第18話 かつての夢
「つ、疲れた……」
池のほとりの東屋で、イングリッドは背もたれにぐったりと体を預けていた。
あれから一時間。普段とは違う姿勢で延々と歩き続けたせいで、さしもの彼女もすっかり疲労困憊している。肉体的というよりは、一つひとつの動作に意識を割き続けたが故の気疲れの方が酷かったが。
(悠々自適に泳いでますねぇ)
池の中を泳ぎ回る、色鮮やかな魚たちに恨みがましい目を向けた。逆恨みも甚だしいが、それほどグレタの指導が苛烈だったことが窺える。
……かつて難なくこなせていたことが、今はできない。前はなんでもなかったことに、今は違和感を覚える。この二年間で自分がどれだけ変わってしまっていたのか痛感してばかりだ。自分で決めた道とはいえ、イングリッドは息が詰まりそうになっていた。
(いえ、負けてはだめよ、イングリッド。この役目はわたしにしかできないことなんですから。ノルダールの家に支援して下さっているマルクス様のためにも、わたしにできることは頑張らないと)
気を入れ直すため、イングリッドは自らの頬を張った。そこへ、席を外していたグレタが戻って来る。
「お疲れ様でございました」
労いの言葉をかけつつ、グレタが茶器の一式を運んできた。
高級感のある白磁の急須と茶器、焼き菓子が盛られた平皿を手際よくテーブルに並べ始める。
漂ってきたふくよかな香りに、思わずイングリッドの興味が動く。
「どうぞ」
「いただきます」
差し出された茶杯を受け取り、一口含むと、芳醇な香りが鼻から抜けた。あまりの爽やかさと旨味にイングリッドはびっくりする。庶民が飲む代用品――花草茶とはまったく違う。本物の茶葉の味と香りだ。
「うわっ! なにこれ、めっちゃ美味っ!」
反射的に飛び出た素の反応に、じろり、とグレタ。
「……大変、美味しゅうございますわ」
おほほ、とイングリッドは取り繕うように笑う。
「茶葉の種類と産地がおわかりですか?」
「いえ。良いものなのはわかりますが、産地までは」
「では、この茶器の作者は?」
「わかるわけないじゃないですか」
「貴婦人の茶会では、そういう話題がぽんぽん飛んできますよ」
「うーん。実に共感しづらい」
ノルダールの家にいた時から嗜好品、贅沢品とはまったく縁がなかった。こういう分野の知識は今も昔もからっきしだ。武器や防具の知識や、美味い飲み屋のことなら《《ばっちこい》》なのだが。
「このあたりはお勉強ですね」
「美味しい勉強ならどんとこいです」
イングリッドが笑顔で焼き菓子を頬張ると、グレタも微笑を浮かべた。
「いくら美味しくとも、加減なさいませ。午後からは伯爵家御用達の仕立屋が参りますので」
「仕立屋というと、社交ドレスの?」
「はい。採寸を行いますので、そのつもりでいてください」
「わかりました」
「ドレスの作成に当たって何度も仮縫いを行います。その期間は体型を一定に保ってください。体型が変わってしまうと、最初からやり直すことになりますから。なので、食べすぎ、飲みすぎは厳禁。今日から徹底的に食事管理をさせていただきますね」
「うげぇ」
食事管理という単語に、イングリッドはめちゃくちゃ嫌そうな顔をした。こういう場合、だいたいは制限の方向で管理されるからだ。食は快楽に直結する。せっかく贅を凝らした料理が味わえる立場なのに、食べる量を減らされては、好ましい顔などできるはずがない。
「イングリッド様。淑女は『うげぇ』などとは申しません。お気をつけください」
「……はぁい」
とはいえ、本格的な社交ドレスは一朝一夕に完成しないものだ。王都への旅立ちが後二ヵ月に迫った今、不摂生して間に合わなかったではマルクスに合わせる顔がない。ここが頑張りどころである。
「ところで、イングリッド様」
「何です?」
「昨晩はいかがでしたか?」
「? いかがとは?」
「子作りでございます」
グレタの大胆な発言に、思わずイングリッドは茶を吹き出しそうになった。
「お館様はちゃんとお部屋に参られたのでしょう? きちんとお務めは果たされましたか?」
「いや、その、それが……」
歯切れの悪い反応を見て察したのだろう。グレタは盛大に溜め息を吐いた。
「すいません。わたしが至らなかったばっかりに……」
「いえ。イングリッド様に非はありません。悪いのはお館様です。女に恥をかかせるなど、腰抜けもいいところ。本当に〈王国最強〉と謳われた剣士なのでしょうか」
「確かに、あんな格好をしたのにスルーされちゃったのは、ちょっと寂しかったですけど……マルクス様はわたしの抱えている不安を見抜いていらっしゃったのです」
「そこを安心させるのが男の甲斐性でございます。こうなったら、一発で悩殺できるように、もう少し過激な衣装を用意するしかございませんね」
「え!? あれよりもっと!?」
昨日の透明度の高い寝巻きでも相当恥ずかしかったのに?
どんな衣装を用意されるかわからず、戦々恐々となったイングリッドは、何とか話題を反らそうと視線を巡らせて、そこで、はたと気づく。
「グ、グレタさん。この一画だけ、なんだか殺風景ですね!?」
イングリッドは東屋の周りの一角を指さした。
中庭の植物は適当に植えているわけではなく、庭師によって計算され尽くした配置で植えられている。ただ、イングリッドたちがいる東屋の一角だけは、どういうわけか不自然に何も植えられていない箇所があった。せっかく、ゆっくりお茶をしながら鑑賞できる絶好のスポットなのに、だ。
「ああ。この一画には、かつて薔薇を植えておりました」
「今は撤去しちゃったんですか?」
「はい。お館様が当主を継ぐにあたって人員整理を行ったのはご存じですね。現在、伯爵家に残った使用人の数では、屋敷を維持するので手一杯の状況です。とはいえ、来賓をお招きすることもありますから、庭園としての体裁は保たなくてはなりません。……となれば、あとは取捨選択。庭師の負担を減らすために、金も手間もかかる薔薇を撤去したのです」
「もったいない。貴族と言ったら薔薇園なのに……」
イングリッドは惜しそうな顔をした。
薔薇という植物はとても繊細で品質管理が難しい。ただ水さえやればいいというわけではなく、人手、技術、資金を惜しげなく次ぎ込んで初めて綺麗に咲く状態を維持できる。一般人が道楽で手を出すにはあまりにもコストがかかりすぎるため、薔薇の庭園を造るのは王侯貴族のみの特権だった。
「……あ」
何かを閃いたのか、イングリッドは手を叩いた。
「薔薇園を撤去したのは、あくまで庭師の負担が理由なんですよね。じゃあ、わたしが勝手にやる分には構いませんか?」
イングリッドの発言に、グレタが眉を顰めた。
「お館様に聞いてみなければ何とも言えません。ですが、そもそもイングリッド様にはまだまだやるべきこと、覚えることが山ほどあります。園芸に費やす時間は……」
「鍛錬は怠りません。ちゃんと休憩時間にやりますから。それに、楽しみがあったほうがやる気が出ると思うのです。だから、お願いします!」
イングリッドが勢い良く頭を下げると、グレタが困ったように腕を組んだ。
「……わかりました。お館様に尋ねてみましょう。それで駄目だった時は、素直に諦めてくださいませ」
「ありがとうございます!」
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※次回の更新は5月13日21時を予定しています。




