第5話 宴会(3)
「……それにしても、アルバローズねぇ」
ユニとの会話が聞こえていたのか、ウルスラが興味深げにイングリッドを見た。
「なにか?」
「……いや。男の名だと思ってな。何か謂れがあるのか?」
ウルスラから問われ、イングリッドが考えるように口を閉じたかと思うと、頬を染めて視線を外した。
「え、なに、その反応。気持ち悪い……」
横から茶々を入れたユニに、イングリッドは鬱陶しそうな顔をする。その遣り取りにウルスラが苦笑いを浮かべる。
「まあ、離したくないなら無理強いはしないが」
「いえ、そういうわけでは……ただ、聞いてもそんなに面白くはないですよ?」
そう言いおいて、イングリッドは話し始めた。
「わたしがちょうど八歳くらいの時の話ですか。屋敷の近くにはちょっとした森がありまして。そこでよく木の実を拾ったり、薬草を摘んだりして遊んでいたのですが、ある日、うっかり森の深いところに入っちゃったんですよね。それで、慌ててもと来た道を戻ろうとしたら、飢えた野犬の群れに囲まれてしまって」
「え、怖っ」
さっきまで囃し立てていたはずのユニが急に真顔になる。
未開拓地と面する辺境では野盗被害だけでなく獣害も多発する。中でも、野犬による被害は全体の上位三位に食い込むレベルだ。
そもそも犬という生き物自体が極めて優秀な狩人である。幼犬はともかく、成犬を相手に素手、あるいはそれに近い状態の人間が勝つことは、まず不可能と言っていい。
そんな獣たちが群れを成して自分を取り囲む光景は、まだ六歳児に過ぎなかったイングリッドに途轍もない恐怖だった。
「幼いながらに、もうここまでの命かと諦めていました。ですが、そんなわたしを助けてくれた人がいたんです」
――その時の光景を、イングリッドは今でもよく覚えている。
今にも飛びかからんとする野犬からイングリッドを庇うように、流星のような速度で一人の少年が駆けつけたのだ。
十五、六歳ほどの綺麗な顔立ちの男の子だった。その姿は遍歴の剣士といった様相で、装飾が施された立派な鎧に身を包み、腰帯には黒鞘を差していた。
急に現れた少年の姿を見ても野犬たちは一匹も逃げ出さなかった。まるで人間を恐れていない様子で、もしかしたら単に獲物が増えただけという認識だったのかもしれない。
唸りを上げ、にじり寄って来る野犬たちに対し、少年は「仕方ない」と静かに呟いて腰の刀を抜いた。
それを合図に、野犬の群れが一斉に飛びかかって来る。
……今でも思う。あれは不思議な剣術だった。
肉体の構造や知能、価値観がまるで異なる野性の獣が相手では、剣術――人間相手の読み合いの技術など何の役にも立たない。なのに、少年剣士は野犬の群れに対して始終、圧倒していた。
まるで、彼の遣う剣術が獣と戦うための編み出されたもののように。
群れの半分ほどが骸になって、ようやく勝てないと悟ったのか、野犬たちは弱々しい鳴き声を上げながら、尻尾を巻いて森の奥へ逃げ帰っていく。
周囲の安全を確認すると少年剣士は刀を納め、そのまま森の外まで幼いイングリッドを送り届け――そのまま何事もなかったのように立ち去っていった。
少年とはそれっきりの関係だったが、その出来事がきっかけでイングリッドは剣術に興味を持つようになったし、貧しさから護身術を学ばなくてはならなくなった時もそれを素直に受け入れることができた。
その結果、今の傭兵業にもつながると考えれば、あの旅の少年剣士がイングリッドに多大な影響を与えたのは間違いない。
「わかった! その少年剣士の名前がアルバローズでしょ!」
ピンと来たように、ユニが大声をあげる。
「正解です」
「初恋の男の名前をつけたいだなんて、イングリッドもずいぶん乙女じゃん」
「いや、初恋とかそんなんじゃ……」
気色悪い笑みを浮かべるユニに、イングリッドがばつが悪そうに頬を掻く。
とはいえ、ユニの言葉も本心では否定できなかった。彼女の短い人生の中で、あれほど熱烈に意識した異性は、あの少年剣士をおいて他に存在しなかったからだ。
一度は結婚を誓ったニガードでさえ、家のための婚約者以上の意識は芽生えることはなかった。一緒に暮らしていればそのうち愛が育まれるだろう――くらいの気持ちで、正直、あの段階では好きでも何でもなかったかもしれない。
そして、傭兵として働くようになってからは毎日が真剣勝負で、自分の暮らしを第一に考えなければならず、異性に恋焦がれている余裕は微塵もない。
そう考えると、ただ一人の女として純粋に心惹かれた男は、あの少年剣士が最初で最後だったのかもしれなかった。
「……遍歴の少年剣士、か。もしかしたら、貴い家柄の子だったのかもしれんな」
ウルスラが言う。
「かもしれません。貴族には、元服した男子は武者修行に出るべし、なんて家訓がある家もありますから」
「でも、本当にそれきりだったの? イングリッドの家も一応は貴族なんだからさ、その少年剣士くんがどこの家の子か、調べようがあるんじゃない?」
「うちは社交界とは全く、微塵も縁がない家でして。情報がまるで入ってこないんですよ」
「そっかぁ」
残念がるユニに、イングリッドは苦笑した。没落貴族の上に、国賊の末裔だ。英雄たちの末裔が牛耳る社交場に顔を出したところで爪はじきに遭うのは見えている――とは、敢えて口に出さなかった。
「会えるものなら会いたいですが、仮に運命のいたずらで再会できたとしても、今のわたしは金で雇われるしがない傭兵。しかも、借金持ちですから。会ったところで相手にされませんよ」
そう言いながら、イングリッドはジョッキを口にした。
あれから十年。もう子供じゃない。自分も、彼も、それぞれに立場があるはずだ。飛剣の話でも触れたが、傭兵と騎士は何かと折り合いが悪い。会っても、きっとろくなことにはならないだろう。綺麗な思い出は思い出のまま、そっと胸に秘めておくくらいがちょうどいい。
「初恋は叶わないのが鉄則ってもんです。ユニがわたしのためを思ってくれるのはありがたいですけど、今のわたしには色恋よりも、気楽な独身生活のほうが楽しいですから、お気になさらず」
「――よく言った」
ぱん、ウルスラが膝を叩く。
「この業界、どういうわけか結婚を匂わせた奴に限って戦死していくって呪いがあるからな。生き残りたければ、生涯独身を貫くくらいの気概でちょうどいい」
「今日も無事だったあたしらは全員未婚ですからね。さすが団長、説得力あります」
ユニの発言に再度、テーブルは爆笑の渦に包まれた。
その光景に、イングリッドは心の底から笑顔になる。
傭兵というのは厳しい仕事だ。命懸けで臨まなくてはならないのに、騎士のような誉れはない。金で雇われ、消費されていくだけの即席戦力。仲間が一人、戦死するたび、明日は我が身だと誰もが思う。
だからこそ、生きている間は目いっぱい楽しむのだ。たくさん食べて、しこたま飲んで、腹の底から笑う。刹那に生きるからこそ、その命の在り様は眩しく見えた。
「……ああ、イングリッドちゃん。やっぱりここにいた」
宴もたけなわになってきたころ。一行のテーブルに中年の男が近づいてきた。
「あれ? 大家さん?」
中年男は、イングリッドが〈止まり木市〉で間借りしている宿の大家だった。
「どうしてこんなところに?」
赤ら顔のイングリッドが席から立ち上がる。
「他の傭兵たちから〈宵鷺〉が戻ってきているって聞いてね。ここじゃないかと思ったのさ。一回、部屋に帰ってきてから飲みに行ったらいいのに」
「いやあ、すいません。もうそのまま飲みにいこうという雰囲気で……」
「ま、無事に帰ってきてくれたからいいよ。ところで、はいこれ」
大家は懐から一通の手紙を取り出し、イングリッドに手渡した。
「留守の間に届いてね、預かっていたんだよ」
「わざわざ持ってきてくれたんですか?」
「早い方がいいと思ってね」
大家がちょいちょいと手紙を指さす。
手紙の裏を返すと、封蝋にノルダール男爵家の印璽が押してあることに気づいた。
イングリッドは急速に酔いが覚めていくのを自覚する。
印璽が押されているということは、男爵家からの正式な手紙ということである。もしかしたら、家族の誰かに不幸があったのかもしれない。父か。母か。それとも、弟か。
イングリッドはすぐさま手紙を開封し、同封してあった紙面を目で追った。
その様子にただならぬ気配を感じたのか、テーブルを囲む〈宵鷺〉の面々は静まり返り、彼女の反応を固唾を飲んで見守る。
暫しの時が流れ、イングリッドが天を仰いだ。眉間に皺を寄せ、こめかみを押さえている。
「……イングリッド、なんて書いてあるの?」
ユニが気づかわし気に問いかけた。
「……縁談がきた。すぐ戻れ」
「「「……は?」」」
仲間たちの間にどよめきが走った。
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※次回の更新は4月30日21時を予定しています。