第21話 エレーヌ、乱入
「……エレーヌ様。使用中と札を出しておいたはずですが」
グレタが施術の手を止め、エレーヌに向き直った。
「施術部屋は共用でしょ? わたくしが使っても問題ないはずよ」
「仰る通り、問題はございません。ですが、マッサージは緊張を解すのが目的です。設備的に複数人で使えるようにはしていても、安心してリラックスできるよう、施術は一人ずつ行うのが原則です」
主に次ぐ地位の女に対して、グレタは一切物怖じせず非を断じた。
「お前たちも、どうして止めなかったのです。主人を諌めるのも従者の務めだと教えたでしょう?」
侍従長から厳しい視線を向けられ、エレーヌ付きの侍女たちは居心地が悪そうに目を逸らす。見かねたエレーヌが、問いの答えを引き取った。
「……実はね。イングリッドとお話がしたかったの。この屋敷に来てから、あなたのレッスンで忙しそうで、なかなかタイミングが合わなかったから。今ならいいんじゃないかと思って」
エレーヌが苦笑を浮かべる。
「でも、グレタの言う通り、不躾だったわね。機を改めるわ」
「ま、待ってください」
背中を向けようとするエレーヌを、イングリッドが止めた。
「お心遣い、ありがとうございます。そういうことでしたら、是非、ご一緒しましょう」
「……イングリッド様。よろしいのですか?」
「せっかくですから」
心配そうにするグレタに、イングリッドは笑って応えた。
正直、初対面の時の匂わせ発言のせいで、イングリッドはエレーヌにはあまり良い印象を抱いていない。
だからと言って、露骨に態度に表すほど浅はかではないし、あのわずかな遣り取りだけでエレーヌの人となりを完全に理解したと豪語するつもりもない。腹を割って話せば、見えてくるものもあるだろう。
それに、まだ婚約者止まりのイングリッドの代わりに、先代の伯爵夫人として、今もなお屋敷の運営に関わる一切を引き受けてくれている。そんな中で、わざわざ時間を取ってまで関わってくれようとしているのだ。無碍にはできない。
「――ありがとう。それじゃあ、隣、失礼するわね」
晴れやかな表情になったエレーヌは、軽やかな足取りで隣の寝台に一度腰かけると、そのまま背中を上にして寝そべった。
(おお……)
イングリッドの眼が見開いた。横たわった時に、エレーヌの乳房が胸板と寝台の間でふにゅりと形を変えたからだ。板挟み的に圧し潰された乳肉が、逃げ場を求めて胴体の線から溢れ出している。豊満という形容では足りないくらいの視覚的破壊力。
(最初にお会いした時から思っていたことですが、同じ女として格が違いすぎますね……本当にわたしと同じ生き物ですか……?)
すぐそばで妖艶な裸身を晒すエレーヌに、イングリッドは思わず唾を飲んだ。真なる〈貴顕の美〉は同性でさえも魅了してしまう魔力がある。
(こんなのが社交界にはぞろぞろいると思うと、気が滅入りますねぇ)
新政権樹立後に成った新参者もいるだろうが、社交界に参加するような貴族はそれなりの歴史を持った家柄ばかりだ。当然、その身に宿した〈貴顕の美〉もエレーヌ級と考えるのが妥当だろう。
そういった持ち得る者たちに、努力のみでどこまで食らいつけるのか。一抹の不安がよぎる。
「……イングリッドは、屋敷での生活は慣れたかしら?」
側仕えの侍女たちが肢体を磨き始めてしばらくして、エレーヌが口を開いた。
「はい。おかげさまで。すごく快適に過ごさせてもらっています」
「あら。もう慣れたの?」
意外そうな顔のエレーヌに、イングリッドは苦笑を浮かべた。
「仕事であちこち旅していたせいか、新しい環境に順応するのは得意なんです」
「ああ、傭兵をしていたって言っていたわね」
ちらり、とエレーヌがイングリッドの身体を見た。正確には、そこに残った痛々しい傷跡を。
「はい。〈止まり木市〉を拠点にしていましたが、行商の護衛であっちに行き、こっちに行き。昨日は東に進んだかと思えば、今日は南、明日は東と。依頼人の都合に振り回される生活でしたね」
「まあ。大変だったでしょう?」
そう問われ、イングリッドは目を細めた。
大変。確かに、大変だ。護衛を引き受けた以上、命に代えても危険から依頼主を守らなくてはならない。負った傷も、潜った死線も数知れず。そういった歴史は一口には語れない。だから、聞き触りのいい部分だけを口にした。
「……そうですね。大変ではありましたが、あちこちの色んな景色を見られたのは楽しかったですよ」
「……そう」
エレーヌの顔に少しだけ寂しそうな色が浮かんだ。
「……わたくしは、ここに嫁いだばかりの頃は、右も左もわからなかったわ。生家から出たことなどなかったから」
そうだろうな、とイングリッドは思った。
典型的な貴族の女は、結婚するその時まで家から出ることはない。いわゆる、箱入り娘というやつだ。
いくらそのように教育されたところで、生まれた家の中の狭い世界しか知らない女の子が、他家に嫁いだところで、最初は戸惑うばかりだろう。まったく違う環境に馴染めず、辛く、苦しい思いをするに違いない。
「毎日が不安でたまらなかった。でも、そんなわたくしに、クリストフ様はとても良くしてくれたわ。お父上、お母上を亡くしたばかりで、ご自身も悲しかったでしょうに、いつも優しく励ましてくれて……。ああ、この家に嫁いで良かったって、心の底から思ったの」
輝かしい思い出を述懐するように、エレーヌは目を細めた。その表情から、本当に先代夫妻の仲が睦まじかったことが伝わってくる。
「仲の良い夫婦だったのですね」
「そうよ。とっても愛していたわ。本当は最後まで彼のお墓を守っていきたかったのだけれど……残念ながら、彼との間に子供はできなかったからね」
寂し気に呟いたエレーヌに、イングリッドは何も言えなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
本作を読んで少しでも面白いと思っていただけたなら、
・ブックマークへの追加
・画面下の「☆☆☆☆☆」からポイント評価
・感想の書き込み等
をして応援していただけると、とても励みになります。
※次回の更新は5月16日時を予定しています。




