第8話 後悔
「……やってしまった」
屋敷の廊下を力ない足取りでうろつきながら、イングリッドはさっきまでの自分の行動を後悔していた。
どんな理由であれ、家同士の正式な面会の場で、しかも、自分よりも格上の相手に対して、感情的になって席を外すなどあってはならない。
それに加えて。
「……マルクス様は、何も間違っていないじゃない」
再三繰り返すが、貴族の婚姻は家同士の利益のために行うもの。結婚相手に対して個人の情など入り込む余地などなく、家とって有益な存在であるかどうかが全てだ。それが貴族としての当然の価値基準。だから、マルクスの発言や態度は何も間違っていない。自分が掲げる政策に〈紅〉の血が必要だった。だから、イングリッドに求婚した。ただ、それだけの話だ。なにもおかしいところはない。
……ただ。
なまじ自分の力で生きることを覚えたイングリッドとって、その基準はとても屈辱的に感じるものでもあった。
ニガートに婚約破棄されたあの日から、それを否定したくて剣を執り、身を立ててきた。
なのに、どれだけ頑張っても、どれだけ努力しても、結局は血の宿命からは逃れられない。そう突き付けられたようで、とても我慢できなかった。
「せめて、顔とか好きとか、体つきが好みとか、そういう理由だったら、ここまで感情的になることもなかったんですけどねぇ……」
見てくれが理由なのも、それはそれでどうかと思うが――少なくとも、個人の意思ではどうしようもない生まれや血筋なんかよりも、よっぽどイングリッドそのものを見てくれている気がして納得できる。
「だいたい、これでもお見合いですよ、お見合い。たとえお世辞でも、話で聞くよりもお綺麗ですね、くらい言うべきでしょうが。なのにあの男、最初から終わりまで、国の歴史と自分の政策ばっかり熱弁して……」
一度は落ち着いていた不満が、徐々に再燃していく。もっとも、容姿を褒めようにも鎧を着て出席したのはイングリッドだ。ついでに、あまりにも不可解な縁談が腑に落ちず、さっさと本題を切り出せと催促したのも彼女である。
とはいっても、この件に関しては謝るべきだろう。もともと父の顔を立てるためだけに同席したようなものだ。結婚そのものは破談になっても構わないが、それで父の立場が悪くなってしまうのはいただけない。
そこで、イングリッドは思い出す。
「……あ。やばい。お父様、置いてきちゃった」
イングリッドの顔から血の気がさっと引いた。
「今頃、わたしの無礼で糾弾されているのでは? うわぁ、だとしたら、ごめんなさい、お父様……」
地べたに頭をこすりつけて謝罪している父の姿を想像したイングリッドは渋い顔をしながら、回れ右。来た道を辿って、応接間の前まで早足で戻った。
「……あれ?」
すると、感情的に飛び出したのできちんと締めることができなかったのか、ドアが少しだけ開いていることに気づく。
その隙間から、父の声が聞こえてきた。穏やかな口調から、どうやら言い争いなどには発展してはいないようだった。
最悪の事態にはなっていないことに胸を撫でおろしつつ、話の内容が気になったイングリッドはそっとドアの隙間から中を伺った。
「……閣下。我が娘がとんだご無礼をいたしました」
ノルダール卿がマルクスに対して深々と謝罪した。自分よりも一回り以上の年下の男に対し、老齢の父が頭を垂れているのは、何とも不思議な光景だった。
「謝罪は無用だ、ノルダール卿」
面を上げるよう手で伝えながら、マルクスが苦笑を浮かべる。
「しかし、こうも拒絶されるとは。私なりにできる限りの譲歩はしたと思うのだが……」
事実、マルクスがイングリッドを娶るために出した条件は破格そのもの。不平不満が出るほうが正気と常識を疑われるレベルの待遇だ。
「……恐れながら。娘の態度は閣下が提案された待遇面ではありません。閣下がイングリッドを選んだ理由が、血筋だからでございます」
「うん? それはそうだろう。これは、そういう話だなのだから」
「ええ。ですが、あの娘は一度、〈紅〉の血を引いているという理由だけで結婚が破談になりました。結婚するからには懸命に尽くそうと心から思っていた男から心無い仕打ちを受け、あの子はいたく傷ついているのです。そして、今度は閣下があの子を血で選びました。男に捨てられた理由も血ならば、男に見染められた理由も血。あの子は、自分の意思ではどうしようもない部分で人生が振り回されることが何よりも苦しいのですよ」
ノルダール卿の言葉を聞き、マルクスが痛ましそうに眉を寄せた。
「なるほど。それでは言葉も配慮も足りなかったな。……やれやれ、相当焦っていたと見える」
「焦る? 一体、何に焦っておられるのです?」
マルクスは椅子の背もたれに体重を預けると、天井を仰いだ。
「本来の私は次男坊。先代当主の急逝によって爵位を継承しただけの間に合わせだ。もともと当主に成るつもりもなかったから、結婚もしていなかった。しかし、跡を継いだ以上、いつまでも未婚のままというわけにはいかない。次の後継者が不在だからな。これは当主として、早急に解決しなくてはならない問題だ。……私の掲げる政策とは関係なくな」
「……なるほど。つまり、閣下には時間が無いのですね」
盗み聞きしているイングリッドにはいまいちピンとこなかったが、ノルダール卿は察しがついたようだった。
「そうだ。後継者作りは融和政策よりも優先される。融和政策の礎として〈紅〉の血を引く嫁を取りたいが、今の伯爵家の状態は、私の嫁探しの結果が出るのを待ってはくれない。私の身に何かあれば伯爵家の直系が途絶えるからだ。今は喪中を理由に話を先延ばししているが、喪が明ければ、親戚連中はすぐさま私に相手を用意するだろう。伯爵家に相応しい普通の相手など探す必要もなく、そのへんに転がっているからな。そして、今度はそれを断れん」
そこまで聞いて、イングリッドは得心がいった。
どうして伯爵家の当主たるマルクスが、わざわざ辺境くんだりまで出向いてまで嫁探しをしているのか。それは、マルクスの政策を実現するための配偶者を探すには、今しかチャンスがなかったからだ。
マルクスの掲げる融和政策は、彼が〈紅〉の女と結婚すれば、それで終わりという話ではない。〈白〉と〈紅〉両方の血を引く後継者を用意してから、本格的に始動するのだ。
だが、マルクスが語ったように、伯爵家の後継者が不在のままでは、存続の危機に陥る。すぐにでも結婚相手を宛がい、早急に子を作らなくてはならない。これは最優先事項だ。わざわざ特定の家柄の相手を探している余裕はない。
そして、そうなってしまったら、マルクスの政策は破綻したも同義だ。
一度、適当な家から正室を迎えた後で、〈紅〉の女を側室に迎えて子供ができたとしても、後継者には正室の子が選ばれる。そうでなければ正室の意味がないからだ。
もちろん、正室に子供が生まれるとは限らない。だが、マルクスが自身の理想を確実に遂げようと思うのなら。結婚を先延ばしできる喪に服している間に、自分の手で〈紅〉の女を探し出す方法がなかった。
(そこまでして……)
イングリッドは不思議に思った。マルクスがそこまでするのは何故だろう。国のためとは言っていたが、本当にそんな綺麗事のために、わざわざそんな苦労を背負い込むだろうか。
「……閣下は、なぜ、そこまでして融和政策を推し進めるのです?」
娘と同じことを思ったのか、ノルダール卿が尋ねた。
「先ほど、閣下はご自身を間に合わせと仰いました。もともと当主になるつもりはなく、予期せずしてそういう立場になったばかりの御方にしては、いささか行動が迅速で、それでいて迷いがないように感じます。融和政策は、かねてより構想があったのではありませんか?」
「……そうだな。貴公の言う通りだ。この考えは、当主を継いでから考えたものではない。この国のそういう風潮は、ずっと前から、変えなくてはならないと思っていたことだ」
そう言うと、マルクスは懐かしい記憶を思い返すように瞳を閉じた。
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※次回の更新は5月3日21時を予定しています。