第15話 エレーヌの事情
その日の夜。慣れない給仕を受けながら豪華な夕食を摂った後、イングリッドは一日の締め括りに風呂場へと通された。
マルクスが屋敷を案内してくれた時に一度目にしているが、ベルイマンの屋敷の湯殿は、とにかく広いの一言だった。
大人五人が同時に足を延ばしても浸かっても、なお余裕がある浴槽。
磨き上げられた石材が敷き詰められた壮麗な流し場。計算されつくした位置に置かれた観賞用の彫刻。脱衣所も含めれば、総面積はちょっとした民家一軒分にも及ぶ大浴場だ。
そんな風呂を毎日のように、しかも貸し切りに近い状態で使えるとは、実に豪気なことである。
……それはそれとして。
「あの……お風呂ぐらい一人で入れますって」
イングリッドは当然のように脱衣所に同行してきた自分付きの使用人、グレタ侍従長を困ったような顔で見やった。
入浴道具を携え、濡れないように侍女服の袖を捲ったグレタの姿からは『付き添わせていただきます』という意思が読み取れる。
「イングリッド様の生い立ちを考えればそうでしょう。ですが、これも私の役目でございますので」
「いや、そんなことを言われてもですね」
貴族の女は生まれた時から使用人に囲まれ、常に誰かの視線に晒されて育つ。世話をする人間に対して羞恥心を抱くことなど在り得ず、素肌を晒したところで意にも介さない。
しかし、イングリッドは違う。貴族でありながら平民と変わらない生活を送っていたため、感性はかなり庶民寄りだ。当然、よく知りもしない他人に裸を見られるのはかなり抵抗があった。
「側仕えが同行するのは、単に入浴のお世話をするだけではありません。イングリッド様の身体状況の把握も含まれております。いわば健康管理の一環ですね。そういうお立場になられるのですから、早めに慣れておいてください」
だが、グレタは頑として譲らなかった。
だが、彼女の言うことももっともである。皮膚の状態というものは、案外、自分ではわからないもの。誰かに継続的に観察してもらうことで、未然に防げる病気もあるだろう。
それに、伯爵家へ嫁ぐことを決めたのは自分の意思だ。我が儘は言えない。郷に入りては郷に従え――そう胸の内で唱え、イングリッドは観念してグレタに身を任せることにした。
「わかりました。じゃあ、お願いします」
「はい。それでは失礼します。……まあ」
イングリッドの衣服の帯を解き始めたグレタは、露わになった裸体に目を見開いた。
彼女の身体に、たくさんの傷跡があったからだ。
「……傷だらけでしょ? お恥ずかしい」
視線を感じて、反射的にイングリッドは腕を交差させた。
傭兵として生きてきた二年間、怪我をしない日はなかった。訓練、あるいは実戦で、毎日のように生傷をこさえたものだ。中には一生消えない傷跡もある。醜い身体をしていると自覚してはいるつもりだが、エレーヌのような美人を見た後だと一層、負い目を感じてしまう。
「……頑張って来られたのですね」
ぽつり、とグレタが言った。
「え?」
「お館様より伺っております。生家のノルダール男爵家は、貴族であるにも関わらず貴族扱いされなかった。しかし、イングリッド様はそのような逆境にもめげず、一人で身を立てることを選ばれたのだと。この傷は、あなた様が今日まで頑張って来られた証拠。決して恥ずべきものなどではありません」
それは憐れみなどではなかった。自分を貶めるな。それだけのことをやってきただから、もっと誇らしくしていい。負い目を感じるなど、頑張った自分に失礼だ――嗜めるようなグレタの言葉には、そんな意図が含まれているように感じた。
その厳しくも優しい言葉に、イングリッドは胸が詰まりそうになる。
「ありがとうございます。ふふ、グレタさんって何だかお母さんみたいですね」
「長年、母のような仕事をしておりますから」
グレタが薄く笑みを浮かべる。
「そっか。グレタさんは乳母を務めていたと仰っていましたね」
「はい。先々代の奥方様――お館様の御母堂はあまり乳の出がよろしくありませんでした。そこで、ちょうど子を産んだばかりの私が乳母の役を仰せつかったのです。先代当主であるクリストフ様やマルクス様は、まあ、我が子と同じくらい可愛がったものですよ」
「マルクス様のご両親はすでに亡くなられていると聞いていますが」
「ええ。もう四年前になりますか。政務中の馬車の転覆事故でした。旦那様と奥様が亡くなられた後、すぐに長兄のクリストフ様が爵位を継承され、エレーヌ様とご結婚されましたが、今年の春に病没。血の繋がりがないとはいえ、私が乳を与えた子が、私より早くにこの世を去っていくのは、ただただ無念でございます」
悲劇を語るグレタは痛ましそうに目を伏せた。しかし、それも一瞬。すぐに鋭い眼光を取り戻す。
「ですので、イングリッド様には頑張って頂かないといけません」
「が、頑張るって何を」
「もちろん、ナニでございます」
ぐっとグレタは親指を立てた。真顔で。
「クリストフ様がエレーヌ様一筋で側室を作らなかったばっかりに、只今、伯爵家は直系断絶の危機でございます。それを知っていながら、マルクス様も同様に側室は作らないと仰っていました。それは融和政策の遂行と、嫁いでくださったイングリッド様の立場を守るためであります。申し訳ありませんが、イングリッド様にはそれ相応の期待がかかっているのです。善は急げ。さっそく今夜から励むためにも、まずはお体を清めなさいませ」
グレタから物凄い圧を感じ、イングリッドは思わずたじろいだ。
確かに、事情は理解しているし、婚前交渉も了承してはいるが、まだ屋敷にやってきて一日目だ。そんな急がなくても――と思ったところで、ふと気づく。
「グレタさん。エレーヌ様についてお聞きしたいのですが」
「はい。何でございましょう?」
「エレーヌ様を、そのままマルクス様の妻に宛がうっていう話は出てこなかったんですか?」
イングリッドが言っているのは、貴族社会での習慣のことである。
もし、妻との間に子ができる前に当主が没した場合、次に当主となる者が未婚で、許嫁などもいないのであれば、前当主の妻をそのまま宛がうことは珍しくない。個人の恋愛関係ではなく、家同士の繋がりが本質の、貴族の婚姻ならではの処遇だ。
無論、年齢だったり、本人の意向だったりもあるため、必ずしもそういう対応をするわけではないが――エレーヌを見る限り、そういう話が出る可能性は十分にあると感じた。
「もちろん、ありました。むしろ、先代がお亡くなりになられた当初は、そういう流れになると誰もが予想しておりましたよ」
「……やっぱり、そうですよね」
「はい。しかし、お館様が融和政策を優先されたため、お流れとなりました。エレーヌ様の生家であるジュグラリス家は〈白〉の派閥ですから。エレーヌ様をそのまま妻とすることは何の益もございません」
「……エレーヌ様にとっては酷な話ですね」
エレーヌは、イングリッドとは違う。正真正銘の貴族の令嬢だ。貴族の女として政略結婚を望まれ、そうなるよう育ち、実際に務めを果たしてきた。
にもかかわらず、嫁いだ先で夫に先立たれる不幸に見舞われた上に、二人の間にはついぞ子供ができなかった。嫁ぎ先とを繋ぎ止めるものは何もなく、追い打ちをかけるように、新当主は自分を生家へと戻そうとしている。その仕打ちを、彼女はどう思っているのだろうか。
「かもしれません。ですが、エレーヌ様は離縁をご理解いただいておりますし、義理のご両親へも十分な離縁金はお渡しする方向で話がついています」
「そうかもしれませんが……」
イングリッドの語尾が濁る。彼女には一抹の予感があったのだ。エレーヌは離縁を納得していない。そんな予感が。
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※次回の更新は5月10日21時を予定しています。




