第31話 お茶会(2)
イングリッドはぎょっとした。ハッドロウ子爵夫人の肩口に一匹の虫が止まっている。一寸ほどの体長。金属のような光沢色の赤。コウギョクジバチだ。
(どこから沸いて出た!?)
今朝、エレーヌから巣の撤去の報告を受けて、少しばかり戻り蜂の存在を懸念していた。だが、飛んで部屋に入ってきたのなら羽音がする。しかし、イングリッドが覚えている限り、羽音はまったく聞こえなかった。使用人たちが清掃をしたり、換気をした時に、それと気づかず紛れ込んでいたのかもしれない。
まずい、とイングリッドの顔が険しくなる。
コウギョクジバチの針には毒がある。それも、一刺しされればまず助からないレベルの強力な毒が。
昆虫毒はとにかく回りが早い。種類や刺された回数にもよるが、十五分から二十分という早さで死に至る。毒蛇でさえ一、二時間程度かかることを考えれば、その速度の異常さがわかるだろう。
とはいえ、蜂は何もしなければ襲ってくることはまずない。下手に触らず、騒がず、じっと動かずにいれば、そのうち勝手に離れていく。
ただし、それは自然の中で生き物と触れ合ったことのある人間だけが知っている経験則だ。泥に塗れたことも、藪を駆け抜けたこともなさそうな、温室育ちの令嬢たちが適切に対応できるとは思えない。
(せめて、気づいてくれるな……!)
だが、イングリッドの必死の祈りも空しく――
「え、嫌っ!」
肩のあたりを這いまわる蜂の存在を認識したハッドロウ子爵夫人が甲高い悲鳴をあげた。反射的に蜂を手で払うと、跳ね上がるように立ち上がる。けたたましい音を立てながら椅子が倒れた。
無論、事はそれで終わらない。昆虫の外骨格は軽くて硬い。手で払いのけた程度で死ぬことはない。その証拠に、耳障りな羽音が聞こえ始める。赤い影が、上空をゆっくりと旋回するのは見える。
「ひっ! こ、こっちに来ないで……!」
ハッドロウ子爵夫人の顔が恐怖に引きつった。手で払われたこと、過剰に蜂を恐れる大きな動きに触発されて、コウギョクジバチは興奮している。もともと攻撃性の高い蜂だ。敵と認識したらいつ攻撃してきてもおかしくはない。
幸いだったのは、あまりにも突然の事態に、他の令嬢たちが事態を飲み込めず、ぽかんとしていることだった。一緒になって騒ぎ立てたら収拾がつかなくなる。片付けるなら、今しかない。
「失礼!」
イングリッドはテーブルの上から菓子切りを咄嗟に掴むと、中空で狙いを定めんとするコウギョクジバチに向かって投擲した。
本来、そのような用途ではないはずの竹製の菓子切りは、凄まじい速度で空気を切り裂きながら飛ぶ。違わず命中。コウギョクジバチは翅を散らしながら、地面に落ちた。
どうやら、飛剣の腕は衰えていないようだった。
「ご安心ください。仕留めました」
「あ、ありがとう……ございます……」
地面で弱々しく足をじたばたさせる蜂を確認すると、 ハッドロウ子爵夫人はへなへなとその場で脱力した。
イングリッドが駆け寄り、ハッドロウ子爵夫人に手を差し伸べる。夫人は顔を真っ赤にし、目を伏せた。
「お、お恥ずかしい……腰が抜けてしまったみたいで……昔からその、虫が苦手で……」
「いえ。あの状況では誰でもびっくりします。大事に至らなくてよかったですわ」
「……イングリッド様は怖くありませんでしたの?」
「もちろん、怖いですよ。コウギョクジバチの針は猛毒です。刺されたら、まず助からないでしょう。だからこそ、何が何でもあなたをお助けしなければと思いました。はしたない真似をしてしまい、申し訳ありません」
イングリッドはにっこりと微笑むと、ハッドロウ子爵夫人は毒気を抜かれたような顔になった。この娘は何の打算もなく、ただの親切心で自分を守ってくれたのだと気づいたのかもしれない。
「……なるほど。それが、あなたの価値なのね」
ハッドロウ子爵夫人が小さく呟く。すると。
「とても勇ましかったですわよ、イングリッド様!」
「その通りですわ! あれが傭兵の技ですのね!」
「わたくし、感動しましたわ! もっと、あなたのお話が聞かせてくださいまし!」
状況を把握した、周囲の令嬢たちはイングリッドを取り囲み、きゃいきゃいと黄色い声をあげて持て囃しだした。あまりの掌の返しぶりに目が白黒する。
その様子をエレーヌは神妙な顔つきで見つめていた。
「……あなたが本気を出せば、きっと、わたくしたちなどいつでも亡き者にしてしまえる。荒野を生きたあなたにとって、温室育ちのわたくしたちなど恐れるに値しない存在なのでしょうね」
「え? エレーヌ様、なにか?」
「……いいえ。みんなと打ち解けられたようで、よかったわ」
もみくちゃにされているイングリッドに向けて、エレーヌは静かに笑った。
◆◇◆◇
その日の深夜。グレタが、まだ明かりの灯るマルクスの執務室を訪れた。
「どうした、グレタ。イングリッドのことで何かあったのか?」
「実は……」
書類から目を離さず、マルクスはグレタの報告に耳を傾ける。
「そうか。ハンナが……」
一通りの報告を聞き終えると、静かに筆をおき机の上で指を組んだ。鋭い翡翠色の瞳が侍従長を射抜く。
「王都への出立まで、もう時がない。想定通りと言えば、想定通りだな」
国家予算集会のための出発までは、残り数日。国王に謁見し、結婚の報告をすればイングリッドとの関係は正当なものとなり、国王公認の大義が宿る。
だからこそ、それを阻みたい輩からすれば今がチャンスだ。
「おそらく、次が本番だろう。何かあれば私が対応する。下がって休め」
「かしこまりました」
一礼し、グレタは執務室を去っていく。
誰もいなくなった部屋で、マルクスは深く息を吐きながら、椅子の背もたれに体を預けた。
耳が静寂で痛い。夜の屋敷は物音さえしなかった。誰もがただ静かに夜明けを待っている。
「この静寂が、嵐の前の静けさでないといいがな」
第三章/了
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※次回の更新は5月26日21時を予定しています。




