第20話 グレタ式按摩法
「……極楽ぅー。こいつぁ極楽ですよぉー」
完全に蕩け切った声。
ある日の昼下がり。甘い香が焚かれた屋敷の一室で、一糸纏わぬ姿のイングリッドが背中を向けて寝台に横たわっていた。
その小柄ながらも逞しい背中を、精油を絡めたグレタの指が優しく滑っていく。力強く圧すのではなく、筋肉に沿って軽く擦るような手技だ。
「グレタさん、マッサージなんかもできるんですねぇ」
夢心地と言わんばかりの緩み切った声でイングリッド。実際、グレタの手つきは熟達者のそれである。町で同等のサービスを受けようと思えば、それなりの金が要るだろう。それほどの腕前だ。
「侍従長ですから」
「役職は関係ない気がしますねぇ」
「まあ、年の功ですよ。この歳まで生きていれば、何でもそれなりに器用になるものです。……恐れ入りますが、イングリッド様。少し足を広げていただけますか」
「はーい」
イングリッドは指示通りに足を開く。そんなことをすれば色々見えてはいけないものが丸見えになってしまうが、慣れとは恐ろしいもので、イングリッドはグレタ相手に裸を晒しても何も感じなくなっていた。
年の離れた同性ということもあるが、グレタの徹底したプロ意識と仕事ぶりが、イングリッドの信頼を勝ち取った結果だろう。
グレタはイングリッドの右足を曲げ、地面に対して垂直にすると、ふくらはぎを圧迫しながら丹念に擦り始めた。
「あー、気持ちいいー。溶けるー」
ますます脱力するイングリッド。血行が良くなって頬が薄紅色に染まり、みるみるうちに張りと艶を取り戻していく。
淑女教育がスタートしてからというもの、イングリッドは定期的にグレタによるマッサージの施術を受けていた。日々の訓練の疲れを取るという側面もあるが、一番は美容と健康のためだ。
イングリッドは遠からず王都の社交界に参戦する。そこで相対する相手は皆、かつての敵である〈白〉の貴族たちだ。イングリッドが〈紅〉の貴族であると知れれば、間違いなく下に見てくるだろう。
ただでさえ色眼鏡で見られることは確定なのに、伴侶である自分が淑女としての未熟を晒せば、マルクスが掲げる融和政策に亀裂が入りかねない。それを避けるために、グレタの指導の下、イングリッドはこれまで懸命に教育に取り組んできた。
その甲斐あってか経過は順調だ。
所作に関しては、イングリッドにはもともと素養があるためか、グレタの予想よりも遥かに早い段階で勘を取り戻している。まだまだ油断はできないが、このまま続ければ期限までに十分に間に合いそうだった。
しかし、一朝一夕に身につかないものもある。教養。品格。そして、美容だ。
かつて傭兵だったイングリッドは、体に多くの傷を抱えている。彼女の半生を考えればこればかりは仕方のないことだが、かといってそのままというわけにもいかなかった。グレタのようにその傷の価値を理解してくれる人間ばかりではないからだ。
ある程度はドレスのデザインで隠せるとはいえ、やりすぎれば野暮ったく見えてしまうため、安易に布地を増やすことはできない。どうしても露出してしまう部分に関しては化粧で誤魔化すより他ないが、それに頼りすぎれば、やはりネガティブに捉えられるだろう。
なので、残った細かい皮膚トラブルに関しては、根本から手を加えるしかない。
美容に効果がある食事を積極的に摂取したり、マッサージによる血液循環と代謝促進で肌の再生機能を高め、若返らせることで傷の修復を試みるのだ。イングリッドはまだまだうら若き十代の乙女。治癒する可能性は十分にある。
「なんと言いますか……体に溜まっていたものが、すっきり流れ出していっている感じがしますねぇ……」
「そうでしょうとも。マッサージは美容を維持する上で欠かせません。気血が正しく流れるようになれば体内の淀み、手足のむくみが解消されますし、乳腺や大胸筋に刺激を加えれば豊乳効果によって体にメリハリが生まれます」
「メリハリは大事ですが、胸はこれ以上は要らないかなー。それにしても、グレタさんは何でもできるんですね」
「何でもというわけではありませんよ。事実、命の遣り取りであれば、イングリッド様の足元にも及びません」
「そうかもしれませんが、それでも多芸に富んでいる女性は憧れます。よかったら、今度教えてください」
イングリッドの物言いに、グレタは眉を顰めた。
「マッサージを、ですか? それは構いませんが……薔薇の育成といい、マッサージといい、勉強熱心でございますね」
「働かなくても食べていけるんですから、余った時間でスキルを高めるのは当然じゃないですか?」
「それは善い心掛けです。しかし、それで学ぼうとされている技術が職人系ばかりなのは、いささか嘆かわしゅうございますね。労働者根性が染みついている証拠です」
「しょうがないじゃないですか。ついこの間まで労働者だったんですから。正直、伯爵夫人なんかより、女中さんの方が性に合っている気がしますし――あいたぁ!」
急に来た強い指圧にイングリッドが鳴いた。
「イングリッド様は、お館様が見染められた女。それに異を唱えることは、お館様を貶めるのと同義です。冗談でもそういうことを言うのはお止しになってください」
「わ、わかっていますよ。でも、マッサージを覚えたいのは嘘じゃないです。覚えたら、マルクス様にしてあげられるじゃないですか。ほら、最近は政務で忙しいみたいですし、こう、揉んであげたら嬉しいかなとか!」
「……僭越ながら。私としましては、マッサージよりももっと先にするべきことがあるように感じますが?」
「あはは……」
鋭い視線を背中に感じ、イングリッドは脂汗を流す。
結局、イングリッドは一度たりとマルクスと肌を重ねていなかった。
あの夜以降、マルクスがイングリッドの部屋を訪れていないからだ。
先日の土いじりの時に語っていたように、今はちょうど年貢の取り立ての時期。領主としての仕事が多忙を極めており、同じ屋敷に住んでいながら二人は顔を合わすことさえなかった。二人で過ごした時間で言えば、引っ越してきた初日が一番長いくらいだ。完全に機を逸したと言っていい状態だろう。
あの時、勇気を振り絞っていれば……とイングリッドは後悔するが、どれだけ嘆いても時は巻き戻らない。改めて、チャンスが巡って来るのを待つしかなかった。
「……む?」
グレタの眉が跳ね、そのすぐ後、施術部屋の扉が開く音がした。
「おかしいですね。使用中の立札を出しておいたはずですが――」
後ろを振り向いたグレタが息を呑んだ。その反応にただならぬものを感じ、イングリッドも肩越しに背後を見やる。
施術部屋の入り口には裸の女が立っていた。
艶やかな黒髪。雪のように白く、氷のように透明感のある肌。豊満な乳房に引き締まった腰つき。黒曜石のように煌めく瞳には羞恥の色は微塵もなく、むしろ、自慢の肉体を誇示するかのように堂々とした輝きが宿っている。
「……エレーヌ様」
「お邪魔するわね。お隣、いいかしら?」
困惑を色を浮かべるイングリッドに向けて、先代伯爵夫人であるエレーヌはしっとりと微笑んだ。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
本作を読んで少しでも面白いと思っていただけたなら、
・ブックマークへの追加
・画面下の「☆☆☆☆☆」からポイント評価
・感想の書き込み等
をして応援していただけると、とても励みになります。
※次回の更新は5月15日時を予定しています。




