第24話 褒美の正体
その日の夜。イングリッドは自室の寝台の上で正座をしながら、緊張した面持ちでその時を待っていた。
手が震える。心臓がうるさい。口の中が渇いて、じんわりと汗ばんでくる。……それでも。
(最善は尽くした、と思う)
イングリッドはぎゅっと目を瞑り、数時間前までの行動を思い返す。
身体は湯浴みで念入りに洗い清めた。ムダ毛の処理も完璧。寝化粧もばっちり。グレタが用意してくれた渾身の透け透けの寝巻きも羞恥に耐えて身に着けている。
加えて、その下には……。
『これは極秘に仕入れた情報なのですが。お館様は――紫がお好きのようです』
『む、紫ですか!?』
『信頼のおける筋からの確かな情報でございます。今宵は、妖艶な大人の女性路線で行きましょう』
『一体、誰なんですか、その人は。本当に信用できるんですか?』
『そんなことはどうでもよいのです。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。イングリッド様。この戦、我らの勝ちにございます!』
――勝ちにございます。
――ございます。
――ます。
(勝った!)
かっと目を見開くイングリッド。
(故郷のお父様、お母様。今夜、イングリッドは女になります! どうか、見守っていてください! いや、やっぱり見られると恥ずかしいので見ないでください!)
拳を力強く握り、窓の外の星空に映った父母の幻影に向かって掲げた。自覚がないだけで、かなり平静を欠いている。それを指摘する人間が不在なのが彼女の不幸だった。
その時だ。
控えめなノックが部屋に響いた。
「どうぞ!」
対して、イングリッドは覇気のこもった声で応じた。初日のような恐れはない。今度こそ、妻となるべき女の責務を果たして見せる――!
ところが。
「……なんだ、その格好は?」
扉の向こうから現れたマルクスはイングリッドの姿に怪訝そうな表情を浮かべた。
――こいつ、いまなんて言った?
なんだ、その格好は?
それは、乙女が一世一代の覚悟を決めて臨んだ勝負服に対してのセリフとはとても思えなかった。
しかも、喜ぶでもなく、興奮するでもなく、まるで変なものを見るような眼差しで言われたとあっては――
(最低っ!)
イングリッドは泣きそうな顔でマルクスを睨みつけた。
命の遣り取りの中で生きてきたイングリッドは強靭な精神力を持っているが、それでも、今のマルクスの態度にはさすがに傷つかずにはいられなかった。
武骨な自分にこういう衣装が似合わないことは百も承知。それでも、少しでもマルクスが魅力を感じてくれたり、色気を感じてほしいと思ったから、恥を忍んでこんな格好をしているのに……。何もかもか急にバカらしくなってくる。
そちらが勝手にやって、勝手に期待しただけだと言われればその通りだが――だとしても、その心無い一言に、好感度が滝のように下がっていった。
……ところが。
「イングリッド。まさか、そんな格好で外に出るつもりか? いくら薄暗いと言っても、外出するのにその格好はいささか目のやり場に困る」
「……え? 外出?」
マルクスの口から飛び出た予想外の言葉に、イングリッドは目を白黒させた。
(ま、まさか、外でするの!?)
明後日の方向に推論するイングリッド。それを知ってか知らずか、マルクスは訂正するように続ける。
「お祭りだよ。いま〈シルネオ〉は収穫祭シーズンの真っ只中なんだ」
ああ、とイングリッドは頷いた。そういえば、中庭でグレタとそういう話をしていたことを思い出す。
「〈シルネオ〉の収穫祭はな、三日三晩、夜通しで行うんだ。耳を澄ませてみろ。夜の風にのって、太鼓の音がかすかに聞こえるだろう?」
「……本当だ」
マルクスに倣ってイングリッドは耳を澄ませてみると、確かに遠くで太鼓の音が鼓膜に届いた。心臓の音でかき消されてしまうほどの、かすかな大気の震えが。
「ここに来てから、君はずっと屋敷の中で生活している。もともと町で暮らしていただけに、息も詰まるだろう。淑女教育も頑張っているようだし、たまには外の空気を吸いに、祭りに連れ出してやろうと思ってな」
「ああ、ご褒美ってそういう……」
イングリッドは得心した。
「どんな意味だと思ったんだ?」
「いえ。なんでもないです。なるほど。お祭りですか。しかし、何も夜じゃなくてもいいのでは……」
破廉恥なことを考えていたとは思えないほど常識的なことを言うイングリッドに、マルクスは手を横に振った。
「馬鹿を言うな。昼間の明るいうちに領主が街に出張ってみろ。民草が緊張して、ろくに祭りを楽しめないだろう。それに、二人きり出かけるなんて皆が許してくれない。絶対、護衛を付けろとやかましく言ってくる。これでも〈王国最強〉なのになぁ」
「……もしかして、黙って行く気なんですか? グレタさんにも言わずに?」
「そうだ。お忍びだ」
マルクスの返答に、イングリッドは混乱した。立場がある人間が護衛もつけずに出回るなど非常識にもほどがある。というか、誰にも告げずに屋敷の外に出るなど脱走にも等しい。もし、バレれば蜂の巣をつついたような大騒動になる違いない。
「なんで、そこまでして」
「さっきも言っただろう。俺は君と二人きりで出かけたいんだ。君と一緒にいる時間を、誰にも邪魔されたくないんだよ。たとえ、身内でもな。その時間を作るために、頑張って政務を片付けたんだぞ。本当、間に合ってよかったよ」
――間に合ってよかった。
イングリッドは昼間、中庭でも同じこと言っていたことを思い出す。あれは、こういう意味だったのか。
――この人は、ちゃんと自分を見てくれている。
イングロッドがマルクスのために心を砕いたように、マルクスもまたイングリッドのためにできることをしようとしてくれていた。そのことに気づいたら、ぐっと胸が詰まり、暖かい何かが体中に広がっていく感じがする。
「それとも、君は俺と一緒に出かけるのは嫌か?」
不安そうに顔を曇らせるマルクス。イングリッドは勢いよく首を横に振り、にっこり笑った。
「……いいえ。ちょうどわたしも、外に出たいと思っていたところです。わかりました、夫婦揃ってちょっと悪いことしちゃいましょう!」
かくして。
手早く準備を済ませた二人は、夜間巡回の目を掻い潜って、夜の街へと繰り出していった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
本作を読んで少しでも面白いと思っていただけたなら、
・ブックマークへの追加
・画面下の「☆☆☆☆☆」からポイント評価
・感想の書き込み等
をして応援していただけると、とても励みになります。
※次回の更新は5月19日21時を予定しています。




