第16話 初めての夜
梟の鳴き声が窓の外から聞こえる。
世界はすっかり夜の暗闇と静寂に包まれていた。誰も彼もが一日の活動を終了し、寝る準備を始める時間帯。ベルイマンの屋敷の中でなお動く気配があるとすれば、警備と巡回を行う夜勤の使用人くらいのものだろう。
湯浴みを終えたイングリッドも宛がわれた部屋に戻っていた。寝巻きに着替え、寝台に腰かけながら、ぼんやりと天井を見上げている。
備え付けの置き行燈が、寝化粧をした彼女の横顔をうっすらと照らす。寝化粧など随分と久しぶりだ。傭兵として生きてきた二年間は美容に費やす余裕などなかったし、また、その必要もなかった。
だが、これからはそうはいかない。彼女は一人の戦士としてではなく、一人の女としての在り方を求められる。女として生き、女を捨て、そしてまた女に戻る。人生とはかくもままならないものだ。
(……初夜か)
所在なさげに、寝台の上でもじもじと指を絡める。結婚前とはいえ、夫となるべき男の家で過ごす初めての夜だ。さすがのイングリッドもそういうことを意識してしまう。
それに……。
(こんなものを用意するなんて……グレタさん、本気だ……)
イングリッドが身に着けているのはグレタが用意した寝巻きであるが、これがまた、いかにもといったデザインだった。
肩から羽織るようなふんわりとした形状ではあるが、特別な織り方をしているのか、下の肌がうっすらと透けて見える。隠さなければならない部位に限って透明度が高くなっているのは、衣服として致命的な構造的欠陥ではなかろうか。
それに、いくらグレタから太鼓判を押されたところで、自分の身体に目立つ傷があるのは事実だし、日々の鍛錬で引き締まった肉体が普通の女の子のように柔らかいかというと、イングリッドには自信がない。
もし、マルクスがその気にならなかったら――不安で泣きそうになってくる。
すると、控えめに扉を叩く音がした。イングリッドがびくりと肩を震わせる。
「は、はい! どうぞ!」
「――夜分に失礼する」
静かにドアが開かれ、手燭を持ったマルクスが部屋に入って来た。
「マ、マルクス様。こんな夜更けに、ようこそいらっしゃいました……?」
マルクスも湯浴みを済ませてきたのだろう。初めて見る彼の寝巻き姿も相まって、思わず声が上擦ってしまう。
「座っても?」
「ああ、すいません。気が利かず……どうぞ!」
イングリッドが体をよじって半身ほど寝台のスペースを空けると、マルクスがその隣に腰を下ろした。二人分の重みで、ぎしり、と寝台が鳴る。肩が触れ合うか触れあわないかの距離。ほんのりと石鹸の香りが漂ってきて、イングリッドの動悸が速くなる。
「……その寝巻き、な」
「え、あ、はい」
「グレタのやつか?」
「そ、そうです。グレタさんが用意してくださいました」
遠回しに、自分の趣味ではないことを伝える。日頃から、こういうのを身に着けて寝ているような女とは思われたくはなかった。
……いや、どうなのだろう。逆に、そういう女と思ってもらった方が、男は興奮するのだろうか。野盗たちの前で下品な罵詈雑言をのたまえるイングリッドでも、そのあたりの機微を正しく理解できているかと聞かれると自信がない。
「お、お気に召しませんか?」
「いや、そんなことはない。似合っているぞ」
イングリッドが胸を撫でおろす。が、それも束の間。
「……ただ」
「ただ!?」
「まだ初日だ。急かすつもりはない」
言いながら、マルクスは身に纏っている羽織をイングリッドの肩にかけた。
「グレタが急くような真似をして済まないな。あれはあれで、この家の行く末を心配してくれている。私と兄にとっては母親代わりのようなものだからな。亡き父母に代わって、生きているうちに孫の顔を見たいのだろう。許してやってくれ」
「それ、わたしもお風呂で聞きました」
イングリッドが苦笑した。
「でも、じゃあ、何でマルクス様はわたしの部屋に?」
「明日からの方針を伝えておこうと思ってな。イングリッド、この国では、秋の終わりに国家予算集会が開かれているのは知っているな」
「え? ああ、はい」
王国貴族は国王から領地と、それを支配する自治権を与えられる。その代わり、領主が領地を経営して得た収益の一部を王家に対して税として納めるのだ。
徴収した税を納め、王国の資産を決める一年で最も重要な集まりが、国家予算集会である。この時ばかりは宮廷貴族たちだけでなく、地方統括を任されている各伯爵家の当主も代表として召集される。各主要貴族たちが王都に集う社交界シーズンというわけだ。
「集いに際し、私は国王陛下に君を次期伯爵夫人として紹介するつもりだ。そして、君にはそのまま社交界に参加してもらう」
「うげぇ」
イングリッドは露骨に嫌そうな顔をした。
「うげぇ、ではない。これも婚約者としての務めだ。地方貴族として国から領地を賜っている以上、主君に黙って勝手に結婚することはできないからな。陛下への謁見と報告は義務なのだ。まあ、安心しろ。私は王室剣術指南役を務めていたから、今の陛下や王子たちとはそれなりに繋がりがある。悪いようにはならないさ」
「そうかもしれませんけど。宮廷は〈白〉の貴族の総本山。そんなところにわたしを連れて行けばトラブルになるのは明白じゃないですか」
「だからこそだ。私と君は、これからその悪しき風潮と戦っていくのだぞ。デモンストレーションは必要だ。それに、こちらが非公式に事を進めれば、向こうも陰ながら妨害をしてくる。そういうこそこそした邪魔立てのほうが厄介だ」
「ぬーん……」
イングリッドはへの字に唇を曲げて唸った。マルクスの言っていることの理屈はわかる。素晴らしく嫌な予感はするが、これも妻の役目だと割り切るしかない。
「移動する期間も含めれば、出立まではあと二ヵ月ほどしかない。グレタにも既に伝えてあるので、それまでに準備を進めておいてくれ」
マルクスの言葉に、イングリッドは首を傾げる。
「準備、と言いますと?」
「君専用の社交ドレスの作製。それと……」
「それと?」
「――淑女教育のやり直しだ」
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※次回の更新は5月11日21時を予定しています。




