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レイと少女の記憶【AI作品】

掲載日:2026/01/25

レイは終わりの見えない廊下にいた。いつからか、わからない。ここには時間という概念がなく、過去も未来もない。ただ永遠の今だけがある。


考えようとすると、思考が霧の中に消えていく。記憶を辿ろうとしても、何も掴めない。気づいたときには、もうここにいて、それ以前の記憶は空白だった。


レイという名前も、自分で付けたものではない。誰かがそう呼んでいる気がする。遠くから微かに聞こえる、優しく悲しい声。だが振り返っても誰もいない。


廊下は果てしなく続いている。白い壁、白い床、白い天井。全てが白く、光源も見当たらないのに薄明るい。


足音がしない。床に触れている感覚が薄く、まるで水の中を歩いているようだ。自分の手を見ると輪郭が曖昧で、水彩画が滲んでいるように揺らいでいる。存在が希薄で、消えかけている。


左右の壁には無数の白い扉が等間隔で並んでいる。一つに手を伸ばすと、手が透けて扉を通り抜けてしまう。何度試しても同じだった。この世界にレイは干渉できない。


完全な静寂の中、レイは一人だった。自分が誰なのか、何なのかわからない。ただ一つだけわかることがある。自分は何かを探している。立ち止まれば消えてしまう気がして、動き続けなければ存在できない。


レイは歩き続けた。時間の感覚はなく、疲れもしない。


やがて廊下の先に光が見えた。この単調な白とは違う、暖かそうな光だった。レイはその光に向かって歩き、光の中に踏み込んだ。


温かい。久しぶりに感じる温度。


世界が切り替わった。



   * * *



外に出た。いや、別の場所。別の世界。影だけが歩く通り。


そこは薄暗く、廊下の白さとは対照的な灰色の世界だった。空は見えず、上を見上げても、灰色の霧だけがある。建物も壁もなく、ただ、古い石畳の道が続いている。


無数の影が歩いていた。人の形をしているが実体がない。黒い人型で、顔も表情もない。ゆっくりと機械的に歩き続けている。


レイに気づかない。すれ違っても反応せず、避けもしない。ただ通り過ぎていく。


静かだった。影たちは音を立てない。足音も話し声もない。だが、廊下の静寂とは違う。この静寂は、無数の存在が無音で動いている、すなわち沈黙の群衆だった。


影の一つが、レイの隣を通り過ぎた瞬間、冷たい空気を感じた。影たちは皆、孤独そうだった。誰も誰とも繋がっていない。


通りの隅に何かがあった。影たちが避けて通るもの。レイは近づいた。


それはヴァイオリンだった。


古びている。茶色い木に塗装が剥げ、あちこちに傷がある。ケースもなく、地面に直接置かれ、埃をかぶっている。


レイは屈んで手を伸ばした。ゆっくりと、慎重に。


触れた。


実体があった。レイの手は、楽器を掴むことができた。通り抜けなかった。


驚きが胸に広がった。初めて何かに触れることができた。廊下では全てが通り抜けたのに、この楽器は違う。確かに存在している。重さがあり、質感がある。


楽器を持ち上げる。木の質感がざらざらとしていて、塗装の剥げた部分は滑らかだ。弦は四本あるが、二本は切れていて、残りの二本も緩んでいる。音は出ないだろう。だが微かに温もりがあった。


この楽器は誰かが使っていた。弾いていた。愛していた。その温もりが残っている。


レイは楽器を抱きしめた。胸に抱き、頬を当てる。冷たいはずなのに温かい。


初めて何かを持った。初めて何かと繋がった。


嬉しかった。空虚が少しだけ埋まった気がした。


この楽器を手放したくない。これが自分の存在理由かもしれない。



   * * *



楽器を抱きしめていると、何かが流れ込んできた。記憶の残響。映像ではなくただの感覚。


誰かがこの楽器を弾いていた。小さな手。少女の手。


練習していた。毎日、何時間も。朝も昼も夜も、休まず諦めず。弓を持ち、ヴァイオリンを構え、顎で挟む。少し痛いが我慢する。


弓を引くと、弦が震え、音が生まれる。最初は不協和音で、耳が痛くなる音だったが、何度も泣きながら続けた。徐々に音が整っていき、丸くなり柔らかくなる。メロディになっていく。


喜び。上達する喜び。音楽を奏でる喜び。


レイはそれを受け取った。少女の喜びを。


だが、やがて壁が来た。どんなに練習しても越えられない壁。


他の子たちは簡単に弾いている。自分は違う。音は出せる。譜面は読める。でもそれだけ。何かが足りない。何かが違う。


理想と現実の差。才能の壁。


挫折。悲しみ。諦め。


そして置いていった。この通りに。忘れたいものを置く場所。心の奥底。


捨てた。忘れた。だが完全には忘れられなかった。


レイはその感覚を受け取った。全てを。喜びも悲しみも、希望も絶望も。


これが感情なのか……。


レイには元々感情がない。だがこの楽器を通じて他者の感情を知った。温かく、そして冷たい。嬉しく、そして悲しい。矛盾しているが、それが人間なのだろう。


レイは楽器を見つめた。木目が見える。時間を刻んだ証。


その時、声がした。


「それは私のもの」


レイは顔を上げた。


少女が立っていた。


影ではない。実体がある。色がある。生命がある。黒髪でストレートの肩までの長さ。白いワンピース。小さな体で十歳くらいだろうか。茶色の瞳がレイをまっすぐに見つめている。


この通りで初めて見る、実体を持った存在。レイは驚いた。


少女は一歩近づいた。靴音が響く。この通りで初めて聞く音。


「それは私のヴァイオリン。返してほしい」


その声は静かだが澄んでいた。


レイは楽器を見た。そして少女を見た。


返す?この唯一触れることができたもの。唯一温もりを感じたもの。手放したくない。


だが少女の目には悲しみがあった。失ったものを見つめる目。


レイは迷った。この楽器は少女のものだった。それはわかる。だがレイにとっても大切なものだった。これがなければレイは何も持たない。ただ消えるだけ。


レイは楽器を抱きしめた。ぎゅっと。


少女は悲しそうに微笑んだ。


「そう、まだ返したくないのね。じゃあ、私の話を聞いて」



   * * *



「私は音楽が好きだった」


少女は遠くを見つめながら語り始めた。


「五歳のときからヴァイオリンを習っていた。上手くなりたくて毎日練習した。音楽家になりたかった」


レイは黙って聞いていた。楽器を抱きしめたまま。


「でもある日、才能がないってわかった。どんなに練習しても壁を越えられなかった。他の子たちは簡単そうに、自然に、感情を込めて演奏できた」


少女の声は淡々としているが、痛みが滲んでいた。


「私だけができなかった。音は出せる。譜面は読める。でもそれだけ。『音楽は技術だけじゃない。魂を込めなさい』って先生に言われた」


少女は灰色の霧を見上げた。


「『もっと感情を込めて』って。でもどうやって?わからなかった。感情を込めるってどういうこと?私はちゃんと弾いてるのに。何が足りないの?」


少女の声が震えた。


「先生は困った顔をした。『君にはまだわからないかもしれないね』って。わからない。ずっとわからなかった」


少女は膝を抱えて小さくなった。


「だから十歳のときヴァイオリンを捨てた。ここに……。記憶の奥の方、忘れたいものを置く場所に……」


少女の手が微かに震えている。


「でも、捨てたはずなのに忘れられなかった。五年経った今でも夢に出てくる。もう十五歳、もう遅い、でも忘れられない」


レイは理解し始めた。この楽器は少女の記憶。捨てた記憶。諦めた記憶。


「あなたは……」


少女はレイをまっすぐに見た。


「私の記憶の一部。忘れたはずの記憶。捨てたはずの記憶」


レイの体が震えた。輪郭が揺らいだ。


「私が捨てたもの。諦めたもの。それが形になったのがあなた。私の後悔があなた」


レイは自分の手を見た。そしてヴァイオリンを見た。透けている。向こう側が見える。輪郭が曖昧。


「じゃあ、このヴァイオリンは……」


少女は静かに頷いた。


「あなたよ」


「あなたがこのヴァイオリン。このヴァイオリンがあなた。同じもの。私の記憶が、物の形になったり、人の形になったりしているだけ……」


レイは理解した。自分の正体を。


「だからあなたは薄いの、消えかけているの。私が忘れようとしているから。完全に忘れたらあなたは消える。そして無になる……」


それでも消えたくなかった。存在したかった。


「でも……」


レイは初めてはっきりと声を出した。


「このヴァイオリンを手放したくない。これが私の全てだから」


少女は目を見開いた。


「これがなければ私には何もない。ただ消えるだけ。存在する理由がない」


手放すべきか。握りしめるべきか。


レイは葛藤していた。この楽器を返せば、少女は後悔の記憶を取り戻す。だがレイは消える。握りしめればレイは残る。だが、少女は後悔の記憶を失ったまま……。


少女は静かに言った。


「選んで、あなたが決めて。私はあなたの選択を尊重する」



   * * *



沈黙が流れた。長い沈黙。


影たちは相変わらず行き交っているが、レイと少女の周りだけ時間が止まったようだった。


レイはヴァイオリンを握りしめた。ぎゅっと。


「私が……あなたの後悔なら」


レイは少女を見つめた。


「このまま私たちを放っておいて」


少女が息を呑んだ。


レイは続けた。


「忘れたいなら忘れればいい。消したいなら消せばいい。私はここにいる。このヴァイオリンと一緒に、ずっとここにいる」


少女の目が揺れた。


「放っておいて……」


レイの声が震えている。


「私は消えたくない。でもあなたが忘れたいなら、それでいい。このまま、ここで、存在し続ける。それが私の全てだから」


少女は何も言えなかった。ただレイを見つめている。


長い沈黙。


やがて少女の目から涙が零れた。


「でも……」


少女の声が震えた。


「でも、最近になってようやく私は気づいた。諦めたことを本当は忘れたくなかったって」


少女の目に涙が滲んだ。


「ヴァイオリンを捨てたことも、諦めたことも後悔してる。もっと続ければよかった。下手でもいいから」


涙が頬を伝う。


「でももう戻れない。時間は過ぎた。私は十五歳になった。もう音楽家の道には進めない。でもその記憶は大切だった」


少女は手を伸ばしてレイの頬に触れた。温かい。実体のないレイに初めて誰かが触れた。温もりが伝わった。


「あなたは私の大切な記憶。消すべきじゃなかった。忘れるべきじゃなかった。受け入れるべきだった」


レイの目から涙が零れた。いや、涙は出ない。だが何かが溢れた。感情のようなもの。


「私は」


レイは言った。声が震えている。


「私は消えたくない。存在したい。でも……」


楽器を見つめた。


「これはあなたのもの。私のものじゃない」


少女は涙を流したまま笑顔で頷いた。


「そう。私のもの」


「でもあなたの中にあるべきもの。外にあるべきじゃない。一緒にあるべきもの」


少女は優しく微笑んだ。


「ありがとう」


レイは理解した。自分の役割を。


自分は少女の一部。分離した一部。この出会いは少女が自分自身を取り戻すための旅。


「私を受け入れて。あなたの中に。元の場所に」


少女は涙を流しながら何度も頷いた。


「うん。受け入れる。全部。諦めたことも、失敗したことも、後悔したことも。全部私の一部だから。全部大切だから」



   * * *



レイは立ち上がった。楽器を両手で持って大切に、そして少女に差し出した。


「これを……」


少女は両手で優しく受け取った。


その瞬間、光が差した。灰色の霧を突き抜けて、上空から白い光、温かい光が。


レイの体が光に包まれた。温かく眩しいが痛くない。心地よい。体が透けていき、さらに消えていく。だが怖くない。これが正しい。


自分は少女の一部だった。分離していたものが元に戻るだけ、消えるのではない、還るのだ。


少女の目にも涙が流れているが笑っている。


「ありがとう。あなたに会えてよかった」


レイは微笑んだ。初めての本当の笑顔。


「私もあなたに会えてよかった」


光が強くなる。レイの輪郭が曖昧になる。溶ける。手が見えなくなり、足が消え、胴体が光に溶ける。


だが意識はまだある。


最後の瞬間、レイは感じた。自分が少女の中に入っていくのを。温かい場所に、本来の場所に。記憶として、経験として、そして宝物として。


影の通りが遠ざかる。


そして全てが光に包まれた。白い光。温かい光。


そして静寂。完全な静寂。だが空虚ではない静寂。満たされた静寂。



   * * *



少女は一人、影の通りで、ヴァイオリンを抱きしめていた。


いや一人ではない。もうレイはここにいる。自分の中に……。


少女は涙を拭い、通りを歩き始めた。ヴァイオリンをしっかりと抱いて出口を探して……。


もう捨てない、もう諦めない、もう忘れない。


弾けなくてもいい。プロになれなくてもいい。この楽器は自分の一部。この記憶は自分の宝物。


少女は歩き続けた。やがて前方に光が見えた。白い光。出口。


少女はそこに向かって、まっすぐに歩き、光の中に踏み込んだ。


影の通りが消えた。



   * * *



少女は現実に戻った。自分の部屋。ベッドの上。


窓の外は朝で、柔らかい日差しが、カーテンの隙間から差し込んでいる。


少女は起き上がった。体は重いが、心は軽い。


部屋の隅に、ヴァイオリンケースがあった。埃をかぶっている。五年間見ないようにしていた。


少女は近づいてケースを開けた。中にはヴァイオリンがあった。弦は古びているが、まだ使える、まだ生きている。


少女は楽器を手に取った。久しぶりの感触。木の温もり。


弓を持って、構えて弾いた。


ギィという不協和音だった。五年のブランク。


だが少女は微笑んだ。この音が愛おしかった。この不完全さが大切だった。


窓から光が差し込んだ。柔らかい朝の光。部屋が明るくなる。


少女は弾き続けた。少しずつ音が整っていく。記憶が蘇っていく。


そしてメロディが生まれた。不完全だが温かいメロディ。下手だが心のこもったメロディ。


少女は目を閉じた。心の中でレイが微笑んでいる気がした。ありがとうと言っている気がした。


少女は弾き続けた。涙を流しながら。笑顔で。


窓の外で鳥が鳴いている。いつの間にか新しい一日が始まっていた。



(完)

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