第13話 ベルイマン伯爵家
ノルダールの家を出発して一週間。
旅路は順調を極め、イングリッドを乗せた馬車はトラブルらしいトラブルに遭遇することないままにモリスト地方に入った。
馬車の窓からは豊かな森と山、そして肥沃な田園地帯の広がりが見える。特に秋の収穫を間近に控え、重々しく実った穂をたっぷりと蓄える稲田が地平線まで続く眺めは、まるで大地に金糸の絨毯を敷き詰めたかのような壮大な美しさだ。
(……ここが、マルクス様の生まれた土地かぁ。うちも辺境っちゃ辺境でしたけど、なんというか、こっち側はちょっと違いますね)
この地の歴史は王家にも匹敵するほど古い。七十年前の新政権樹立以前――貴族の勢力が入れ替わる前から、地方一帯の支配者として君臨し続ける古豪だ。華やかさや真新しさとは無縁だが、由緒の正しさと地力の高さが伺える。
さらに街道を進むと、大きな市壁に囲まれた町が見えてきた。モリスト地方の中核都市〈シルネオ〉である。
そのあまりのでかさにイングリッドは仰天した。かつての拠点である〈止まり木市〉とは規模がまるで違う。同じ都市という括りでも、あちらはあくまで中継地でしかなかった――そう思い知らされた気分だ。
市壁を越え、〈シルネオ〉の街路をしばらく進むと、小高い丘の上に座す屋敷が見えてくる。イングリッドの嫁ぎ先。ベルイマン伯爵家の邸宅だ。
(うひゃー、こっちもでかい)
そのあまりの巨大さにイングリッドは仰天する。ノルダールの屋敷も庶民の家に比べれば大きい方だが、まるで話にならない。例えるなら、牛舎と犬小屋だ。
そうこうしているうちに、馬車が屋敷の正門前に停まった。
従者に促され、下車したイングリッドはまたも仰天する。正門から玄関まで続く表通路に、使用人たちがずらりと居並んでいたからだ。
「「「いらっしゃいませ」」」
異口同音。訓練された兵士のような一体感で使用人たちは一斉に頭を垂れた。
思わず、イングリッドの肩がびくりと跳ねる。生まれた年数と同じだけ貧乏貴族をやって来た自分が、まるで本物の貴族のように出迎えられる日が来るとは誰が想像しただろう。
イングリッドは頭を下げる使用人たちに恐縮しながら玄関まで歩を進め、開けられた入り口から屋敷の中に足を踏み入れた。
「よく来たな」
そんな言葉とともに、見知った美貌がイングリッドを出迎えた。
屋敷の主であるマルクスだ。
見合いの場で見せた正装ではなく、ホームということもあってか落ち着いた色味の私服姿。さりげなく着てはいるが、布地の光沢を見れば相当な高級品だとわかる。イングリッドの傭兵の稼ぎ何回分だろうか。これが伯爵級のカジュアル。これまでの自分の常識とは一線を画す世界に迷い込んでしまったようだ。
だが、今日からはそれが日常になる。イングリッドは改めて気を持ち直した。
「傭兵仲間に挨拶は済ませてきたか?」
「はい。これからよろしくお願いします」
「うむ。ようこそ、ベルイマン伯爵家へ。今日からここが、君の家だ。……もっとも、まだ夫人とは呼んでやれんが」
すまなそうにマルクス。正式な結婚は、あくまで喪が明けてからである。それまでは婚約者以上の立場にはなれない。だが、それはイングリッドも承知の上だ。
すると、マルクスの傍に控えていた初老の侍女が一歩前へ出た。
年齢は四、五十くらいだろうか。きっちりと結われた清潔感のあるグレーの頭髪。一分の乱れもなく着こなした侍女服。ぴしっと伸びた背筋に、思わずこちらも姿勢を正したくなる。厳しくも張りのある老婦人という印象。
「紹介しよう。今日からイングリッド付きの使用人になる。グレタという」
マルクスから促され、グレタと呼ばれた初老の使用人が深々とお辞儀をした。
「屋敷で侍従長を務めております、グレタと申します。本日よりイングリッド様の身の回りのお世話をさせていただきます。どうぞ、よろしくお願いいたします」
イングリッドが驚く。
「わ、わたしの側仕え? 侍従長が直々に?」
「イングリッド様は、いずれこの屋敷の女主人になられる御方ですから」
さらり、とグレタ。
マルクスの妻になると言うことは、こういう立場になるということなのだと言外に言われている――ような気がした。
「グレタは乳母も務めたこともある古株だ。この屋敷のことを最も知る人物の一人と言っていいだろう。信頼していい」
「御付きのメイドさんなんて、貴族みたい」
「……ノルダール男爵家も貴族かと存じておりますが」
「あ、うち、使用人とか、そういうの雇う余裕がなくて……」
「……なるほど。となると、次期伯爵夫人として、相応の振る舞い方を身に着けてもらわねばなりませんね」
値踏みするような視線を向けられ、イングリッドが気後れする。
マルクスが掲げる政策があってこそ実現したものの、本来であればイングリッドが結婚相手になるなどあり得ない話だ。
家格や血筋はもちろんだが、まず淑女としての教養が足りていない。彼女も一応、貴族の末席だ。淑女としての嗜みは母親から伝授されている。しかし、それはあくまで最低限。伯爵夫人として求められているレベルには遠く及ばない。
政策的な理由で実現したあり得ない結婚であろうと、妻を引き受ける以上は、役者不足のままではいられないし、いさせない。グレタの鋭い眼光がそう告げている――ようにイングリッドは感じた。
そんなグレタを見て、マルクスが苦笑いする。
「それはおいおいで頼む。イングリッドはまだ屋敷に到着したばかりだ。ここでの生活を学ぶためにも、まずは長旅の疲れを癒してもらう。そのつもりで頼むぞ」
「承知しました」
グレタが引き下がり、イングリッドは内心でほっとする。
「それでは、屋敷を案内しよう。もうここは君の家だ。早く慣れてもらわなければならないからな」
「え、閣下が直々にですか?」
きょとん、とイングリッドが目を瞬かせる。
「そうだが?」
至極当然とばかりにマルクス。
「えっと、その……政務がおありでしょう? わたしの相手でお手を煩わせるわけにもいきません。それこそグレタさんに案内してもらいますよ」
マルクスが拍子抜けた顔をする。なんというか、こう、おやつを楽しみにしていた飼い犬が『やっぱりなし』と言われた時のような。
「……イングリッド様」
見かねたグレタが歩み寄り、ひっそりと耳打ちをする。
「お館様は、イングリッド様がお越しになるのを心待ちにしておりました。お屋敷を直々にご案内して差し上げるために、数日前から前倒しで仕事を片付け、時間を設けておいでなのです。どうか、その心意気を組んでやってください」
「……まあ」
イングリッドは素直に驚いた。
モリスト地方一円の統括者であり、宮廷や各配下の領主たちとの折衝に追われる多忙な伯爵位にある男が、婚約者に屋敷の中を案内するためだけに時間を作った。
それは……何とも可愛いところがあるではないか。
「グレタ」
聞こえていたのか、マルクスは半眼で物申す。
「余計なことを言うな。減俸するぞ」
「お館様。それは職権乱用というものです。それに、稽古場ならばいざ知らず、この屋敷の中で私に勝てるとでも?」
グレタは主に対して臆せずに言った。
「減俸。解雇。大いに結構。しかし、それと同時に、お館様の幼き日のありとあらゆる醜聞が明るみになることもお忘れなく」
「厄介な年寄りめ」
「厄介ですよ。だからこそ、年寄りは敬っておくに限るのです」
(……この人、強いなぁ)
苦虫を嚙み潰したような顔をするマルクスに、涼し気なグレタ。ただの虚勢ではないだろう。伯爵家に対して、それだけの貢献をしてきたという自負が伺える。厳しい印象もあるにはあるが、イングリッドはグレタに対して好ましい感情を抱いた。歳を取ったら、こういうババアになろう。そう思うほどに。
「……まあ、そういうわけだ。スマートに決めようと思ったのだが、台無しだ。とはいえ、せっかく作った時間がもったいないから、どうか私に案内させてくれないか」
イングリッドは吹き出しそうになるのを堪えて、にっこり微笑んだ。
「じゃあ、よろしくお願いしますね」
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※次回の更新は5月8日21時を予定しています。




