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「でも何で、それがこないな事になるんよ。どう考えてもおかしいやん」
「はい。こちらとしても不本意ではありますが、きちんとバケツの他に張り紙まで用意しておいたのです。『すすいだ〈洗浄剤〉は飲まないように』と」
奏羽が腕を組んだまま、不意に小さく息を飲んだ。
視線で促されても、天井の隅を眺めて床の模様を見つめ、中々口を開かない。
「その、な。うち、昨日から万年筆探してるんよ。入館スタンプ用のインクが詰まってる奴」
目を泳がせて笑いを浮かべていた奏羽が、観念したように目を伏せた。
「シルキーさんは細かいこと気にしないやん? ……インクが同じで張り紙くらいの大きさやったら、まとめて片してしもたんやないかなって。もうシュレッダー済みっていうか、埃か綿かってくらいに粉々のふかふかになってるんやないかと」
「致し方ありませんね。こちらも背後を取られましたし、これ以上の情報収集、ならびに原因究明は困難と判定します。即時撤退を承認してください」
奏羽が口を噤む前に、オラトリオの嘆息が割り込んでいた。
オラトリオはいつの間にか足を止めていて、ぴたりと踊り場の壁に背を預けている。
「……は? オっちゃん、いきなり何を」
奏羽はその真向かい、踊り場と階段の境目で目を白黒させ、そして体を強ばらせた。
オラトリオは壁に張り付いたまま器用に身体をずらし、奏羽の後ろをのぞき込む。
「今、背中に突起を突きつけられました。筒のようですが、詳細は…… 何か話そうとする度、せっつかれてます。これ以上は無理です」
奏羽は何度も口を開き掛けるが、その度に言葉を詰まらせる。次第にその目元は険しく、そして恨みがましく細められてゆく。
「それは、そうです。傷とか怪我とか、外傷は一切ありませんから。それでも私に耐えられるとは思いません。いえ勿論、試す暇がないという意味で、ですよ」
オラトリオは注意深く耳を傾けていたが、何度も頷きながら身を震わせた。
奏羽は口を開いたまま、オラトリオの意識が向くまで間を置く。
「そっちがその気なら、言わせてもらう。……振り向かなければ、安全ってこと?」
奏羽は努めて冷静な風に切り出し、そしておもむろに声を潜めた。喉につかえて掠れた問いに、オラトリオはただ親指を立てる。
「……会話が記録されているから、迂闊なことは答えられない?」
オラトリオは宙に向かって頷きつつも、奏羽に向けて再度同じ仕草で返した。
「……脱出の目処は立ってるん?」
目を眇めて指を振りながら、空いた方の手で丸を作ってみせる。
「……時間、稼ぐ必要あるのん?」
何度か縦に振った指で、二と三を交互に示す。
奏羽は目をつぶり、体に込めていた力を抜いた。
「色々気になるけど。つまりは、いざとなったら大神殿に逃げ込めば良いってことやん。殴り合いは苦手やけど、〈研究棟〉の中なら幾らでも足止め出来る子は呼べるし。うん、うちの先見の明も大したものや……ん?」
奏羽は何にたどり着いたのか自覚のないまま、こぼれるままに言葉を繋いだ。
「殴り合いって、もっとこう、問答無用なんやないの? や、でもだからってそんな都合のいい、ゾーン設定をいじったくらいで追加効果が出るような話なんて……」
呟き終える前に、奏羽は既にオラトリオを睨みつけていた。
「なあ、オっちゃん。今日試そうとしていたの、〈洗浄液〉とか言うてるけど。実は結構きっつい奴なんやないの? 元々は麻痺とか石化とか、それもデバフっていうより暗殺用の」
オラトリオは潔く力強く、その親指を立てた。
「自動ドアも電撃使うて開けとったよね。〈研究棟〉内はパッシブどころかアクティブも、スキルは全部使えるようになってると。……やっぱり、オっちゃんのせいやんか!」
足を踏みならす奏羽に、オラトリオは指を立てて肯定しながら、もの悲しそうな顔を作った。
「あなたの身体を張った分析は、決して無駄にいたしません。ご安心ください」
「変なフラグは良いから! もうゾーン設定の書き換えも終わった頃やろ? とにかく場所変えよ、落ち着かんし」
奏羽が歩きだそうとするのを、オラトリオは胸の前に両方の手のひらを揃え、強い調子で突き出した。
「スキル関連は設定が込み入っているので、この場で変更は出来ません。現在は全てのスキルがスルー設定ですので、対象が沈黙するまで〈研究棟〉には立ち入らないことを提言します」
「そんな訳ないやん! いっつもいっつも、人の話聞かんとぽんぽん設定変えるくせに! 全部メモ取ってるって、嘘やったん?」
それでも奏羽はすんでのところで、踏み出し掛けた足を戻した。
オラトリオは片眉を上げただけで、全く調子を崩さない。
「忘れがちですが、街中でも他人を巻き込んで大神殿への帰還は出来ませんし、ターゲットされた状態では以ての外です。そう滅多に起きることではありませんが、周知しておくとクレームも減ることでしょう」
口を結んでいるのに、奏羽の口元がぎりぎりと鳴った。
「後は…… 頃合いですね。あと五秒で設定が切り替わりますので、即時撤退を」
「オっちゃん、あんな! 一体五秒で何をしろって、無茶振りにも程がある!」
奏羽の目の前で、ひらひらと手を振るオラトリオが〈巻物〉の紐を引いた。
解けた〈巻物〉が光の帯となって巻き付くと、それはオラトリオごと、苦もなく糸ほども細くなってしまった。それでも捩れ細り続け、ついには粉々に砕け散ってしまう。
後には〈巻物〉どころかエフェクトの欠片すら残さず、勿論オラトリオの姿も残っていない。
「えーと。……や、幾らなんでも手際良過ぎやん。さっきの、本当にオっちゃんやった?」
ぼやく奏羽はしばらく瞬きを繰り返していたが、ため息を一つつくと案外さっぱりとした顔に戻っていた。
「……まあ、ええか。報告書は出してきたとこ。大事なったらなったで、面会の口実にしたら良いやん」
奏羽は指で頬を掻きながら、何も気負うところなく振り向いた。
手に持っていた湯飲みが、やんわりと押し止められる。
いつの間にか大きな金色の薬缶の注ぎ口がぴたりと添えられて、それは小柄な忍び装束の少女が両手で捧げ持っていた。
注ぎ口が湯飲みごと静かに押し下げられ、ゆっくりと傾いてゆく。
「え……、えっ? 何で薬缶なん? ちょ、お姉さん、あんな?」
奏羽が思わず両手で受けてから力を込めるが、湯飲みはどうやっても持ち上がらず、左右にずれもしない。
何より奏羽を見上げる瞳が、困ったように不思議そうに、言葉もないのに雄弁に訴えかけていた。
「……これって、『私の酒が飲めないのか、なら逝ってよし』ってこと?」
小さく傾げた首に合わせるように、ついに湯飲みに液体が注がれてゆく。
まるで麦茶のような茶色く香ばしい、懐かしくも気の休まるようなほろ苦さが漂い始める。
「うん。こういうのは高く付くもんで、注がれた中身が関係ないのんは知っとるよ? でもな、楽しくないのんは意味がないんやないかと」
随分と傾いた薬缶が、水音一つ立てずに湯飲みから離れた。
少女は全く動じもせず、ただ真っ直ぐに奏羽を見上げていた。口元が緩む気配はないが、心なしか耳の辺りが火照っている。
目を見張った奏羽が、軽く屈みながら肩を竦めて笑みを浮かべた。
「お姉さんも飲める口なんや? ならうちの返杯かて、ちゃんと受けてくれはるよね? ……残りは精々、あと二、三杯と見た。これなら何とかなるやろ」
奏羽は機嫌良く一杯目に口を付けたが。
そこであっさりと白目をむくと、実に危険な角度で前のめりに崩れ落ちた。