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エピローグ

これにて完結です。

 あの日から、一つ、冬を越えた。


 秋の終わりに開催された国家予算集会にて、マルクスがレスニア国王の御前で結婚の報告を行ったことで、イングリッドの婚約者としての立場は正式なものとなった。


 遅まきの社交界デビューもつつがなく……否、ひと悶着あったが、無事に次期伯爵夫人としての貫禄を見せつけることに成功。イングリッドの名は一躍、社交界に轟くことになる。


 そして、季節が巡り、春が来た。


 先代当主の一周忌も、もうじき明ける。待ちに待った婚姻の儀に向けて、いよいよ屋敷全体が慌ただしさに包まれ始めた。


 今日もマルクスは会場の設営の陣頭指揮を執っている。


 貴族の慶事ともなれば、大量発注を期待できるため、伯爵家の婚姻を聞きつけた商人たちによる訪問と商談が後を絶たない。酒や塗り物の手配をしたり、届いた品を検分したりして、領主自ら大忙しだ。


 そうなると、イングリッドも手伝わないわけにはいかず、執務室を借りて式に参加する親族の出席状況を席次を整理する事務作業を行っていた。


 さすがは古豪とでも言おうか。伯爵家の家系図は複雑怪奇な代物で、いちいち確認しながらでないと出席者の身元がまったくわからない。しかし、これを取りまとめるのも伯爵夫人である自分の仕事だと言い聞かせ、悲鳴を上げながらも頭に叩き込んでいく。


 イングリッドの頭から煙が立ち上り始めた、そんな時だ。


 忙殺されているはずのマルクスが、執務室にひょっこりと顔を出した。その両手には、ちょっとした大きさの木箱が抱えられている。


「イングリッド」


「マルクス様。どうされました?」


「さっきな。パンドゥーロ商会の長が来たぞ」


 よっこいしょとばかりに木箱を床に置きつつ、マルクスが言った。


 返送の書状と席次表を見比べていたイングリッドが、ぴたりと止まる。


 パンドゥーロ商会。かつてイングリッドを盛大に婚約破棄したニガートの店だ。


 元々、貴族社会まで販路を拡大したいと野望を抱いていた彼である。慶事を機に、お近づきになろうと擦り寄ってきてもおかしくはない。


 しかし、自分がこっぴどぐ振った女が嫁いだところに、どんな面をして商談を持ち掛けに来たというのか。下調べを怠るニガートのことだ。もしかしたら、イングリッドが嫁いだことさえ知らない可能性もある。呆れ半分、興味半分の心境。


「軽薄そうな男だった。君から聞いていた通りだな。だから、取引は取り止めにしておいたぞ」


「まあ、いやですわ、閣下。その言い方では、まるでわたしが仕返しをお願いしたようではありませんか、おほほ」


 イングリッドは口元を押さえて、お上品に笑った。


 財布の紐が緩い慶事前。それでもベルイマン伯爵が断ったとあれば、それなりに不評な店だと噂されるだろう。


 ざまぁみろ――と言いたい気分ではあったが、ニガートがイングリッドを捨てなければ、彼女は傭兵になることもなかったし、マルクスと出会うこともなかった。あの婚約破棄が自分の人生を変えた、最大のターニングポイントだったのは間違いない。人生はままならないものだな、と改めてイングリッドは思う。


 それはそれとして。


「ところで、持ってきたその木箱は何なんです?」


 イングリッドは、マルクスの足元の木箱を指した。


「ああ、君宛てに届いたものだ」


「わたし宛に? まさか、また危険物じゃないでしょうね?」


 怪訝そうな顔するイングリッド。


 伯爵家の内部派閥を一掃し、国王公認となった今でも、マルクスの融和政策を厭う〈白〉の家々は存在する。国王の決定に異を唱えることになるため、大っぴらに妨害はできなくなったが、巧妙な手口でイングリッドの事故死を狙う輩は後を絶たない。こうやって、贈り物に見せかけてトラップを仕掛けるのは日常茶飯事であった。


「安心しろ。危険がないことは、きちんと確認してある」


 そう言って、マルクスは膝をつくとおもむろに木箱の蓋を開ける。


 ……何も起きない。


 安心したイングリッドは机から立ち上がると、マルクスのそばまで歩み寄って、箱の中を覗き込んだ。


「まあ!」


 驚きの声。箱の中に納まっていたのは、蕾をつけたばかりの薔薇の苗だった。


「いったい、誰からの贈り物ですか?」


「匿名だ」


「え? 誰が送って来たかもわからないものを、慎重居士のマルクス様が受け取るわけないじゃないですか」


「それでも、匿名だ」


 マルクスは繰り返す。その態度で、イングリッドは送り主が誰なのか想像がついてしまった。


 マルクスが名を明かさない、あるいは明かせない人物がいるとしたら、伯爵家当主として縁故を認めることができない人間だということ。そして、この贈り物がイングリッドに宛てたものである以上、彼女の知己である人物で違いない。


 そんな人物がいるとすれば――


「……お元気にしていらっしゃるでしょうか」


 送り主の顔を思い浮かべながら、イングリッドは少しだけ寂しそうに呟いた。


 《《彼女》》の罪状を鑑みれば、伯爵家と関わりを持つことは二度とない。近況を聞くことも憚られる。贈り物など、本来であれば門前払いだ。


 けれども、そうはならなかった。マルクスが匿名と判断することで、彼女の想いはこうしてイングリッドの手元まで届くことができた。


「……マルクス様のそういうところ、大好きですよ」


「何のことだかな」


「ふふ」


 素知らぬ顔をするマルクス。思わず笑みが零れた。合理主義に見えて、本当に大切な人には甘いところもある。最近知ったことだ。これからも、どんどん知っていくだろう。まだ知らない夫の顔を。何せ、ようやく夫婦になるのだから。


「何色の薔薇ですかねぇ」


 そう言いつつも、この苗がどのような色を付けるのか、イングリッドはそれとなく気づいていた。


 彼女なら、きっとあの色を選ぶだろう。選んでくれるだろう。あの日、あの庭園で語ったことを忘れていないのなら。


 早く答え合わせがしたい、とイングリッドは思った。


 窓の外を見ると、雲一つない晴天。風も穏やかで、暖かい。鉢植えから庭へ植え直すには、ちょうどいい時期だろう。


「ねえ、マルクス様。さっそく植えに行きませんか?」


「今からか? まだまだ結婚式の段取りが残っているんだが……」


「そんなの、みんなに任せちゃえばいいんですよ」


 渋い顔をするマルクスに、イングリッドは悪戯っぽい笑みを向ける。


「今後、わたしのお腹が大きくなったら、庭園のお世話だって難しくなります。その時に備えて、マルクス様にはもうちょっと土いじりの経験を積んでいただかないといけませんし」


「塹壕では駄目か」


「塹壕では駄目です」


「……それこそ、皆に任せればいいんじゃないのか?」


「駄目です。あの一画だけは、わたしとマルクス様の責任でやるって決めているんですから。さあ、行きましょう。すぐ行きましょう」


 イングリッドは満面の笑みを浮かべながら、マルクスに手を差し伸べる。


「……まったく、君には敵わないな。わかった。付き合おう」


 差し出された手を力強く握り返し、マルクスは立ち上がった。暫し見つめ合い、微笑み合う。距離が縮まる。ゼロになる。


 ――二人が向かうは夢の庭園。


 蕾をつけた薔薇の苗のように、二人の物語はまだ始まったばかりだ。





/終わり


ここまでお読みいただきありがとうございます!

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