第26話 二人で巡る収穫祭(2)
麦酒を手に入れたイングリッドとマルクスは、近くの長椅子に腰掛けていた。
鶏の串焼きをつまみに酒を飲み飲み、肩を並べてのんびりと祭りの風景を眺めている。
「かーっ」
木樽ジョッキの麦酒を飲み干したイングリッドが、いかにも親父臭い息を吐く。
嗜好品、または宴のための酒は屋敷にも備蓄してあるが、それらは米から醸造した高級品ばかり。
イングリッドが慣れ親しんだ酒は、酒造統制の影響を受けない雑穀――概ね大麦だ――を発酵させた庶民酒。舌の上を弾ける気泡の刺激。長く日持ちさせるための混ぜ込まれた香草の爽やかな香りと苦み。そのさっぱりとした味わいは、人いきれのする街中で飲むと格別だ。脊髄反射的に昔に戻ってしまうのも無理はない。
喉を滑る悦楽に溺れるのも束の間、やべ、とイングリッドはマルクスをチラ見した。これまで培った淑女教育が一気に無に帰したような醜態だが、彼は気にした様子はなさそうだった。
「いいさ。こんな場所でお淑やかに飲んでいるほうが怪しまれるからな。今日は特別だ」
白い歯を見せながらマルクスが言う。彼の手にも木樽のジョッキが握られている。それを、やはり一息。イングリッドにも劣らぬ速度で飲み干す。
「おー、マルクス様もいける口ですね。庶民のお酒なのに」
「騎士団時代も、酒と言えばこれだった。騎士なんて言うのは、だいたいが貴族の次男坊や三男坊ばかりだが、うちの連中は実力優先で集めたものだから、特に家柄にバラつきがあってな。上に合わせるよりは下に合わせたほうがいいと、飲みの席では麦酒で乾杯していたんだ。だから、嫌いじゃないぞ」
「……よかった」
「よかった? 何がだ?」
イングリッドの反応に、マルクスが小首を傾げる。
「夫婦の食べ物の好みが同じなら、食卓を囲うたびに美味しかったねって笑顔で語り合えます。でも、食事の好みが違ったら、食卓を囲うたびに、どっちかの機嫌を伺わないといけません。そんなの、ちょっとしんどいじゃないですか。だから、マルクス様と好みが似ていてよかったなって」
「……なるほど。そうだな。その通りだ」
マルクスは納得したように頷いた。好みが近ければ、日々の何でもない一コマが楽しい思い出になる。これから長い時間を連れ添っていくのだ。思い出は楽しいものが多いほうがいいに決まっている。
「そうだな。幸いなことだな」
「まあ、わたしには好き嫌いなんて言っている余裕のない環境で育ったので、おおむねマルクス様に合わせてあげられますけどね。贅沢な環境で育ったマルクス様には、苦手な食べ物の一つや二つ、ありそうですねぇ」
イングリッドは意地悪な瞳で問いかける。
「はっ。私は騎士だぞ。苦手なものなど……鷹は飢えども穂を摘まず、だ」
マルクスが口にしたのは、この国における騎士の訓戒だ。
時に法を超越して暴力を行使する騎士には高潔さが求められる。困窮しているからと言って、誰かから奪っては野盗と変わらない。騎士であるからには、たとえどんな状況であっても、人としての品性を示さなくてはならないという戒め……だが。
「いや、それはお腹空いても我慢するってだけで、苦手なものがないという証明にはならないのでは?」
イングリッドの追及をマルクスは黙殺した。どうやら、心当たりがあるようだ。
今後、よく食事風景を観察しよう、と彼女は思った。上手くすれば、あの〈王国最強〉の弱みを握れるかもしれない。
それからしばらく、無言が続いた。
夜風が通りすぎ、酒で火照った身体の熱を散らしていく。
「……執務室に」
流れゆく人波を優し気な眼差しで見つめながら、マルクスは静かに口を開いた。
「執務室に籠って書類と数字にいくら目を通したところで、民の暮らしは正しく見えてこない。残念ながら、私の手元に回ってくる前に、誰かの手が加えられている可能性が捨てきれないからな。こうやって、直接この目で見なくては、わからないものもある」
「立派なお心掛けです。ですが、今の伯爵家の人員はマルクス様の選抜でしょう? 書類を信用してよいのでは?」
「もちろん、部下たちの働きは信用しているさ。でも、だからと言って、まったく全体を顧みらないのは違うだろう。……それにな。こうやって民が楽しそうにしているのを見るとな、私の治世も悪くないんじゃないかと思えるんだ。こういった実感は、紙に書かれた数字じゃ見えてこないものだよ」
「ああ、わかります」
イングリッドは傭兵時代のことを思い出した。依頼主を守り切った時に贈られた感謝の言葉。安堵の表情。それらは全ての苦労を払拭してくれる報酬の一部だった。自分の仕事が誰かの役に立っている。それに直接感じ取ることができる喜びは、貨幣的な報酬だけでは得られない。
「この土地の民は幸せですね。マルクス様のような方に治めてもらって」
それは、心からの思いだった。
「……いえ、幸せなのはわたしもです。屋敷の人たちは皆、わたしをわたしとして差別することなく向き合ってくれていますし、マルクス様にもこうやって気を遣ってもらって、遊びにだって連れ出してくれている。……ただ」
「ただ?」
続きを促すマルクスに、イングリッドは苦笑いを浮かべた。
「グレタさんに怒られそうです。今日こそは子作りをするものだと思っていましたからね。わたしも、彼女も」
「……そうだな」
頬を染めながら、けれど、イングリッドははっきりした声音で聞いた。
「もしかして、ですけど」
「うん」
「初日といい、今回といい、もしかして、マルクス様はわたしと子作りするのを避けておりませんか?」
「……は?」
マルクスが驚きに間抜けな声をあげる。
「伯爵家にはすぐにでも後継者が必要だったはず。婚前交渉も承知済み。それでも、なんだかんだお手付きになられてないのは……やはり、わたしはマルクス様のお好みでないからでしょうか?」
「まさか!」
マルクスは驚いた声を上げ、イングリッドにぐいっと顔を近づけた。視界いっぱいに美しく整った顔が広がり、思わず胸が高鳴る。
「俺にとって、君は魅力的な女性だ。今夜だって、本当はあのまま押し倒したいのを必死に我慢して、こっちを選んだんだぞ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。我ながら鋼の意思だったと思う。君は自分を過小評価しすぎだ。しかも、あんな格好までして……俺だって聖人君子じゃないんだぞ、まったく」
マルクスが照れたように視線を反らした。彼がちゃんと自分を女として意識してくれていることに、イングリッドは少しだけ嬉しくなる。
「今だってそうだ。君、気づいてないだろう。ちょっと酒が入っているせいで、今、すごく艶っぽいんだぞ。頬も赤いし、目がちょっととろんとしているし。誰かの目に触れてしまわないうちに、どこか人が来ないところに連れ込みたいとか、そういう誘惑が常に俺を襲っているんだ」
「さ、さすがに外ではちょっと!?」
「わかっている。そんな真似はしない。しないが、ずっと耐えていることを、まず褒めてほしい」
「は、はい。とても偉いと思います!」
「うむ」
マルクスは鷹揚に頷いた。彼らしからぬ饒舌さから見るに、多少は酔っているようだ。
「それにな、イングリッド。子作りはやろうと思えばいつでもできるが、祭りは今宵だけだ。二人だけの思い出も、ちょっとは欲しいと俺は思っているよ」
「……それもそうですね」
子供を身ごもれば、今のような関係性ではいられないだろう。次期後継者の母親として、跡目を託す父親としての振る舞いが求められる。だからこそ、ただの男女でいられる短い時間を大切にしたい。イングリッドは、彼のその気持ちが嬉しかった。
「じゃあ、次はどこを回りましょうか! せっかくの機会です、マルクス様のお財布を空にしちゃうくらい楽しんじゃいますよ!」
イングリッドはマルクスの手を取って立ち上がった。
いつ当主不在が屋敷の人間にバレるかわからない。楽しめるうちに楽しまなくては。
かくして。伯爵と次期伯爵夫人という看板を下げた二人は、ただの男と女として、ほんのひと時の間、収穫祭で賑わう街の中を練り歩いて行った。
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※次回の更新は5月21日21時を予定しています。




