがに私の食いっぷりで分かったのだろう。ベトベトになった水嚢を、イマードは気前よく譲ってくれた。
この時になってようやく私はイマードの顔を見た。
顔立ちは至ってスマートだ。眼差しの甘さをスッと通った鼻梁が中和している。黒い髪、黒い瞳。浅黒い肌に、白目部分の濁りの無さと時折垣間見える白い歯が対照的。眉は濃く、唇の上と、もみあげから顎につながる輪郭部分に髭を蓄えていたが、両方とも短く整えられている。
服装は街の人と似たような感じだった。白っぽい色で統一されたシャツにズボン。頭部にはこれまた白の長布を被り、額の位置で黒い輪っかで止めてある。
清潔感があり、総じて生真面目な印象を受けた。
日本人である私にとってアジア系以外の人の年齢は見定めにくいのだけど、彼の肌には張りがあり、おそらくは青年と言ってよい年齢なのだろうと思われた。
日本人とは異なる彫りの深い顔立ちをしていても、彼の黒髪と黒目は、強い親近感を私に呼び起こした。まして彼はこの世界に来て初めて私に食べ物をくれた相手、好感度は鰻上りだ。私の中でイマードは"いい人"として認識された。
『君も早く家に帰りなさい』
言葉が分かっていたら泣いてしまいそうなことを言い置いて、イマードは足早に立ち去って行った。
その方角を見るとはなしに眺めているうちに、小腹が満たされたせいか急激な眠気がやってきた。普段の私なら朝飯前にぺろりといける程の量のお菓子でしかなかったんだけど、昨日今日の絶食で胃が小さくなっていたのかもしれない。私はその場から少しばかり奥まった死角を見つけると、もはや躊躇う事も無く、路地裏の石畳の上に直接丸まった。
食欲が満たされたら次は睡眠欲って、なんて欲望に忠実なのかしら、私。異世界の文明レベルをどうこう言える資格がはたしてあるのだろうか……。
そんな事を考えながら、私は引き込まれるように眠りに落ちていった。異世界に来て二日目の夜が、砂時計の中の砂粒のようにさらさらと過ぎていく。
―――ハンカチの方を返しそびれた事に気が付くのは、それから数時間は後の事。