第34話 助太刀
拳闘の構えを取って男と対峙しながら、イングリッドはこの場における勝利条件をシミュレートしていた。
はっきり言って、現状は危機的状況である。ろくな武器もない状態で職業的殺人者と格闘戦など自殺行為にも等しい。加えて、向こうの手段は毒針による刺突。かすり傷一つで勝負がつく。
それでも、あのまま客室に押し込められているよりは幾分マシだ。相手のタネは割れているのだから、自由に動ける外の方が何倍も攻め手を講じれる。
真っ先に浮かんだ勝算は、騒ぎ立てて観衆を呼ぶことだった。職業的殺人者は仕事を見られるのを嫌う。衆目を集めるのが一番迅速に事態を収拾できる。
だが、ここは街はずれ。藪と廃屋ばかりで、人の行き交いがない。狙ってこの場所で襲撃してきたことがわかる。なので、この案はパスだ。
それに、おそらくどこかに仲間がいる。単独で仕事をする暗殺者も存在するが、大体はチームを組んで事に当たるものだ。おそらく、他の仲間はこの狩場に人が近づかないように支援に回っているのだろう。
だからといって――
「一人で挑もうとは、わたしも舐められたものですね。他の仲間が援護に当たっているとしても、たった一人で仕掛けてくるとは」
そう口にしながら、内面では敵の傲慢に感謝していた。作戦に参加している総人数はともかく、今この場では目の前の男さえ撃退してしまえるなら、そのまま馬を駆ってこの場を離脱できる。
イングリッドは刻むような歩法で、円を描くようにじっくりと距離を詰め始めた。接近戦では体格の差が如実に出る。いくら鍛えていても、女のイングリッドでは腕力勝負ではまず勝てない。
だが、腕力で劣っていたとしても、人体の構造的に脆弱な関節部を狙う極め技、体重差をダメージに変換する投げ技は有効だ。懐にさえ入ることができれば、徒手空拳でも妥当する方法はある。場合によっては、相手の針も奪えるかもしれない。
(……やれる。いや、やるんだ)
じわじわと口の中に嫌な渇きを感じながら、それでもイングリッドは男に向かって歩を進めた。
振り返れば、この時のイングリッドはかなりの視野狭窄に陥っている。
戦える人間は自分だけ。ろくな武装もない。エレーヌやグレタといった非戦闘員も抱えている。進退極まったこの状況で、それでも全員が無事に助かる方法を選ぼうと必死だった。だからこそ、いつもであればクレバーに状況判断ができる彼女らしからぬ、想像力の欠如を招いてしまっていた。
なぜ、この場の敵が目の前の男だけだと妄信したのだろう。
「……っ!」
イングリッドの背筋が凍った。背後の草むらから殺気が漂っている。
(しまった! 目の前の男は囮か!)
次の瞬間、草むらの影から矢のような勢いで針が飛び出してきた。
イングリッドは反射的に体を捻る。だが、間に合わない。目の前の男に注意を割いていた分、わずかに反応が鈍ってしまった。高速で飛来する針にとって、その誤差は致命的な隙だ。
(――終わった。赤ちゃん産んであげられなくて、ごめんなさい、マルクス様)
イングリッドが死を覚悟した、その時。
「いけません!」
射線上に素早くグレタが入り込んだ。針が彼女の胸に深々と吸い込まれる。
「ぐう!」
「グレタさん!」
「お、お逃げください、イングリッド様……!」
胸を押さえながら倒れ込むグレタを、イングリッドは慌てて抱きかかえた。
「――さすがはベルイマンの一門。己の身命を顧みず、ためらいなく主人の盾になるとは。まさに従者の鏡ですね」
予想外の邪魔立てに驚いたのか、男がこの場で初めて口を開いた。俯くイングリッドにゆっくりと近づきながら、饒舌に語る。
「ですが、その後のあなたの行動はいただけない。肝心のあなたがこの場に留まってしまうとは。それでは、彼女の献身も無駄になってしまうじゃないですか。元傭兵と聞いていましたが、合理的な判断ができていな――」
その瞬間、口笛が響いた。
「何だと……!?」
男たちの間で動揺が走る。イングリッドたちは知る由もないが、それは緊急事態を告げるものだった。
「馬鹿な、何者が……くっ!」
男の体が跳ねた。瞬間、さっきまで立っていた場所に短刀が突き刺さる。
何事かとその場の全員が視線を向ける先。黒い影が、猛烈な勢いでこちらに駆けてくるではないか。
その影が手にしているモノを見た瞬間、イングリッドの身体に電撃が走った。
絶望に満ちていた瞳に光が戻る。グレタをそっと寝かせると、地面を這うように低い姿勢で駆け、地面に刺さった短刀を拾った。
すかさず、男に向かって投擲。
「ちっ!」
敵もさるもの。投擲はかわされた。だが、それも予定通り。注意を引くためにやったことだ。
走って来た影が、イングリッドを跳び越え、男の頭上に滞空した。
そのまま手にした大太刀を唐竹に迅雷のごとく切り落とす。轟音。梅樽を割ったように血を撒き散らしながら男は倒れた。
「……よお。久しいな、イングリッド。お前、本当に結婚したのか? 荒事からは足を洗ったようには見えないぞ?」
男を真っ二つにした人影は、気さくな声で言った。
女にしては大柄な体躯。褐色の肌。頬に走った大きな傷跡。そして、手にした〈宵鷺〉の異名を持つ大太刀。
駆けつけてくれたのは、女傭兵団〈宵鷺〉の団長、ウルスラだった。
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※次回の更新は5月29日21時を予定しています。




