第17話 淑女教育
――淑女教育のやり直し。
マルクスからそう告げられても、イングリッドは特段、嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、当然の指摘とさえ思う。
イングリッドも貴族の末席として母親から最低限の淑女教育を受けているが、それもだいぶ昔のことだ。この数年間はその真逆とも言える女傭兵として活動していたこともあって、すっかり錆びついた自覚がある。
今の状態ままでは到底、宮廷で通用するとは思えない。秋の終わりに開催される国家予算集会にイングリッドも同行することが決定しているのならば、それまでに使い物になるレベルまで覚え直す必要がある。
マルクスの訪問の翌朝。朝食を摂ったイングリッドは、グレタの指導の下、さっそく淑女教育に取り組み始めた。
さて、一口に淑女教育とは言うものの、具体的にどういったものが淑女に求められる要素だろう。
淑やかな言葉遣い。上品な振る舞い。季節や状況に応じた衣装の着こなし。歴史や芸術などの文化的な教養。流行を押さえる感性。
もちろん、美容も欠かせない。髪型を整え、化粧の腕を磨き、体型を維持し、肌や手、爪のケアする。生まれ持った容姿はどうしようもなくとも、それを補うこれらは誰にでも取り組める努力の範疇だ。
このように淑女が修めるべきスキルは多岐に渡る。そのどれも一筋縄ではいかないが、中でもイングリッドにとって最難関と言えるのが――
「イングリッド様。その調子です。決して、足を開きませんよ」
「は、はい……!」
――『歩き方』である。
教鞭を手にしたグレタの鋭い視線を向けられながら、イングリッドは季節の花々が植えられた中庭の小道を延々と歩く。
背筋を伸ばし、小股で、楚々と歩を重ねる。その優雅な歩みは、まるで水面を滑る一羽の水鳥のようだ。
……だが。
(ぬ、ぬおお……! 全然進まない! 走りたい! 大股になりたい! ゆっくり過ぎてイライラする!)
その内面は理想の境地からはとても遠かった。
ノルダールの家で暮らしていた時は淑女然とした振る舞いをしていたイングリッドではあるが、傭兵となって戦場を駆け抜ける生活をしているうちに、生き残るための動き方がすっかり骨の髄まで沁み込んでしまった。
戦闘は何も平坦な場所ばかりで発生するとは限らない。ごつごつした岩場やぬかるんだ沼地、苔で滑りやすい河原などの悪路での戦わなければならない事態も、当然起こり得る。
そういった場所で動き回るには、腰を落とし、大股で基底面積をしっかり取って、どっしり構えることが肝要。それが当然になってしまっている今のイングリッドにとって、内股で、音を立てず、半歩ずつ歩く淑女歩きはかなりの意志力を要する行為だった。
(一歩で届く距離をなんで三歩も使わなきゃならないんですか! 昔のわたしはよくこんな歩き方で暮らせていましたね! えらい!)
イングリッドは今にも吹き出しそうになる不平不満を、表情筋の一筋さえも動かさずに懸命に抑え込んだ。もし、表情に出そうものなら、グレタの手にした教鞭が振るわれる。たとえ、婚約者であっても容赦なく叩いてくる。それが教育係の特権と言わんばかりに。
「……良いですか、イングリッド様。これまでのあなた様の暮らしでは、剣の腕さえあれば事足りたかもしれません。見目を気遣わずとも、口調を改めずとも、戦う力さえあれば誰からも文句を言わなかったことでしょう」
粛々と歩くイングリッドの隣で、グレタが言った。
「しかし、これからはそうはいきません。あなた様は、お館様の妻になられる御方。正式に伯爵夫人となった暁には、社交界にも参列する機会が格段に増えます。残念ですが、今のイングリッド様のままでは笑いものの種。お館様、引いてはベルイマン伯爵家が侮られます。そういった評判の下落は、融和政策に反発する者どもがつけ入る隙となるでしょう。〈紅〉の家から娘など娶るからだ、などと言わせないためには、イングリッド様が名実ともに一流の貴婦人として振る舞わなければならないのです」
「はい……!」
「そのためには、早々に淑女の三種の神器を揃えることが必要不可欠。戦士が武器と防具、そして、それらを扱う技術の三つを備えて戦場に臨むように――貴婦人は美貌と教養、そして品格の三つを備えて社交場という戦場に臨みます。この三点が貴婦人の標準装備であり、何一つとして欠かすことはできません」
「はい……!」
「目下、あなた様が身に着けるべきは品格、すなわち所作でございます。たった二ヵ月では付け焼刃もいいところですが、ずぶの素人ではございませんし、体幹がしっかり鍛えられているので、まだ巻き返す可能性は十分にあります。徹底してやっていきますからね」
「はい……!」
つらつらと講釈を垂れるグレタだったが、イングリッドはあまりにも余裕がなさすぎて、さっきから馬鹿の一つ覚えのように『はい』しか答えていない。その時点で優雅には程遠い。まだまだのようですね、グレタは不満そうに首を振った。
「……ところで、イングリッド様。少し先にゴミが落ちていますね。申し訳ありませんが、拾って頂けますか?」
「あ、はい。わかりました。よっこいせ――」
イングリッドが足を止め、身を屈めようとした。そこへ。
「屈まない! ガニ股にならない! 淑女は物を拾わない!」
びしり、と教鞭がイングリッドの肩を打った。
「あいたぁ! 何たる引っ掛け問題! 実に理不尽ですよ、これは!」
打たれた箇所を押さえながら、イングリッドは涙を浮かべて叫んだ。
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※次回の更新は5月12日時を予定しています。




