悪役令嬢の赤ちゃんに転生しました。原作では冬を越せず死ぬので、お母様の抱っこから降りません。
第1章 悪女のお母様と、ミルクの匂い
私の朝は、ふんわりと甘いお日様の匂いから始まる。
「よく眠れたかしら、ミア。ほら、お着替えしましょうね」
柔らかい声が降ってきて、温かい両手が私の脇の下にすっと入る。そのまま、ふわりと空中に持ち上げられた。
私の視界いっぱいに広がるのは、淡い亜麻色の髪と、春先の空みたいに澄んだ瞳だ。朝の光を受けてきらきらと揺れる髪が私の頬をくすぐり、思わず「きゃう」と間の抜けた声が漏れる。
「ふふ、ご機嫌ね。あんよがぱたぱたしてるわ」
そう言って私のぷくぷくしたお腹を優しく撫でてくれるこの美しい人こそ、私のお母様――セリア・フォン・リンデン伯爵夫人である。
そして同時に、私が前世で読んだ恋愛小説の中で、「夫と幼い子供たちを捨てて愛人と駆け落ちした、冷酷で身勝手な悪女」と呼ばれていた人物でもあった。
そのことに気づいたのは、数日前、お父様とお母様の名前が、前世で読んだ小説の登場人物と一致した瞬間だった。何気なくページをめくっていたあの物語の冒頭が、鮮明に脳裏へ蘇ったのだ。
――『妻は子供を捨てた』。
雨の降る窓辺に立ち、若きテオドール・フォン・リンデン伯爵が悲痛な面差しでそう呟く場面から、その物語は始まった。妻に去られ、その冬には幼い次女まで亡くした傷心の伯爵が、やがて屋敷を訪れた純真無垢な平民の娘と出会い、真実の愛を見つけていく王道のロマンス小説。前世の私も、幼い我が子まで見捨てた前妻に憤り、伯爵の新しい恋を応援していた。
だから、自分がその「捨てられた子供」の片割れ――しかも、冬を越せなかった次女のミアに転生していると知ったとき、私はベビーベッドの中で絶望に打ち震えた。
次女は母親が去ってから乳の飲みが悪くなり、やがて熱を出して亡くなった。覚えているのは、そんな短い説明だけだ。病名も、誰がいつお医者様を呼んだのかも、わからない。
前世の私には、伯爵の悲しみを説明するための数行だった。今の私には、自分の命の話だった。
せっかく生まれ変わったのに、お母様に捨てられて、そのまま死んでしまうなんて。
いやいやいや、死にたくない! まだ自分で立ってもいないのに、人生から退場させないでほしい!
そう思って、最初は毎日びくびくしていたのだ。それなのに。
「はい、おむつもすっきりしたわよ。お次はミルクにしましょうね」
お母様は手際よく清潔な布おむつを当て直すと、私を胸元にぴったりと抱き寄せた。
トクトク、と規則正しい心臓の音が耳の奥に響く。お母様の腕の中は、どんな高級な羽毛布団よりも安心できる場所だった。少しぬるめのミルクを飲みながら見上げると、お母様はまるで世界中で一番大切な宝物を眺めるみたいに、とろけるような笑顔で私の頭を撫でている。
私が夜中に少しでも「ふえっ」とぐずれば、侍女よりも早く寝間着姿で飛んできて、眠りにつくまで背中をとんとんと叩いてくれる。よだれで汚れた頬は、いつも柔らかいガーゼで丁寧に拭いてくれる。
おかしい。どう考えてもおかしい。
これが、子供を置いて、男と逃げる悪女の態度だろうか。前世の記憶にある小説の印象と、毎日肌で感じるお母様の深い愛情が、どうしても頭の中で結びつかない。
「お母様、おはようございます!」
そのとき、ぱたぱたと軽い足音がして、部屋の扉が開いた。飛び込んできたのは、お母様と同じ亜麻色の髪を二つに結った、五歳になるお姉様のクレアだ。
「おはよう、クレア。早起きさんね」
「あのね、お母様! 今朝ね、お庭の隅っこで、とってもきれいな青い鳥の羽を見つけたの! ミアにも見せてあげようと思って持ってきたのよ!」
お姉様は目を輝かせながら、小さな手のひらに乗せた羽を差し出した。
お母様はちょうど朝の身支度の途中で、テーブルの上には今日片づけなければならない領地の書類や手紙が山積みになっていた。それでもお母様は、嫌な顔ひとつせず、お姉様の目線に合わせて床に膝をついた。
「まあ、ほんとうにきれいな青色だこと。先っぽが白くなっているわね。どこに落ちていたの?」
「あのね、バラの茂みの下なの! きっと昨日のお昼寝のときに、あそこで休んでいたんだわ。それでね――」
お姉様の長いおしゃべりが始まる。五歳児特有の、あちこちに話が飛ぶ一生懸命な報告だ。お母様は時計を見ることも、書類に視線を戻すこともせず、「そう」「素敵ね」と相槌を打ちながら、お姉様が満足するまで、話に耳を傾けていた。
お姉様が話し終える頃、テーブルの端に置かれたお母様の紅茶はすっかり冷めていた。それでもお母様は、照れくさそうに笑うお姉様の頭を「ミアにも見せてくれてありがとうね」と優しく撫でる。お姉様は嬉しそうに頬を染め、私の小さな指先をちょんとつついた。
「ミア、ふわふわよ。さわってみて」
「あー、うー!」
私は短い腕をぶんぶんと振って応えた。お姉様の指先は温かくて、お母様の微笑みはどこまでも穏やかだ。
こんな優しいお母様が、私たちを置いていくなんて信じたくない。きっと小説の設定と何かが違うのだ、とそう思いたかった。
けれど、この屋敷にはもう一人、小説の登場人物がいる。
第2章 すれ違う言葉と、開かれた鞄
その日の昼下がり、お父様であるテオドール伯爵が、珍しく子供部屋の前の廊下を通りかかった。
小説の主人公だけあって、お父様は背が高く、整った顔立ちをした美青年だ。お母様に抱っこされていた私は、お父様の顔をじっと見上げた。
「あなた、ちょうどよかったわ。少しお時間をいただけますか」
お母様が足を止め、お父様に声をかけた。その手には、朝から確認していた屋敷の修繕に関する書類と、クレアお姉様のこれからの教育に関する書き付けが握られていた。
「なんだい、セリア。今から友人と乗馬に出かける約束があるんだが」
「すぐ済みますわ。西棟の屋根の補修について、そろそろ業者を決めないと秋の雨季に間に合いませんの。それと、クレアの新しい絵本の取り寄せと、ミアの冬用の肌着の予算について相談したくて……」
お母様は落ち着いた声で、けれど切実に言葉を並べた。どれも、この家で私たちが安全に暮らすために必要なことばかりだ。
しかし、お父様は書類に目を通そうともせず、困ったように眉を下げて苦笑した。
「なんだ、そんなことか。家の細かいことは全部君に任せてあるだろう。雨が漏るといっても、今すぐ天井が落ちてくるわけじゃない」
「ですが、修繕費の支払いには、当主であるあなたの署名が必要なのです。先月からお願いしている書類も、まだ目を通していただけていませんし、このままでは去年のように使用人たちの部屋に水が入ってしまいます」
「はは、セリア。君は大げさなんだ」
お父様は、まるで聞き分けのない子供をなだめるような優しい声でそう言った。そして、お母様の肩をぽんと軽く叩く。
「僕は社交や外務で忙しいんだ。屋敷の中のことは、君がうまくやってくれればそれでいいよ。ほら、ミアも泣いていないじゃないか。すべて順調だ」
それだけ言うと、お父様は爽やかな笑顔を残して、さっさと階段を下りていってしまった。
先日、私が熱を出した夜も、お父様は「赤ん坊はよく熱を出す。大げさなんだ」と言った。そのときは、お母様が譲らずにお医者様を呼んでくれた。
でも、お母様がいなくなったら。私がミルクを飲めなくなっても、この人は「大げさ」で済ませてしまうのだろうか。
残された廊下に、沈黙が落ちた。
お母様は何も言わず、手の中の書類へ静かに視線を落とした。その横顔には、怒りよりもずっと深い、何かを静かに見切ったような色が浮かんでいた。
お母様の腕の中で、私は小さな拳をぎゅっと握りしめた。
――ちょっと待って。おかしいのはお母様じゃなくて、お父様の方じゃない!?
小説の中では「家庭を顧みない冷酷な妻に尽くし続けた、誠実な夫」として描かれていたはずだ。けれど実際のお父様は、決裁の署名すらしないまま家の管理も子育ての悩みもすべてお母様に丸投げし、真面目な相談を「君は大げさなんだ」の一言で片づけてしまう人だった。
こんな状態が何年も続いていたのだとしたら、お母様がこの家に愛想を尽かすのも無理はない。
そして、私の背筋にひやりと冷たいものが走ったのは、その翌日のことだった。
秋の風が窓を揺らす午後。小説で、伯爵夫人が屋敷から姿を消したとされていたのは、ちょうど社交シーズンが始まる前の、この肌寒い季節だったはずだ。
お昼寝から目を覚ました私は、おむつを替えてもらい、部屋の中央に敷かれた分厚い絨毯の上へと下ろされた。
そのすぐ奥、クローゼットの前に座り込んだお母様の足元には、見たこともないほど大きな革の旅行鞄が広げられていた。
お母様は、自分のドレスや外套を丁寧に畳んでは、その鞄の中へ次々と詰めていた。宝石箱を開け、実用的なブローチだけを布に包んでしまい込んでいる。侍女たちの姿はない。
ドクン、と私の小さな心臓が大きく跳ねた。
荷造りだ。お母様が、屋敷を出ていく準備を始めている。
お父様のあの態度を見れば、お母様がこの家を出たいと思う気持ちは痛いほどわかる。お母様には幸せになってほしい。
でも、でも――!
もし小説の冒頭で語られていた通り、お母様がひとりで出ていってしまったら。私は、あの数行どおりの冬を迎えるのだろうか。お姉様は、ここで一人になってしまうのだろうか。
嫌だ。私は生きたい。お姉様も一緒に、お母様のそばで大きくなりたい。
というか、異世界転生したのに、こんなちっちゃいうちに死ぬとか、どういう罰ゲーム!? まだ一歳のお誕生日すら迎えていないんですけど!
私を毎日あんなに優しく抱きしめてくれたお母様と、もう二度と会えなくなるなんて絶対に嫌だった。あの温かい腕も、甘いミルクの匂いも、優しい子守唄も、全部失いたくない。
私は、むちむちした両手で絨毯の毛足を掴み、決意を固めた。
捨てられるくらいなら、私も駆け落ちします!
相手が誰だか知らないけれど、お母様が新しい人生へ踏み出すというのなら、私もその鞄の中にねじ込まれて一緒についていく所存だ。悪女の娘と呼ばれようと構わない。私はお母様の子でありたいのだ。
第3章 ぷくぷくの手足と、決死の同行作戦
そうと決まれば、一分一秒も無駄にはできない。
お母様が少し離れた棚へ手を伸ばす隙に、私は四つん這いになり、目標――すなわち、お母様の足元に広がる大きな革鞄を見据えた。
前世の記憶があるとはいえ、現在の私のスペックは生後八ヶ月、ようやくはいはいが板についてきたばかりの赤ちゃんである。「お母様、私も連れていってください!」と流暢にプレゼンすることは不可能だ。唸るか、泣くか、せいぜい「あー」「うー」と声を出すことしかできない。
ならば、行動で示すのみ。
私は短い手足を交互に前に出し、ぱたぱた、ずりずりと全力ではいはいを開始した。おむつで膨らんだお尻を左右に振りながら、一直線に革鞄へと突き進む。
目の前にそびえ立つ革鞄の縁は、私にとっては小さな壁のような高さだった。私はその縁にぷくぷくの両手をかけ、短い足を必死に持ち上げて、鞄の中へよじ登ろうと試みた。
――ここに入れば、荷物と一緒に運んでもらえるはず! 私はスペースを取りません! 隙間にすっぽり収まります!
「んーっ、んーっ!」
顔を真っ赤にして片足を鞄の縁に引っ掛けたものの、重たいお尻がどうしても持ち上がらない。それどころか、畳んであった柔らかいショールが崩れ落ち、私はその上にころんと仰向けにひっくり返ってしまった。
「あら、ミア。いつの間にそこまで行ったの?」
驚いた声とともに、お母様がすぐに手を伸ばし、私をひょいと抱き上げてくれた。
「びっくりしたわね。危ないから、鞄の近くで遊んではだめよ」
お母様は私の背中についた糸くずを払い、絨毯の真ん中へと私を座らせ直した。そして、再び荷造りに戻るために、すっと立ち上がろうとする。
だめだ、離れないで!
お母様の背中が遠ざかるのが怖くて、私の目からぶわっと大粒の涙が溢れ出した。
「ふえぇぇん! あーっ、うあぁぁん!」
自分でも驚くほど大きな泣き声が出た。ただの作戦じゃない。本当にこのまま置いていかれるかもしれないという恐怖で、小さな胸が張り裂けそうだった。
私は涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、再び猛スピードではいはいし、お母様のスカートの裾に追いつくと、その布地を小さな両手でぎゅうっと握りしめた。
「うあぁん、まんま、あーっ!」
指の力がまだ弱いから、お母様が本気で振り払えば簡単にほどけてしまう。それでも私は、白くて丸い指にありったけの力を込めて、スカートの裾を引っ張り続けた。行かないで、私を置いていかないで、と必死に訴えながら。
「まあ、ミア……どうしたの、そんなに泣いて」
お母様はすぐに荷造りの手を止め、その場にしゃがみ込むと、スカートの裾を握りしめたままの私を優しく抱きしめてくれた。
「よしよし、びっくりさせてごめんね。お母様がずっと後ろを向いていたから、寂しかったのね。どこにも行かないわよ、ほら、ここにいるでしょう?」
お母様は私の涙を親指の腹でそっと拭い、柔らかい頬を私の額にすり寄せた。
違うの、お母様。「今」どこにも行かないんじゃなくて、これから駆け落ちするときに連れていってほしいの!
私はお母様の襟元をぎゅっと掴み、しゃくり上げながら必死に顔をこすりつけた。私の必死の思いは、ただの甘えん坊の昼泣きとして優しく受け止められてしまっている。もどかしくて、悔しくて、でもお母様の匂いが温かくて、私はさらにぽろぽろと涙をこぼした。
第4章 五歳のお姉様と、おむつの真実
「お母様、私のお荷物、これでぜんぶよ!」
そのとき、トコトコと元気な足音がして、部屋の奥の衣装部屋からクレアお姉様が姿を現した。
涙目で振り向いた私は、お姉様の格好を見て目を丸くした。
お姉様は、お気に入りの赤いお出かけ用の外套を着て、小さな肩掛け鞄を胸の前でしっかりと抱えていたのだ。その鞄の口からは、お姉様がいつも抱いて寝ているうさぎのぬいぐるみの耳がぴょこんと飛び出している。
「ありがとう、クレア。忘れ物はないかしら? 青い羽はちゃんと小箱に入れた?」
「うん! ハンカチも、スケッチブックも入れたわ!」
お母様とお姉様が、まるで今から楽しいピクニックにでも出かけるかのように、にこにこと会話を交わしている。
私はお母様の胸にしがみついたまま、思考が完全に停止した。
……え? なぜ、お姉様までお出かけの支度をしているの?
するとお姉様は、泣き腫らした顔でお母様の服を握りしめている私に気づき、ぱちくりと目を瞬かせた。そして、私のすぐ目の前まで歩いてくると、小さな手を私の背中にぽんと添えて、とても落ち着いた声でこう言ったのだ。
「だいじょうぶよ。あなたのおむつも、ちゃんと入れたから」
「……あう?」
私の口から、間の抜けた声が漏れた。
おむつ。私のおむつを、入れた?
「ほら、あそこの鞄よ。私がいっしょに数えて入れたの。ミアのミルクの缶も、ふわふわの毛布も、ガラガラのおもちゃも入ってるわよ」
お姉様が誇らしげに指さした先を見て、私ははっと息を呑んだ。
先ほど私が必死によじ登ろうとしていた大きな革鞄。そのすぐ隣、ソファの影になって私の低い視線からは隠れていた場所に、もう二つ、中くらいの旅行鞄が並んでいたのだ。
そのうちの一つは、まだ口が少し開いており、中から見覚えのあるひよこ柄のガーゼや、私の小さな肌着、そして白い布おむつの束が覗いている。もう一つの鞄には、お姉様の小さな靴や色鮮やかなワンピースがぎっしりと詰まっていた。
「ふふ、クレアったら、お姉さんぶって。たくさん手伝ってくれて助かったわ」
お母様が微笑みながら、私の体をゆっくりと抱き直した。そして、まだ目を白黒させている私の鼻先を、指先で優しくちょんと突いた。
「ミアも、見たことのない鞄がたくさん出てきたから、不安になってしまったのね。ごめんなさいね、ちゃんと言葉で教えてあげなくて。……ミアも、クレアも、お母様と一緒に新しいお家へ行くのよ。あなたたちを置いていくわけがないでしょう?」
お母様の穏やかで、けれど一点の迷いもない声が、私の耳にすっと染み込んできた。
私が鞄に潜り込もうとする前から、お母様は私のおむつを詰めていた。泣いてお願いしたから、連れていく気になったのではない。お母様の旅支度には、最初から私とお姉様の分も入っていたのだ。
「あ……うー……」
全身から、ふにゃりと力が抜けていく。私はようやく、お母様の襟を握りしめていた小さな指を、一本ずつほどいた。
お姉様はそんな私を見て、「ほらね、泣かなくていいでしょう?」と得意げに胸を張っている。
「さあ、これで準備はぜんぶ整ったわ。それじゃあ、三人で駆け落ちね。……なんてね」
お母様が茶目っ気たっぷりに目を細めて冗談めかして言うと、お姉様は「かけおちね!」と面白がって声を弾ませ、くるりと楽しそうに回った。
――じゃあ、もしやお母様を迎えに来る相手って、私たち子供ごと受け入れてくれるような懐の深い愛人なのだろうか?
私がそんなことを考え始めたとき、部屋の扉が控えめにノックされた。
「奥様、お迎えの馬車が到着いたしました。お荷物をお運びいたします」
信頼のおける年配の侍女が、静かに頭を下げて部屋に入ってきた。
「お迎えの方とのお話が済むまで、お嬢様方は乳母の部屋でお預かりしましょうか」
「ありがとう。では、少しだけお願い――」
お母様が私を抱き渡そうとした瞬間、私はまた、その襟元をぎゅっと掴んだ。
お母様は、私たちを連れていくつもりだ。それは、もうわかった。けれど、それならどうして、小説の私はこの家に残されていたの?
乳母に預ける。小説にも、そんな言葉がなかっただろうか。
お母様が私たちを連れていくつもりでも、離れたところで何かが起きたら? うまく思い出せない。けれど、ここでお母様の腕を離れてはいけない気がした。今だけ、少しだけ。その「少し」の間に、私の人生が終わる方向へ進んでも困るのだ。
「ふえっ、あーっ!」
私は首をぶんぶん振って、お母様の胸に顔を押しつけた。さっきまでの涙で、もう鼻はぐずぐずだ。それでも、ここだけは譲れません。抱っこ継続を要求します。
「あらあら。今日はどうしても離れたくないのね」
お母様は困ったように笑い、伸ばしかけた腕を戻してくれた。
「ミア、お母様といっしょがいいのね。じゃあ、私も!」
お姉様が、お母様のスカートの横にぴたりと並ぶ。私は空いている手を伸ばし、その小さな袖もつまんだ。そうです。お姉様も、一緒です。
「わかったわ。三人でご挨拶しましょう。お荷物だけお願いね」
お母様は私を抱いたまま、侍女におくるみを巻いてもらった。お姉様がお母様と手をつないだのを確かめてから、私は袖を離す。そうして私たちは、誰も別の部屋へ行かないまま、三人そろって玄関へ向かった。
第5章 玄関の応酬と、母の選択
屋敷の正面玄関へと続く階段を下りると、開け放たれた扉の向こうに、立派な二頭立ての馬車が停まっているのが見えた。
その馬車の脇に、ひとりの背の高い男性が立っていた。落ち着いた仕立ての服を着た、誠実そうな面差しの青年だ。
その男性は、私たちを連れたお母様の姿を見つけると、ほっとしたように顔をほころばせて歩み寄ってきた。
「セリア、準備は終わったかい? 荷物はすべて馬車へ積ませたよ」
「ええ、お兄様。お忙しいのに、わざわざ迎えに来てくださってありがとうございます」
――お兄様……? 今、お兄様って言った?
お母様の口から出た呼称に、私はおくるみの中でぱちくりと目を瞬かせた。
よく見れば、その男性の澄んだ瞳の色も、柔らかい亜麻色の髪も、お母様とそっくりだ。
「おじさまー!」
クレアお姉様がぱっと顔を輝かせて駆け寄ると、男性は「やあ、クレア。いい子にしていたかな」と優しく頭を撫でた。そして、お母様の腕の中にいる私を覗き込み、目尻を下げて微笑む。
「ミアも大きくなったな。頼まれていた別邸の部屋は、もう整えてあるよ。三人とも、いつでも落ち着いて暮らせるようにね」
「何から何まで、本当に感謝いたします、お兄様」
二人のやり取りを聞きながら、私の頭の中で、バラバラだったパズルのピースがぴたりと重なり合った。
愛人なんかじゃなかった。迎えに来たのは、お母様の実のお兄様――私たちにとっての伯父様だったのだ。
お母様は、お父様に相談しても「大げさだ」と取り合ってもらえない日々の中で、ただ泣き寝入りしていたわけではなかった。実家のお兄様の力も借りながら、私とお姉様を連れて安全に暮らす道を、自分で選び、用意していたのだ。
お姉様が伯父様のそばからお母様の隣へ戻り、空いている手を握った。
そのとき、すぐ後ろから硬い声が響いた。
「――セリア。この騒ぎはいったい何の真似だ」
今日も乗馬に出ていたらしいお父様が、玄関ホールに立ち尽くし、信じられないという顔でこちらを見ていた。馬車に積まれた大きな荷物と、旅支度を整えたお母様、そしてお姉様と私の姿を交互に見比べる。
「書斎に置いてあった手紙を読んだぞ。実家に戻るだと? また君の悪い癖だ、少し言い合いになったくらいで大げさな……」
「言い合いではありませんわ、あなた。私はこれまで何度も、この家のことや子供たちのことをお話ししようとしました。けれど、あなたにとってはすべて『些末で大げさなこと』でしたのね」
お母様は私を抱く腕にそっと力を込め、お父様をまっすぐに見つめ返した。
「これ以上、言葉の届かない場所で、この子たちの安全を後回しにして暮らすつもりはありません。今後の手続きについては、実家の代理人を通してお話しさせていただきます」
お父様は、自分の知らないところで話がすべて進んでいたことにようやく気づいたのか、顔を強張らせた。そして、お母様の隣に立つお姉様と、腕の中の私に視線を移し、険しい声で言った。
「子供まで連れていくつもりか。子供は置いていけ。乳母の部屋へ戻しなさい」
お父様が、階段の方へ顎をしゃくった。
その命令で、さっきから引っかかっていた言葉の続きが蘇った。原作で、ヒロインに事情を打ち明けるお父様の台詞だ。
『子供たちは乳母に預けてあった。妻は二人とも連れていくと言ったが、僕が乳母に、子供たちを部屋から出すなと命じておいたんだ。結局、妻は迎えの男と出ていった。あとから引き渡せと言ってきたが、断ったよ』
そうだ。お父様は、自分で言っていた。妻は二人とも連れていくと言った、と。
前世の私は、それを浮気した妻から子供を守った話として読んでいた。けれど、子供を連れていこうとしたのはお母様で、連れていかせなかったのはお父様だ。そのうえで、『妻は子供を捨てた』と語っていたのだ。
さっき侍女に抱かれていたら、私とお姉様は、今頃あの階段の上にいた。お母様の腕も、迎えに来た伯父様の手も、すぐには届かない場所に。
私はおくるみの中で、お母様の襟を握り直した。今は、ここにいる。お姉様も、すぐ隣にいる。
お母様は一歩も引かず、静かに、しかし凛とした声で答えた。
「あなたの妻をやめることと、この子たちの母親をやめることは、別のお話です」
玄関ホールに、お母様の澄んだ声が響いた。
お父様は息を呑み、何か言い返そうとして口を開きかけた。けれど、お母様の隣にいるお姉様の肩へ、伯父様がそっと手を添えた。
「二人は、セリアと一緒に私の家へ迎えます。ここで母親から引き離すことには、同意できません」
穏やかだけれど、譲る気のない声だった。お父様は、私を抱いたお母様と、お姉様を守るように立つ伯父様を見比べて、言葉を詰まらせた。
お父様は一歩踏み出しかけて、止まった。私を連れ戻すには、お母様の腕から引き離さなければならない。お姉様のすぐそばには、伯父様もいる。もう、離れた部屋の乳母に命じるだけで、私たちをここに残すことはできなかった。
私はお母様の胸元から、立ち尽くすお父様の顔を見つめていた。
私が読んだのは、お母様が私たちを捨てる場面じゃない。お父様が『妻は子供を捨てた』と言う場面だった。
その言葉を信じて、私は毎日抱きしめてくれるこの腕を疑っていた。
でも今、私を抱いているお母様の腕は、少しも緩まない。
「行きましょう、クレア、ミア」
お母様は、もうお父様を振り返らなかった。お姉様の手をしっかりと握り、私を温かく抱きかかえたまま、秋の光が差し込む玄関の扉を抜けて、馬車へと足を踏み出した。
第6章 揺れる馬車と、小さな手
ガタゴト、と馬車が静かに動き出す。
車内の座席には柔らかいクッションが敷き詰められており、窓からは色づき始めた木々が後ろへと流れていくのが見えた。
お母様の膝の上に抱かれた私は、これまでずっと張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れるのを感じていた。
置いていかれなかった。お母様は、最初から私たちを手放すつもりなんてなかったのだ。
鞄に入る作戦は失敗した。お母様を説得する必要も、最初からなかった。けれど、抱っこから降りなかったおかげで、私もお姉様も、乳母の部屋へ戻されずに玄関まで行けた。
そこでお父様に止められても、お母様の腕と伯父様の手が、すぐそばにあった。私が握りしめたのは、ただの襟と袖だ。それでも、離されてしまうはずだった私たちを、同じ場所につなぎ留めてくれた。
これからのことは、まだわからない。それでも、小説で死んでしまった赤ちゃんは今、お母様の膝の上でちゃんと息をしている。
馬車の規則正しい揺れが、まるでお母様のゆりかごみたいに心地いい。全力ではいはいして、泣いて、スカートの裾を握りしめた疲れが、どっと小さな体に押し寄せてきた。赤ちゃんの体力は、限界を迎えるとあっという間だ。
まぶたが、とろとろと重くなっていく。お母様の胸元から香る、いつもの優しいミルクと石鹸の匂いに包まれて、私の意識は甘い眠りの淵へと沈んでいった。
すっかり目が閉じる直前、隣に座るクレアお姉様の、くすくすと笑う声が遠くで聞こえた。
「この子、いちばん駆け落ちしたがってたのに、もう寝ちゃった」
お姉様のどこかのんびりした言葉に、向かいに座る伯父様と、お母様が小さく笑う気配がした。
そして、おくるみからちょこんと出ていた私の小さな手を、お母様の温かい指先がそっと包み込むように握りしめてくれる感触を最後に、私は深い眠りへと落ちていった。
第7章 新しいお家と、三人のおやつ
それから数日後。
私たちが暮らし始めた伯父様の別邸は、前の大きな伯爵邸に比べればこぢんまりとしていたけれど、日当たりがよくて、どこもかしこもピカピカに手入れされた気持ちのいい家だった。屋根から雨が漏る心配もないし、窓を開ければよく手入れされた庭から金木犀の甘い香りが風に乗って入ってくる。
昼下がりの明るい食堂には、丸い木のテーブルが置かれている。
私は赤ちゃん用の背もたれがついた椅子にちょこんと座らされ、首には可愛いひよこ柄のよだれかけを着けていた。
「わあ、焼きたてのりんごのお菓子だわ! いいにおい!」
テーブルの上には、湯気を立てる紅茶と、甘く煮たりんごを包んだパイ、そして私のための小皿が並べられていた。私の小皿に入っているのは、りんごを赤ちゃんでも食べられるようにとろとろにすり潰して、少し温めた甘いピューレだ。
前の屋敷にいた頃のお母様は、いつも山積みの書類や屋敷の管理に追われていて、お姉様のおやつの時間も、立ったままお茶を淹れたりお世話を焼いたりしてばかりだった。自分の紅茶が冷めてしまうのも構わず、いつも誰かのために動き続けていたのだ。
けれど今、お母様はエプロンを外し、クレアお姉様のすぐ隣の椅子にゆったりと腰を下ろしている。
「はい、ミア。あーんして」
お母様が小さなスプーンでりんごのピューレをすくい、私の口元へ運んでくれる。ぱくりと口を開けると、優しい甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。
「んーっ、あう!」
あんまり美味しくて、私が短い手足をぱたぱたと動かして喜ぶと、お姉様が自分のフォークを止めてにこにこと覗き込んできた。
「ミア、ほっぺにりんごがついてるわよ。お母様、このパイ、さくさくでとってもおいしいわ!」
「そう、よかったわね。お母様もいただこうかしら」
お母様は私の頬をガーゼで優しく拭うと、自分のお皿のパイを一口切り分けて口に運び、「ほんとう、甘くておいしいわね」と幸せそうに目を細めた。そして、お姉様が話す「今日お庭で見つけたどんぐりの話」に耳を傾けながら、まだ温かい自分の紅茶をゆっくりと味わっている。
誰かに急かされることも、言葉を聞き流されることもない場所で、これからは三人が、自分たちのために安心して暮らしていける。
その穏やかな横顔を見上げながら、私はもう一口、甘いりんごを口いっぱいに頬張った。
私は、誰かの悲しい過去の数行になるつもりはない。お母様に抱っこされて、お姉様とおやつを食べて、これからもっと大きくなるのだ。
原作は、お父様の新しい恋の物語だった。でも私たちの家族の物語は、ここからも続いていく。
(おしまい)
お読みいただきありがとうございます!
必死な赤ちゃんと、頼もしく優しいお母様・お姉様の新しい暮らしを楽しんでいただけましたら幸いです。
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