七夕の恋人(二)
深夜十二時前、煙草を吸いに屋上への階段を上っていると、私の携帯電話が鳴った。
開くと、由宇からだった。
「もしもし、どうしたの?」
「今日はすごく星がきれいだよ」
「由宇は優雅でいいなぁ、こっちは仕事仕事でそんな余裕無いよ」
「うん、だから。純は空を見る余裕ないんじゃないかと思ったから教えてあげようかと思って。相変わらずみたいだね、仕事」
由宇はそう言うと、ふふっと柔らかい笑い声を出した。久しぶりに聞く彼の声は、やっぱり私に愛しくて好きな気持ちを呼び起させて動揺させる。本当は今すぐにでも会いたい。
どこか母親に求める様な愛情を私は彼に求めている。そんな時、私はもしかしたらこの人から生まれて来たんじゃないか、とさえ思ってしまう。仕事の肩書や経歴、詰らないプライドなんか凡て取りはらって、彼に包まって眠りにつきたい。今まで言えなかったことを、まるで内緒話をするみたいに、あのね、って彼にだけ打ち明けたい。
けれど、そんなことしてしまったら最後、甘えることを覚えてしまって私はもう二度とひとりでは立てなくなってしまう気がするのだ。
「由宇、全然連絡取れなくてごめん」
「無理しないで良いよ」
「嫌だったら……別れてもいいんだよ。周りにもっと私なんかより可愛いくて女の子らしい子沢山いるでしょ。私仕事人間だし、会える人と付き合った方が良いよ」
私は饒舌に真っ赤な嘘を吐く。きっと、これは取り返しのつかない間違いだ。それ以上に、隠さなくてはいけないものを守るために──、自分の弱さを隠すために、嘘を吐いた。
彼の透明な眼には、もうそれがお見通しかも知れない。それでも、私がこんな風にしか生きられないことを許してくれるだろうか。
「どうしてそういうこと言うの。純は俺の気持ち、考えたことある?」
いつも穏やかな由宇が珍しく語気を強めて言った。そこに普段の優しい口調は全く無かった。
「だって、私がこんなに仕事忙しくて会えないの嫌でしょ、」
次の言葉は発することを許されず、彼の言葉で塞がれてしまった。
「それは、純が決めることじゃない」
「ごめん……」
こんな風に由宇にきつく言われたことが無い私は、社会人に成って初めて上司に叱られた日の様にただ謝るしか無かった。
由宇は小さく息を吐くと、すっかりいつも通りの穏やかで優しい声に戻っていた。
「俺は純が好きだよ。強がりで甘えることが下手で、それを人には冗談言って隠してる頑張りやな所も、一途で一生懸命で不器用な所も。仕事の話を生き生きと楽しそうに話す所も。仕事が純にとって大切なのも知ってるし、きっと俺はそういう純だから好きなんだと思う。だから、忙しくて会えないから嫌だなんて一度も思ったことないよ。俺は純の仕事を応援したいと思うし、挫けそうな時に逃げられる場所になりたいって思う」
「由宇……超くさい。結婚詐欺師みたい」
「振られそうな時に必死で愛の告白しているのに、ひどいなぁ。純ちゃんはツンデレさんなのかな? それとも、俺嫌われてるの?」
「嫌いなんかじゃないよ……」
好き、と言葉を紡ごうとして私は躊躇った。そして、私は何て馬鹿なんだろう、と思った。こんなに思ってくれている人を欺いて切り捨てようとするなんて。
「じゃあ、どうして別れてもいいなんて言ったの? 本当に、会えなくて俺に申し訳ないことだけが理由?」
「由宇が好き過ぎてどうしていいかわからないの!」
これが十数人の後輩や同僚をまとめ上げて、幾つもの仕事をこなして来た三十路前の女の台詞だろうか。当然のことながら、突然の間抜けすぎる私の発言に由宇は噴き出した。私は抑えていた本音を零してしまったことで感情が高ぶってしまい、もはや興奮状態。終いには声を出して泣き始めてしまった。
「もしかして、それで思い詰めてたの? そんな改めて言わなくても、純が俺にぞっこんなのは知ってるよ。甘えたいのに強がっているのも。もっと素直になったらいいのに」
「一度甘えたら、もっと甘えたくて冷静でいられなくなる。そんな情けない自分の姿、見たくない」
「純ちゃん、それが恋ってやつなんじゃなーいの? 大丈夫、俺はいつだって冷静だし、第一すべてを許容出来る程、そんなに優しくないから。純が調子に乗って来たら烈火のごとく叱るから」
由宇は楽しそうに言った。
「じゃあ……、ひとつお願いごとしてもいい?」
私はいつか七夕の短冊に願ったように、夜空を仰いで言った。
「いいよ、何?」
「今すぐ由宇に会いたい」
今まで逃げていた癖に、こんな夜中に会いたいなんて随分勝手かもしれない。私は言ってしまった後、自分の言葉の自己中さに恥ずかしさを感じた。けれど、由宇は私の頭を撫でるように優しく笑って言った。
「やっと素直になったな」
(七夕の恋人2/了)