第6話 お見合い
「君がイングリッド・マリールイス・ノルダールか。お初にお目にかかる」
瞼の向こうから覗いた翡翠色の瞳がイングリッドを捉えた時、落雷のような衝撃が彼女の胸を駆け抜けた。
その瞬間、世界の明度が一段階上がったのがわかる。
それは目の前の男が放つ魔力のごとき壮麗さによるものだろうか。粗末な椅子に、年季の入ったテーブル。いったい何世代前から使っているのか、時代遅れも甚だしいデザインの調度品たち。ノルダール家の応接室は、イングリッドの記憶の通りに古めかしいままなのに、まるで最上級品のように輝いて見えた。
「あなたが、あのベルイマン……」
「どのかは知らぬが、いかにも」
イングリッドの呟きに、来客用の椅子に優雅に座す男が淡々と応じる。
青年と呼ぶには貫禄があり、壮年と呼ぶには若々しい。ちょうど二十代後半から三十代前半。短く刈り上げた黄金の髪に、涼やかな宝石のごとき瞳。鼻筋がすっと通った精悍な顔つきをしているが、その表情にはどこか冷たいとしたものが漂っている。よく言えば真面目。悪く言えば――堅物そう。
上背があり、肩幅もがっちり。その上、礼服の上からでも感じられるほど筋肉の厚みがある。整った顔立ちに、十分すぎるほど鍛え上げられた肉体を併せ持つと来れば、まさに美丈夫と呼ぶに相応しい。
しかし、外見が美しいだけで、部屋が明るくなるほどの錯覚を生み出したわけではなかった。真に輝かしいのは、その身に刻まれた歴史そのもの。いくつもの時代を超えて受け継いだ貴い血を誇りとし、その名と血に恥じぬよう、生きた年数と同等の自己研鑽を積み重ねてきた内面の美しさ。
貴顕の美――彼は正真正銘、貴族の体現者だ。
(やばい。本物だ。この人は、本物の貴族だ)
イングリッドは目の前の美丈夫に言い知れない恐ろしさを感じた。ただの平民であれば、外見の美麗さに衝撃を受けるくらいで済んだかもしれないが、なまじ同族であるせいで、《《格》》の違いが肌を通じて直接的に伝わってくる。
「私はマルクス。当代のベルイマン伯爵である。以後、お見知りおき願おう」
美丈夫――マルクスは宣言するように滔々と口にした。
ベルイマン伯爵家は、レスニア王国東部のモリスト地方一帯を統括する一族である。
四大伯爵の一人であり、王族の近しい家柄を持つ貴族を除けば、おおよそ最高峰の家柄と言えた。領地、資産、地位、歴史――あらゆる点でノルダール男爵家とは比べものにならない大貴族だ。
更に、その家名は、武に生きる者にとって特別な響きを持っていた。
この世界の最古の剣術を伝え、旧い時代より何人もの高名な騎士を輩出し続けてきた武の名門。この国において、真の兵と言えばベルイマンの血を引く者なのである。
(しかも……)
不躾にも、イングリッドの喉が鳴る。
マルクスは、ベルイマン史上、最高傑作を謳われた男だった。
先代当主の次男として生を受けたマルクスは、若くして家伝の剣術を修めた後、武者修行を経て王国騎士団の門を叩いた。
瞬く間に頭角を現した彼は、一軍を率いる将となって、いくつもの戦いで勝利に貢献する。個人の武勇においても並び立つ者はおらず、その腕を見込まれて宮廷に招かれ、王室剣術指南役を仰せつかるなど、逸話に事欠かない。武に生きる者にとって生きる伝説のような存在だった。
イングリッドも剣士の端くれ。マルクスの武勇伝はあちこちから流れてくる噂でよく知っていた。
しかし、噂とは尾鰭がつくもの。はてさて、どこまで本当なのやら――と斜に構えていたが、実物を目の前にすると、その伝説がまったくの誇張ではないことが理解できる。
……それにしても。
(そんな傑物が、なぜ、わたしなんかに縁談を……)
イングリッドは、この席の意味を思い出していた。
〈止まり木市〉で傭兵家業に精を出していたイングリッドの元に、ノルダール男爵家に縁談が転がり込んできたと知らせが入ったのが一週間前。
無視を決め込みたかったが、当主直々の手紙と来ればそういうわけにもいかず、傭兵団の首領に事情を説明して暇をもらって実家に帰参したものの――イングリッドとしては、結婚する気は髪の毛一本分もありはしなかった。
一人で生きていくつもりで家を出たし、女の幸せを捨てる覚悟で傭兵になったのだ。この生活をずっと続けていくという決意も含めて、借金をしてまで自分専用の鎧も買った。縁談が来たからと言って、どうして今更、信念を曲げられるだろうか。
――と内心では憤慨しているイングリッドだったが、申し込んできた相手が伯爵位であるということは理解している。しかも、古今問わず輝き続けるベルイマンだ。結婚する、しないの最終決断は一旦は置いておくとしても、没落した男爵家風情が縁談そのものを断るなど言語道断である。
ノルダール男爵家当主としての父の顔を立てるためにも、とりえず顔合わせだけ。あとは体よく断ろう。そういう趣旨でこの席は成立した。
……の、だが。
(わたしをマリールイスと呼んだということは、ちゃんと下調べしているみたいですね……となると、この縁談、向こうは本気なんでしょうか?)
レスニア王国の貴族の子供は十六歳ごろまでは幼名で過ごし、その後、家長から成人としての名前――真名を授かって元服するという風習がある。
しかし、幼名は元服以降の公式文書では概ね省略されるし、何らかの理由がない限りは外では名乗らない。幼名はあくまで親の所有物だった時代の名称であり、一個人としての効力を持ち、責任を伴うのは真名のほうだからだ。成人以降も幼名で呼ぶのは家族や古い友人くらいだろう。
しかし、今日初めて顔を合わせたばかりの――正直、赤の他人そのものであるマルクスが、イングリッドの名を淀みなくフルネームで読み上げた。それはつまり、彼女の来歴について詳細に下調べをしているぞ、というアピールに他ならない。
だからこそ、余計に腑に落ちなかった。
幼名にまで行きつく段階で、現在のノルダール男爵家がどんな有様なのか、イングリッドがどんな生活を送っているのかも明らかになっているはず。そこまでわかっていながら、どうして自分なんかに縁談を持ち掛けたのか、彼女には理由がまったく想像できない。
ましてや――
「それにしても、聞きしに勝るとはこのことだ。先の時代、ノルダール《《侯爵家》》はかなりの武闘派だったと聞く。どうやらご息女にもその気骨が色濃く継承されているようですな」
イングリッドは、マルクスの視線が彼女の胸元まで下がったのを察した。興味深げな眼差しだ。女の胸を見て、そのような目をするなど無礼千万であるが、彼女は否定的な心証を抱かなかった。むしろ、だろうな、という共感さえある。
何故なら――
「いやあ、ははは、それはどうも……」
父から漏れる、乾いた笑み。
横目で非難がましい視線を向けられ、イングリッドは眉をしかめながら、胸の中で何度も父に詫びた。
――そう、イングリッドは武装してこの席に臨んだのだ。
胴体を覆う胸甲鎧。両腕には籠手。足には脛当て。完全に仕事スタイル。まるで、これから合戦に出ると言わんばかりの出で立ちである。
(自立した時に、どうせもう結婚することはないと、社交用のドレスをみんな質に出してしまったのが仇になりましたね……まさか、ボロよりましな服が、鎧しかなかったなんて……!)
貴族という概念は、歴史を遡れば、武力でその土地を支配していた豪族に端を発するもの。その意味で、具足こそが貴族の正装であるという考え方もできなくはない――が、実際にそれをやったら、変な目で見られることになるのは明白だ。
当然、実際にやってしまっているイングリッドは、そりゃあもう、頭のおかしい女としてマルクスの目に映っていることだろう。礼儀も知らぬと嘲笑うか、はたまた腹を立てて、そのまま伯爵領に帰る。そういう展開も十分に考えられる。
だったら都合がいい。お疲れさまでした。このまま解散ということで――そうイングリッドは期待していたのだが、どういうわけかマルクスは静かに微笑みながら見つめるだけで、一向に席を断つ気配がなかった。
……どうやら、お見合いは続行するらしい。
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※次回の更新は5月1日21時を予定しています。