第19話 夢の庭園
イングリッドは野暮ったい作業着を着て、何もなくなった東屋のそばの花壇の手入れをしていた。
ノルダールの家で生活に関わるあらゆることをこなしてきたイングリッドであるが、園芸に関してはほとんど縁がない。食べられもしない植物を育てるのは贅沢そのものだからだ。なので、観賞用植物の世話についてはまったくの素人同然であり、屋敷の庭師から育て方を一から教わる必要があった。
庭師も最初は渋っていた。雇用主であるマルクスの婚約者が土に汚れることに抵抗があったのだ。だからと言って、代わってやることもできない。代わってやれるくらいの仕事量なら、そもそも薔薇園は撤去されていないだろう。
どうしてもと頭を下げ続けるイングリッドに、最終的に庭師は根負けした。あとは彼女自身が教えられたことを実践し、試行錯誤していくかない。
庭師曰く、素人は大苗から始めたほうが良いそうだ。すでにある程度育成が進んでいるので、新苗から育てるよりは枯らすリスクが少ない。加えて、大苗は秋ごろの植え付けるので、今なら時期が合う。
薔薇の苗はさっそく手配してもらった。あとは、届いたらすぐに植え付けできるように、事前に花壇の準備を進めなくてはならない。雑草を抜き、土を耕して、石を取り除く。
ついつい夢中になってしまいそうになるが、名目上はあくまでレッスンの合間の息抜き。優先順位を間違えてはいけない。もし、それが守れないのであれば、禁止されても文句は言えない。
だからこそ、イングリッドは時間が許す限り、目いっぱい花壇に向き合った。
「精が出るな」
秋の涼やかな風が吹いていても、なお汗を滴らせて土仕事をしているイングリッドをのぞき込む影がある。マルクスだ。
「あ。マルクス様」
イングリッドは手を止め、首元のタオルで汗を拭きながら立ち上がった。
「園芸の件、お許しいただきありがとうございます」
「準備に支障がない程度で頼むぞ」
「もちろんです。……ところで、マルクス様はお散歩ですか?」
「政務の息抜きだ」
重い溜め息を吐きながら、マルクスは東屋の椅子に優雅に腰掛けた。美しい顔が、やや精彩を欠いている。疲労が溜まっているようだった。
「我が領地も徴税の時期だからな。どうしても政務が慌ただしくなる。夏のうちに君を見つけられたのは本当に幸運だったよ。この忙しさの中、嫁を探しに抜け出してしまったら、関係各所から非難轟々だ」
「領主、仕事しろって言われるんですね」
「そうだ」
マルクスが苦笑する。
「領地経営は初めてだからな。覚えることも、やることも多い。跡取りとして専門の教育を受けていたとはいえ、兄上は良くやっていたものだ」
「マルクス様は統治に関してはあまり?」
「うん。最低限の教育を受けたのみだ。うちは武闘派の家系だからな。当主以外は騎士になれという方針でね、昔から剣術ばかりだったよ。しかし、〈王国最強〉の肩書など、書類仕事の前では何の役にも立たん」
「書類は斬れませんからね」
「まったくだ。……しかし、イングリッド。どうして薔薇を植えたいなどと? 好きな花なのか?」
マルクスに問われ、イングリッドが暫く考え込んだ。
「……好きというか、憧れが近いかもしれません」
「憧れ?」
「何というか、薔薇は貴族の象徴じゃないですか。貴族のお屋敷には当たり前のように薔薇園があります。ですが、わたしが生まれ育ったノルダールの家は、貧しかったのでそんなものはありませんでした。だから、その……小さい頃の夢だったんですよ。薔薇がある生活っていうのが」
「……それは、気づけなかったな」
イングリッドの言葉を聞いて、マルクスは天を仰いだ。
確かに彼女の言う通り、薔薇は貴族を象徴とする花だ。手間もコストもかかる薔薇園は、貴族にとって自身の経済力を誇示するための一種のステータスである。そのため、どんな家柄であっても大なり小なり薔薇を植える伝統がある。
ところが、イングリッドの生家は貴族でありながら、そのステージに立ってさえいなかった。彼女にとって薔薇とはただ遠くから見るだけの、憧憬を募らせるものだったのかもしれない。
だが、当たり前すぎて大して気にかけてもいなかったマルクスは、単なる人的負担の削減という名目であっさり取り潰してしまった。欲しくても手に入らなかった彼女にとっては、それは酷く無念に思えたのだろう。
「君がそんな風に思っているとは知らなかった。すぐにでも新しい庭師を手配して、薔薇園を再建させよう」
「だ、だめですよ、そんなの!」
マルクスの提案に、イングリッドが泡食ったような顔になった。
「……しかし、素人の君がやっても失敗するかもしれないだろう?」
「そうかもしれませんが、自分の手でやるから楽しいんじゃないですか。たとえ、失敗しても次に生かせばいい。それを繰り返していけば、絶対にできるようになりますから。貴族の娘っ子から傭兵にやってたわたしですよ。大概の困難は乗り越えられる自負があります」
それに、と続ける。
「薔薇の育成技術なんて、チャレンジするだけでお金が飛んでいきます。それが他人のお金でチャレンジできる。失敗しても、わたし的に失うものはない。学びの機会としてこんな良いことありませんよ!」
自信満々にガッツポーズをするイングリッドに、マルクスはきょとんとした。
そして、一瞬の沈黙の後、大きな笑い声をあげる。
「そ、そんなにおかしいですか?」
あまりにもマルクスが高らかに笑うので、居たたまれなくなったイングリッドが半眼で睨みつける。
「はは……いや、なに。相変わらず、君は強かな女だな。そういうところが君らしくあり、私が好ましく思うところだ。ああ。そんな君だから、きっと俺は好きになったんだろうさ」
息をするように飛び出た告白に、イングリッドは思わず赤面した。
「――よし、興が乗った。俺も手伝おう」
マルクスは少年のような笑みを浮かべると、服の袖を捲った。筋肉質で逞しい二の腕が露わになる。
「いえ、そんな。マルクス様のお手を汚すわけには……というか、政務の途中だったのでは?」
イングリッドが慌てて止める。マルクスが身に着けているのは、自分の野良着とは比べ物にならないほどの高級な室内着だ。そんな格好で土いじりなんかして、万が一、シミになったら目も当てられない。
「君だってレッスンの合間しか作業を進められないんだろう? 二人でやれば倍の作業ができるじゃないか」
「そりゃそうですが」
「これでも騎士団勤めだったんだぞ。土いじりの経験くらいある」
「それって濠を掘ったり、土塁を築いたりですよね? 園芸じゃないですよね?」
「似たようなものさ。さあ、道具を貸したまえ」
「こ、こいつぁ、やらせちゃダメな気配がしますよぉ。というか、せめてお召し物を変えて――!」
イングリッドは悲鳴をあげたものの、グレタが呼びに来るまでの間、二人は泥に塗れながら楽しげに花壇の整備に興じた。
◇◆◇◆
「はー、だいぶ進みました!」
その日の夕暮れ。
差し込む夕日に目を細めながら、イングリッドは大きく伸びをした。
実際、マルクスが手伝ってくれたことで、大幅に作業が進んだ。これで、いつ苗が届いてもすぐに植え替えができそうだ。
「おっと。暗くなる前に道具を片付けなくては」
イングリッドが土いじりに使った道具を集めると、すっかり長くなった影をぼんやり眺めながら、屋敷の裏手にある納屋へ向かった。
その途中。頭上で風切り音がした。
イングリッドは条件反射で足を止める。それは、流れ矢に警戒することが日常だった傭兵時代の名残だったのだろう。
一秒も経たずに、すぐ目の前に花瓶が落ちてきた。
すぐ先の地面にぶつかり、ぱりん、と音を立てて高そうな花瓶が割れる。ほんの一歩先。もし、足を止めなかったら直撃していたかもしれない。
イングリッドはすかさず上空に視線を移動。屋敷の二階の窓辺に人影が見えた――ような気がしたが、すぐに窓の向こうに消えてしまったので誰かは確認できない。
使用人の誰かが花瓶の水を替えようとして、手を滑らせて、うっかり落としてしまった? それがたまたま窓の外に放り出された? 果たして、そんなことが起こり得るだろうか。
「……ふうん」
イングリッドは冷めた眼差しで、窓の向こうにいる誰かを睨み続けた。
第二章/了
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※次回の更新は5月14日21時を予定しています。




