第14話 兄嫁
案内を買って出たマルクスと並んで、イングリッドは長い廊下を歩いていた。
ベルイマン伯爵家の屋敷は、玄関ロビーを中心に、二階建ての棟が東西に分かれているだけのシンプルな構造になっている。
まずはイングリッドの部屋が用意されてある西棟を案内するということで、そこへ向かっている最中だ。
「それにしても、あんな大勢の使用人にお出迎えされたの、生まれて初めてですよ」
並んで歩くマルクスに、イングリッドは苦笑した。
使用人一人雇えないほど困窮していたノルダールの実家で過ごした日々を思えば、あれは本当に自分の生活が一変したのだと感じた瞬間だった。
「伯爵家には、だいたいどれくらいの使用人がいるのですか?」
「おおよそ五十だな」
「五十!」
はえー、と間抜けな声を上げるイングリッドとは対照的に、マルクスは涼し気な顔で続ける。
「私に代替わりする際に大幅に人員削減を行ったのだ。昔はもっと多かったぞ。今では随分と減ったが、屋敷の維持、運営は問題ないだろう」
「人員削減って……経済的なものですか?」
「いや、派閥だ」
マルクスの言葉には、やや険の色が滲んでいた。
「見合いの席でも言ったが、伯爵家も一枚岩ではなかった。私の政策に異を唱える親族もいたし、そちらに与した使用人もいる。そういうのをな――」
マルクスは己の喉首に寝せた掌を持ってくると、空を切るように真横へスライドさせた。
「こう、スパッと」
「そ、それはかなりの荒療治だったのでは?」
イングリッドは眉を顰めた。
屋敷には、老使用人のグレタのように、マルクスが生まれる前から身を粉にして働いてきた者たちもいたはずだ。それを、考え方の違いだけで解雇するのは、いささか横暴のように思える。
「イングリッド。何かを変えるとは、そういうことだ」
嗜めるようにマルクスは言った。
「すべての人間が分かり合えるなんていうのが幻想だよ。話し合いでは解決できないこともある。それでも何か変えようと思えば、それなりの痛みを伴わねばならない。それに、新当主の打ち出した方針に対して、連中はただ反対するばかりで代案の一つも出してこなかった。結局のところ、保守的な年寄りどもが地位と権力を失いたくないばかりに反発しているだけだ。己の無能を棚に上げてな」
マルクスにしては珍しく感情がこもった物言いだった。よほど腹に据えた寝たのだろう、というのが伝わってくる。
「騎士団時代もそうだった。どう考えても部隊の運用に不適格な人材が、親の七光りで無理くり在籍しているのだ。私が隊を任される身分になって部隊の再編成を行った際、そういう連中を全員まとめて異動させてやったが、上から随分と顰蹙を買ったよ。まあ、戦果で黙らせたがね」
イングリッドの記憶に引っかかるものがあった。敵にも味方にも成り得る騎士団の噂は、傭兵界隈にもよく流れてくる。
そこで聞いた話では、騎士団時代のマルクスは個人の武勇だけでなく、指揮官としても優秀だったが、そんな彼の配下の騎士たちもまた粒揃いの精鋭だったという。
マルクスは部隊を構成する人員をとにかく厳選した。実力さえあれば出自は不問。逆に、結果を出せなければ、どんな家柄の者だろうと相応の立場に落とすか、別の隊に移籍させたのだ。
もちろん文句も山ほど出たが、マルクス自身の実力と伯爵家の直系という血の威信の前には何の障害にもなりはしない。そうして、完成した高品質な部隊を最強の武人が指揮する。これが弱いわけがなかった。
かくして、その功績と個人の武勇が国王にも認められ、王室の剣術指南役に推挙される栄誉を得ることになったのだが――過激とも思える実力主義は、今にして思えば、彼の死がそうさせたに違いない。
「……口幅ったいかもしれませんが、排斥するばかりの沙汰では、いずれ家臣たちに不満が溜まっていきそうですが……」
「言わんとすることはわかる。だが、そうでもしなければ、〈紅〉の血筋から嫁など取れん。危険すぎるからな」
「あ、そうか」
はた、とイングリッドが得心した。
もし、屋敷の中に、マルクスの政策に反抗するものが一人でも混ざっていれば、事故に見せかけて邪魔者を排除するなど容易いことだ。食事に毒を混ぜてもよし。寝込みを襲ってもよし。いくらでも方法はある。その危険を回避するために、マルクスは徹底的に残す人選を行ったのだ。
無論、何かあっても対処できるだけの腕と経験があると認められたからこそ、イングリッドが結婚相手に選ばれたのは事実だ。しかし、それでも用心するに越したことはない。融和政策に賭けるマルクスの本気具合が伺える。
「私が爵位を継承してから、すぐに内部改革を行った。この屋敷に住んでいる直系筋は、もう私だけだ。先代当主である兄はもちろん、祖父母も父母も、とうの昔にこの世を去っている。反対派の親戚筋は全員屋敷から追い出した。今の伯爵家には、私の政策を支持してくれている者を中心に構成されている。だから、安心して生活してくれて構わない」
「屋敷に残っている親戚筋の方はどれだけいるんですか?」
「そうだな。食事の時にでも紹介しよう――おっと、ここだ」
マルクスは西棟二階の角部屋の前で足を止めた。
西棟は、主に公務に関わる用途の機能が集中した棟だ。来賓を受け入れるための応接間。食事会や舞踏会などの催し物で用いられる広間。そして、招いた客が寝泊まりするための客間。目の前の部屋は、その一つだった。
扉を開けると、イングリッドは感嘆の声を漏らす。大きな寝具。テーブル。クローゼット。ずらりと並んだ格式ある調度品。人間が一人暮らすには十分な――それこそ、ちょっとした家にも等しい広さと設備が揃った贅沢な空間だ。
「ここが君の寝室だ。当面はここで過ごしてもらうことになる。……客間を宛がったのは申し訳ないとは思うが、どうか許してほしい」
婚姻の儀を済ませていないイングリッドは、まだ伯爵家の正式な一員ではない。婚約者だとしても、あくまで来賓。お客様だ。マルクスの気持ちはどうであれ、対応もそれ相応なものにせざるを得ない。
「とんでもない! めちゃくちゃ立派な内装じゃないですか!」
申し訳なさそうなマルクスとは裏腹に、イングリッドは満面の笑顔を浮かべた。傭兵時代に〈止まり木市〉で借りていた安宿の部屋とは比べ物にならない豪華な部屋だ。感謝こそすれ、文句を言えるほど裕福な暮らしはしていない。
「本当にこんな豪華な部屋を私一人で使っちゃっていいんですか!?」
「ああ、構わない。自由に使ってくれ。……では、次は東棟を案内しようか」
「はい。西棟は公務で使うところと聞きましたが、東棟は?」
「そっちは生活機能の中枢だな。要は、当主とその家族が暮らす棟だ。いずれは君の寝室もそちらに移す」
客間でこの豪華さだ。伯爵夫妻の寝室は果たしてどれほど贅沢な造りになっているのだろう。我ながら現金だと思いながらも、イングリッドは伯爵夫人になって己の姿を夢想してしまう。
そこで、ふと、ある光景に辿り着いた。
(……夫婦の寝室ってことは……結婚したら、この美男子と同衾するってことか! それも毎日! 何それ、めちゃくちゃ恥ずかしいんですけど!?)
もし、イングリッドの頭の中を覗けたならば、誰もが『何を当たり前のことを』と呆れ果てて物も言えなくなるだろう。
(いや! それ以前に婚前交渉を了承しているんでした! マルクス様の部屋に招かれるのかな!? それとも、この部屋でやるのかな!? というか、いつごろ!?)
「……何か?」
急にじっと見つめてきたイングリッドに、訝しむような視線を向けるマルクス。
「い、いえ。具体的には、いつごろになりそうです? 心構えだけでもしておきたいなーと。あはは……」
「ん? 先代の一周忌は来年の春。婚姻の儀はそれ以降だ。部屋を移すとしたら、だいたい半年後になるが……言わなかったか?」
「あ、そっちか」
「は?」
「いえ、何も。ごほん」
イングリッドは咳払いをして、不埒な妄想をした己を切り替える。
「しかし……半年後、ですか」
「すまんな。こればかりは早めるわけにはいかないのだ」
「いえ、そうではなく。マルクス様が爵位を継承されてからまだ半年しか経っていないんだなと思って。たった半年のうちに、伯爵としての仕事を引き継いで、組織の内部を改革して、結婚相手も探して……激動と呼ぶに相応しかったのでは?」
尋ねられ、マルクスが目を細める。
「そうだな……まさに人生の転換期だった。だが、かねてから胸に抱いていた宿願も果たす千載一遇の好機を得られた喜びに比べれば、その程度の苦労など何でもないさ。それに、一番の難関だった花嫁候補が見つかったからな。しかも、これ以上ない最高の結婚相手が。それさえクリアしてしまえば、あとはどうとでもできる」
「……褒めすぎですよ」
「本当のことさ」
マルクスは真摯な口調で言った。だからこそ、余計にむず痒くなる。
「さあ、次へ行こうか」
マルクスに促され、イングリッドは廊下に出た。長い廊下をしばらく進んでいると、曲がり角の向こうから侍女を連れた女性が現れた。
(……うわっ)
イングリッドは思わず心の中で驚きの声を上げた。現れたのが、目が覚めるような美人だったからだ。
白いドレスを纏った妙齢の婦人。年齢は二十代前半だろうか。上品に纏め上げた艶やかな黒髪。黒曜石のように輝く切れ長の瞳。唇に引いた朱が、浮き立つような雪色の肌と相まって鮮やかに際立っている。
体つきもまるで彫刻のようだった。女性にしては高い背丈。蜂を思わせるくびれた腰つきに、すらりと伸びた長く細い脚。よほど自信があるのか、纏ったドレスの胸元は大胆にカットされ、豊かな膨らみと深い谷間を見せつけるようにおもむろに晒している。
露出度は高いが、それでいて娼婦めいた下品な扇情さは微塵も感じなかった。それはきっと、彼女が己の武器を自覚し、誇りを持っているからだ。血に約束された造形美だけに頼らず、常に己を磨き続けて手に入れた真なる美貌。マルクスと同じ、貴族の体現者だ。自分のようなできそこないとはまるで違う。
「――あら、アル」
たおやかに女は微笑んだ。外見通りの、鈴が鳴るような綺麗な声だった。
「義姉上」
「ちょうどあなたを探していたのよ。会えてよかったわ。……こちらのお嬢さんは?」
艶やかな漆黒の瞳がイングリッドを捉える。まるで、迷い込んだ子猫を見つけたような輝きを秘めた視線に、イングリッドは思わずたじろぐ。
「先日の親族会議でも報告しました、私の婚約者でございます。本日より、この屋敷で生活いたしますので、案内しておりました」
「――ああ。そういえば今日だったわね。いけない、すっかり忘れていたわ」
美女は手にした扇子で口元を覆い、上品に笑った。
「あ、あの、マルクス様。こちらの方は?」
「後で紹介しようと思ったが、これも機会だろう。彼女はエレーヌ。先代……私の兄の妻に当たる方だ」
「先代の……伯爵夫人……」
「初めまして、お嬢さん。わたくしはエレーヌ。先代伯爵夫人よ」
「ご、ご挨拶が遅れました。イングリッド・ノルダールです。今日からよろしくお願いします……!」
「ええ。よろしくね、イングリッド」
エレーヌは濡れた花のようにしっとりと微笑んだ。女のイングリッドでさえ、とろけてしまいそうな美しい笑みだった。
だが、それも一瞬。エレーヌはあっさり視線を外した。
「……話は変わるけど、アル。屋敷の帳簿なのだけど、先月の数字がちょっと曖昧な箇所を見つけたの。あとで時間を取ってほしいのだけれど、いいかしら?」
「今は案内の途中ですので、後ほど伺いましょう。……ですが、義姉上。そろそろ後任に任せてはいかがですか。義姉上も、あと半年もすれば生家に戻られる身なのですから」
(生家に戻る……そうか。そうですよね)
先代当主とエレーヌとの間に子はいなかった。だからこそ、次男であるマルクスが爵位を継承したのだ。夫を失い、子もいない彼女をベルイマン伯爵家が留める必要性はない。先代当主の一周忌が終わるまでは屋敷に残るにしても、いずれは去っていくのだろう。
「ありがとう。でも、この家を去る最後の日まで、私は伯爵家には尽くすつもりよ。それじゃあ、また後で」
エレーヌは寂し気な笑みを浮かべると、側付きの使用人を引き連れて優雅に去っていった。
(……アル、か)
その後ろ姿を眺めながら、イングリッドは複雑そうに眉を顰める。
アルとは、マルクスの愛称なのだろう。どこがどう転じてマルクスがアルになったかわからないが――何にせよ、妻になる女の前で、夫になる男をこれ見よがしに愛称で呼ぶとは、エレーヌがマルクスとの関係の深さを、イングリッドに仄めかしているのは明白だ。
その意図に気づいたからこそ、彼女はあの場で愛称の由来を聞かなかった。聞けば教えてくれるだろうが、その代わり、エレーヌは優越感に浸った満面の笑みを浮かべたに違いない。
その時点で、イングリッドが下に見られることは確実だ。そういう見え透いたマウントの取り合いはスルーするのが一番である。
しかし、まさか初対面のイングリッドにそういう態度を取って来るとは――
(……もしかして。わたしって、エレーヌ様から歓迎されていませんね?)
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※次回の更新は5月9日21時を予定しています。




