七夕の恋人
「純センパイお先でーす」
社内に人もまばらになった午後九時前。
可愛らしい薄ピンクのスカートをひらひらさせながら後輩がほほ笑む。明るい声の元に視線を向けると、濡れたような瑞々しい唇と完璧な化粧はもう仕事モードから恋愛モードに切り替わっていた。
「お疲れー。今日はデート? 奈々ちゃん。ラブラブでいいわねぇ」
私がからかうように言うと、奈々ちゃんは真っ赤な顔をして頬を膨らませた。
「先輩そんなこと言ってぇ。たまには早く帰って彼氏さんと会わないと浮気されちゃいますよ」
「帰ってダーリンに会いたいのは山々なんだけどね、仕事が出来る女はつらい訳」
私は冗談めかしてそんなことを言うと、目の前の資料の束を指さす。そして、何気なくオフィスの時計を見る。
「ほらぁ、待ち合わせ九時なんでしょ。あと十分しかないよ?」
「わぁ! ホントだぁ。先輩っ、遠距離じゃないんだから頑張って会わなきゃだめですよ。今日はおり姫と彦星だって会ってるんですから! それではっ」
バタバタと慌てて駆けていく足音。私はそれを妹をデートに送り出す姉の様な気持ちで見送る。
「今日は七夕ですか」
私は呟いて卓上カレンダーの日付を指でなぞった。このところ、日付と言えば仕事のスケジュールしか頭の中には存在しなくなっていた。
幼い頃は、七夕に願い事を書いた短冊を吊るせばいつか願いは叶うと思った。未来はとても楽しくてなんでもうまくいっていると期待していた。けれど、今の私といえば仕事仕事仕事。残業が朝までになることもしばしば。帰宅する頃には落ちかけた化粧に乾いた唇で朦朧とベッドに倒れ込む日々。
大学の文学部を卒業後、私は念願叶って東京の大手出版社に就職した。
仕事に対しての情熱もあったけれど、遠い地元に逃げ帰ることは絶対したくない、という思いから、どんなに仕事が辛くてもしがみ付いた。毎日必死だった。その努力が認められたのか元々向いていたのか、今では担当する雑誌も増え、プロジェクトリーダーを任せられるまでになった。気付いたら三十路目前。近頃、初々しい新入社員を見ると良い意味でも悪い意味でも、私はすっかり大人になってしまったな、と切なくなる。
時間に追われ疲れ果てても、深夜屋上で独り煙草を吸う時間だけが何処か魂が休まる時だった。空に舞い上がる煙を見ているとそれだけで心の奥に沈んだ何かまで空気に溶けて消えて浄化してゆく様な気分になった。
こんなに頑張って仕事をしても、いつか倒れて病気になったとしたら、私は即座にお払い箱だ。東京の街に私以上に優秀な人なんて幾らでもいるのだから。それなのに、どうして私は仕事にとりつかれた様に働くのだろう。自分にしか出来ない、だなんてそんなの幻想や思い上がりかも知れない。
それでも、私はこんな風にしか生きられない。
悲しいけれど、仕事でしか自分の居場所を確認して生きている快感を得ることが出来ない。こんなに広い大都会の中で私の居場所は会社の中だけなのだ。そう思うと、なんて世界が狭い人間なんだろう。
いつか、奈々ちゃんに先輩は意地になって仕事しているみたい、と言われたことがある。本当にそうだと思う。奈々ちゃんみたいに仕事も適当にデートしてお洒落して毎日を楽しく器用に過ごせたらどんなに良いだろう。
まるでそんな風に生きることを拒否するみたいに私は生きている。それがまるで自分には権利がないように、そんな願望は間違いであるかのように自分を誤魔化している。
彼氏の由宇のこともそう。
忙しいのを理由にメールがあっても一週間以上返信しないのは日常茶飯事。会うのは数か月に一度。それでも、少しも怒らずにむしろ私の疲れ切った体の心配なんかをする。その優しさが私を醜くて意地悪な感情にさせていることを知っているのだろうか。幾ら忙しくても、本当に好きなら寝る間を惜しんでも連絡を取るし、会う努力をするのだろう。それを敢えてしないのは、怖いのかもしれない。彼に夢中に成ってしまうのが、冷静で居られなくなってしまうのが、自分では無くなってしまう様で。
こんなの彼と向かい合わずにいるだけで逃げているだけだと分かっている。
それでも──、
彼に溺れて詰らない女に成り下がってしまうのだけは、どうしてもプライドが許せなかった。
由宇に出会った時からきっとのめり込んで自分を保てなくなるのは分かっていた。彼の透き通る様な眼を見詰めるとそれを見透かされそうで怖くて仕方が無かった。もし私が本音を吐露したなら、彼なら優しい目をして、夢中になっていいよ、だなんて余裕綽々に言って抱きしめてくれるに違いない。彼はそういう人なのだ。
私がどんなに仕事で評価されても、彼に子どもを褒めるみたいに頭を撫でられて仕舞うと、悔しくてこの人には勝ち目がないと痛烈に思い知らされるのだ。
(七夕の恋人1/了)