4
▽4
宵闇に沈んだエントランスに、硬い靴音が混ざり込んだ。
安っぽいリノリウムの床を、幅広で無骨な革靴が横切ってゆく。
目深に被っていたフードを払う間に、紫紺の人影はホールを渡り終えていた。
「やっぱり受付くらい、雇った方が良いんかなあ。でも夜遅なったら危ないし、そもそもしてもらう仕事がないんよね」
骨ばった指が短い巻き毛をかき混ぜ、襟元に掛かる紐を引き抜いて手繰った。
掴んだカードをカウンターに乗る箱に差し込み、無造作に脇に付いた取っ手を下ろす。
いくつもの歯車が小気味よく回り、木槌でゴム板を叩いたような音が響いた。
引っ張り出したカードには、丸い日付入りのスタンプが増えている。
「あと三つで〈海洋機構〉のランチ券かあ。……うん、今度こそ曜日を間違わんようにせんとな」
暗がりの奥で大気が小さく爆ぜ、高く唸るような音が続いた。ばたつきながらも緩んだベルトが回り、意外と静かにガラスの扉が左右に開く。
大きな枕ほどの麻袋が、ぺたんぺたんと間の抜けた足音を立てて入ってきた。
「あれ、オっちゃん? 今帰ってきた……よね、外から」
「奏羽さん。何度でも言わせていただきますが、私のことはどうかオラトリオと呼び捨てください。ニックネームをいただくのは光栄ですが、受け取る側にも面子というものがあります」
穏和な顔立ち以上に口調は柔らかい。
チャコールグレイのスーツと糊の利いた白衣を皺無く着こなしているが、その足下は踵のない突っ掛けで、しかもサンダルですらなかった。
「いや、あんな? その…… どっから突っ込んだらええんやろ」
サテン地にレースがあしらわれた、せいぜい来客用のスリッパにしか見えない靴を凝視しつつ。
奏羽は奏羽でため息をつきながら、手に持った入館証をひらひら振って、気の抜ける音を立て続けていた。
「ですから、ポーションはあの毒々しい色にこそ効き目があると証明されたわけです。それを何度説明しても納得いただけなくて、気付いたら日も暮れておりました」
「誠心誠意の四時間っていうと聞こえは良いけど。やっぱりお気の毒様やね」
気もそぞろに返した奏羽は、階段の踊り場から折り返す階段の手すりをのぞき込んで、それから見上げた。
「まさか、奏羽さんも信じてないとおっしゃる?」
「や、オっちゃんの主張は尊重する。でも何や、明かりも全然点いてないし、えらい静かやなあ思て。今日の集まりって、とっくに終わってる時間? もうきれいに解散しててもおかしくないん?」
薄暗い階段の途中にも関わらず、オラトリオは足も止めずに麻袋を抱え直した。
「今日は真夜中まで、時間は気にせずお立ち寄りくださいと伝えてあります。元々この時間帯に訪れる人は限られていますし、部屋の気密と防音が完璧なのはご存じでしょう? ……まあ、月見でもしているのではないですか?」
奏羽はその場で、紫紺のローブを震わせた。
「そんな月並みで平和なこと、本気で思ってる? なあ、オっちゃん。うちの目え見て答えたって」
一歩先に階段を登りきった奏羽がオラトリオの前に回り込み、そこで豪快に足を取られた。
代わりにふわりと浮かび上がったのは、風を切って回る、空の一升瓶。
オラトリオの目の前をすり抜けてあっさり闇に沈むと、随分重々しく階段の中程で跳ねて踊り場の壁に反射し、それを何度も繰り返しながら、下へ下へと落ちていった。
「あの頑丈さ、ヒヨリさんのところの芋焼酎用でしょうね。品質保持への執念、流石としか言い様がありません」
人事のように呟くオラトリオの足が、踏み出す途中で止まった。
足下の闇は濃く、そのまま何度か足で小突いても変化はない。奏羽の呻き声は、もう少し離れたところから聞こえてくる。
オラトリオは荷物を壁に立て掛けると、懐からコルク栓のはまった試験管を取り出した。
指に挟んだまま軽く振ると、呪紋が浮かんで〈光球〉を形作る。
それは踊り場を渡って廊下にでると、ガラス窓の手前で動きを止めた。
オラトリオは〈光球〉が止まるのを見届けてから、ゆっくりと一歩下がって足下をのぞき込む。
ススキの先に、赤トンボ。
秋空を模した浅葱の打ち掛けが、安っぽいリノリウムの床に投げ捨てられていた。その下から、幾分丈の短いワイシャツと半ズボンが覗いている。
「おや、夏希君でしたか。〈製作級〉を布団扱いとは剛毅なことです。使い減りしないとは言え贅沢過ぎでしょうに」
つまみ上げた打ち掛けが鼻先をくすぐるが、夏希はぴくりとも動かない。
「な…… な?」
オラトリオが眉を顰めてしゃがみ込む前に。
頭を振りながらようやく身を起こした奏羽が、照らし出された廊下の奥を見やって素っ頓狂な声を上げた。