鬼ごっこのルール
『作戦本部』は、グラウンドの端と端にそれぞれ設置したテントにあった。参謀とその手足となって働く鬼が数人詰めている。
赤壁寮の本部には今、参謀の久地尚人と友人の佐々春樹の二人だけになっていた。蛇足だが、この二人のクラスメートには、放送部の山井がいる。
「上手く逃げてくれて良かったよ、寮長」
先ほどの実況中継に気を張っていた春樹は、一先ずの危機回避にほっと息を吐いた。尚人はといえばそれほど気疲れした様子も見せず、机の上に並んだ三台の携電話を見詰め、報告を待っている。
彼に言わせれば、寮長に冷や冷やさせられるのはいつものこと。その度に神経を尖らせていてはとても身がもたない、ということらしい。
人は、慣れるものだ。良くも悪くも。
「でもこれで面白くなってきたね。今ごろ成見先輩は焦ってるだろうな。捕獲人数はこっちに負けてる。選抜も捕まえられない。そろそろ作戦を変えてくるんじゃないか」
尚人の予想は見事に当たっていた。それを証明する報告がすぐに上がってくる。
鳴り響いた着信音は有名なとあるスパイ映画の曲だ。すぐさま電話に出ると、神部が硬い声で伝えた。
『双子が動いてる。人数稼ぎに来たぞあいつら』
「ビンゴ。神部先輩、今どの辺ですか?」
『研究棟から中庭に――移動が早すぎてあまり参考にならないと思うが』
「分かりました。余裕があれば追いかけられてる奴をサポートしてほしいんですが、こっちも人数を稼ぎたいときですから、先輩たちは鬼役に専念してもらえますか? みんなにはこっちから注意を伝えます」
『了解』
「ちなみに今、井瀬隊長のグループの捕獲数は8人です。神部先輩たちは5人ですよね」
『……』
「頑張ってください」
電話の向こう側で小さな舌打ちが聞こえたが、尚人はかまわず電話を切った。
「性格悪いなぁ、尚人は。井瀬先輩たちだってまだ5人じゃないか」
「ああ言ったほうが燃えるんだよ、あの人は」
口元に楽しげな笑みを浮かべた尚人が、二年生でありながら参謀という大役を任されている理由を、春樹は改めて知った気がした。
◇ ◆ ◇
「今年の参加者は56人だってよ」
完成した参加者リストに目を通しながら、白峰六朗は誰に話しかけるわけでもなく呟いた。リストを作成したのはもちろんこの男ではない。尚人である。
赤壁寮だけで56人。ということは、蒼天寮も合わせれば総勢112人が鬼ごっこに参加することになる。例年よりも多い人数だ。
「やっぱり先輩の弟が効いたかねー」
続けられた独り言に、応えなければならないのだろうかと一瞬迷ったのは同室の神部だ。しかし彼は彼で、事前に入手した蒼天寮の参加者リストの中で要注意人物の洗い出しに忙しかった。
結果、六朗の相手をしなければならなくなるのは、
「なんで俺なんですか」
鬼ごっこのルールの勉強と称して拉致されてきた修二だった。
「あれ、知らねぇのー? 向こうの寮ではお前を捕まえようと躍起になってる奴がいっぱいいるんだぜ。金山修一にはまんまとやられたから、ってな。成見の奴なんて捕まえた奴には金一封とか言ってっし」
「は!?」
勘弁してくれ、と修二は項垂れる。しかしその肩を叩く六朗の力は容赦がない。
「大丈夫だって。お前なら! なんてったって金山先輩の弟だからな」
「だから俺は足速くないんですってば! 何度も言ってるじゃないですか」
「またまた冗談ばっか言いやがってコノヤロウ。面白くねぇよ?」
「先輩、現実を見てください!」
こんなやり取りももう何十回目になるのだろう。
さすがに可哀想だと思ったのか、我関せずだった神部が不意に振り向いた。
「ルール、教えるんじゃなかったのか?」
「あ、そうだった。寮長自らが教えてやるんだぜ、感謝しろよー」
「大体は知ってますよ。鬼に捕まえられた人は自分も鬼になるんでしょう? 午後7時までの二時間を逃げ切れた人の数が多いほうの寮が勝ちっていう……」
鉢巻きを取られる=鬼に捕まるだったり、鉢巻きを取られた者は鬼の法被を貰いにグラウンドに設置された審判のテントに行かないといけないなど細かいルールも修二は一応知っている。自分が選抜メンバーに選ばれた瞬間に、嫌でも周りが教えてくれたのだ。
「二時間じゃないぜ。選抜メンバーが三人とも捕まったらゲームセットだからな。その時点でどんなに捕獲人数が多くても、選抜がゼロになったほうの負けだ」
「それも、知ってます」
「さらにさらにだ! 選抜メンバーは一人が捕まると5人分でカウントされる。これはデカい!」
「それも、分かってます。……だからなおさら、俺を選抜メンバーにするのは自滅行為だって言ってるんですよ!」
どう考えても、逃げ足の遅い奴が選抜メンバーになることは不利にしかならない。まだ一度も参加したことのない修二でもそれくらいのことは簡単に分かる。それなのに、そんな簡単なことも分かろうとしないのかそれとも本当に分からないくらいのただのバカなのか、この寮長は頑として修二の弁を聞こうとはしなかった。
「うっせぇよ。選抜メンバーは俺が決めたの。寮長権限なの! 自滅なんかしねーよ」
その自信は一体どこから沸いてくるのか、修二には不可思議でしかなかった。
鬼ごっこの始まる、数週間前の話である。
戦いが始まった今でも、その思いは変わらない。
それでも修二は未だ逃げ続けていた。いつの間にか、時刻は六時を回っている。
「あと半分……」
しかしここからが地獄なのだと、教えてくれたのは神部だった。時間が経つにつれ、鬼の数は増える。その分、鬼に見つかる可能性も増えてくる。否、むしろ姿を見られた時点で終わりだ。
そこら中の鬼が大挙して押し寄せてくれば、逃げ道などどこにもなくなる。
ではずっと隠れていればいいのか、というとそういうわけでもない。最後の最後、残り時間三十秒になったところで、残っている選抜メンバーはグラウンドに姿を現さなければならない。
それぞれの本部テントで待機している鬼の三役と、最後の鬼ごっこをやるのだ。
最後までかくれんぼは許されない。
これは、鬼ごっこなのだから。