七夕の恋人(三)
私は電話を切ると、急いで階段を降り息を切らしながら化粧室に駆け込む。
鏡に映る私の顔はまるで十代のうぶな小娘みたいに頬を赤らめて唇を震えさせていた。心臓は高鳴り、息苦しく呼吸を繰り返す。
私は化粧道具を取りだした。
仕事ではなく、恋人と逢うためにする化粧なんてどれ位ぶりだろう。思いながら、私の頭に奈々ちゃんの女の子らしい顔がよぎる。
私は奈々ちゃんみたいに可愛らしくもないし甘えたりすることも苦手だし、器用にも生きられない。
だけど──、大切なものを失うことだけは絶対したくない。
私は間違いが許されないプレゼンや勝負時には必ず真っ赤な口紅を引く。これまで仕事は悉く勝ち取って来た。今度も絶対失う訳にはいかない。そんな思いを込めて、口紅をゆっくり引いた。
オフィスに戻ると、すっかり社員は編集長ひとりに成っていた。
編集長がデスクに戻った私を見て異変に気づく。こっそり外出してまた戻ってくる気でいたけれど、明らかにこれからデートに行ってきます、という顔つきのまま眼が合ってしまった。なんというタイミングの悪さだろう。
「小山内、」
「はいっ!」
名前を呼ばれ、私は緊張に肩を震わせた。
「今日は帰ってこなくていい」
「へっ…」
「間の抜けた声を出すな。恋愛と仕事の両立ができない様じゃ、良い仕事はできない。女磨いてこい」
それだけ言うと、編集長は私から視線を外しパソコンの画面を食い入るように見つめている。
「……ありがとうございます!」
私がお辞儀をして編集長を見ると、彼は相変わらず私を見たりはしなかったけれど、少し照れくさそうに頭を掻いていた。
会社を出て私は夜空を仰ぐ。
由宇の言った通り、都会の空に珍しく大量の星が煌めいていた。ただ、同じ夜空を見ることや、自分の弱さや傷を隠すより相手の傷の痛みを感じることが出来ないことの方がこんなにも切なくて大切だと知った今、きっとこれからは、彼と向き合って歩いてゆけると思った。
(夜少年(二)「七夕の恋人」)