第29話 事なきを得る
自室に戻ったイングリッドに、グレタは手早く衣装直しを行った。
「やっぱり、さっきのドレスは良くなかったですか?」
「そうですね。もし、あのままお茶会に参加されていたら、いい笑いものになるところでしたよ」
「あれはあれで綺麗なドレスでしたけどね」
グレタの指摘に、イングリッドは困り顔をした。彼女が違和感を覚えたのは、あくまで事前に行っていたグレタとのやり取りとの差異だ。服飾の組み合わせそのものの違和感に気づいたわけではない。
上流階級の服飾マナーは複雑怪奇なものだ。布地の種類、色、刺繍の柄、デザイン、シチュエーション、招待者の好み――それらのわずかな食い違いでマナー違反となる場合がある。
しかも、動作的な作法と違って、こういった知識は詰め込んだところで活用できなければ意味はない。その活用法こそがセンスなのだから。加えて、感覚的な問題であることから理論的に推察できるものでもないため、イングリッドが最も苦手とする分野と言っていいだろう。
「淑女教育を始めたばかりの頃、私が申し上げたことを覚えておいでですか? 社交界において、美貌は武器、教養は防具、品格は技術だと。このいずれかが欠けてしまうと、相手に付け入る隙を与えてしまいます。そう、今回のように」
今回は教養――すなわち防具が甘い部分を狙われた、ということだろう。イングリッドの苦手とする服飾マナー。疑問に思っていても、強く言い出せない自信のなさ。そういった部分を突かれたわけだ。
「すいません。グレタさんらしくはないとは思ったのですが……」
「素直さは美徳ですが、それは盲信することとは別です。おかしいと思ったのなら、自分の判断を信じる毅然さも必要でございます……とはいえ、イングリッド様ばかりを責めるのは不公平というものですね。私もおかしいと思ったのです。このタイミングで私に急用などと……早めに戻ってきて正解でした」
グレタの表情はずっと厳しいままだった。それでいて、衣装を直す手つきは正確そのものを保っている。改めて、彼女の意識の高さに感心する。
「……しかし、ハンナさんはなぜこんなことを? 仮に、わたしを笑いものにして、彼女にどんな利があるというのでしょう?」
当然の疑問だった。引き継ぎミスではないことは明白。ハンナの行動には、イングリッドに対する何らかの意図がある。行動から推測できるのは、公の場で、イングリッドに失態を犯させることだろう。
だが、そんなことをして何になる?
イングリッドへの個人的な恨み?
それらしい心当たりはない。しかし、そういったものは往々にして当事者に自覚はないものだ。イングリッドが屋敷での生活で、ハンナに理不尽な振る舞いをしいたとしても否定はできない。
「今はまだ、確たることは言えません。ですが、ハンナの処分は私にお任せを。イングリッド様は、目の前のことに集中なさいませ」
グレタの口ぶりに、イングリッドが驚く。
「処分って……グレタさん、何もそこまで」
「イングリッド様」
ぴしゃり、とグレタが遮った。
「傭兵の仲間にもそれを仰るのですか? 命を賭けた戦場で、あまりにも初歩的なミスをして損害を出した同僚に対して?」
「……いや、それは」
「それと同じでございます。社交界は貴婦人の戦場。そして、使用人は、戦場に合わせた正しい鎧を主人に纏わせることが職務。言い訳はできません。まして、ハンナは新人ではないのですから」
何を言おうとして、イングリッドは口を閉じた。現時点では、自分はただの婚約者だ。屋敷の人事に口を出せる立場ではない。グレタの言う通り、沙汰は彼女に任せるしかないだろう。
ほどなくして、衣装直しが終了した。
「イングリッド様は目の前のことにのみ専心なさいませ。事によっては、これで終わりではないのかもしれません」
「……わかりました」
イングリッドは真摯に頷き、部屋を後にした。
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※次回の更新は5月24日21時を予定しています。




