第9話 彼の真意
「もう十年ほど前になる。王国騎士団に入団したばかりの私は、そこで一人の騎士と出会った」
思い出を噛みしめるように、マルクスは穏やかな口調で語り出した。
「優れた才に驕らず、努力を欠かさず、身分の上下に関わらず敬意をもって接し、よく国のために尽くしておられる騎士だった。ベルイマンこそ真の兵などと言われてはいるが、私などは彼こそがよほど模範の騎士足り得ると思ったものだ」
その騎士への深い敬愛に満ちた誇らしげな口ぶり。〈王国最強〉と謳われる剣士にそこまで言わせるなんて、いったいどのような人物なのだろう。扉の向こうで聞き耳を立てているイングリッドの興味がぐっと引き込まれる。
「閣下がそこまで仰られるとは、並々ならぬ御方だったのですな。さぞや高名な騎士だったのでございましょう」
「おそらく、名を挙げても分からないだろう。彼は無名のまま終わった。騎士団の中であればともかく、広く世間に知れ渡るほどの目立った功績は挙げていない……ということになっているからな」
「もしや、その御方は……」
「そうだ。〈紅〉の末裔だ。卿たちと同じくな」
ノルダール卿が息を呑む音が聞こえ、イングリッドも驚きに目を見開いた。
その騎士に対する扱いは不遇の一言だったという。重要な局面では、先祖のように裏切るかもしれないと後方へ回され、手柄を立てる機会を奪われた。そのくせ、犠牲を強いるような危険な作戦では、その実力故に真っ先に死地に送りこまれる。体のいい使い捨ての駒だった。
そんな扱いをされても、彼は腐らなかった。騎士が忠誠を誓うべきは王。守るべきは国と民。周囲の評価など気にせず、彼は騎士の道を貫いて戦場を駆けたのだ。
その言葉を境に、マルクスの眉間に深い皺が寄った。
「そんな彼の優秀さを妬み、やがて自分の地位を脅かすと考えた者たちが、権力を笠に理不尽な命令を下した。彼は困難な戦地へと向かわされ、そのままあっけなく死んだ。あまりにも……あまりにも無念な最期だった」
その声に滲む苦渋が扉越しにも伝わってきて、イングリッドは胸が痛くなった。
自分と同じ血が流れているその騎士は、帰って来れないかもしれない戦地に向かう途中で何を考えていたのだろう。何を思っただろう。己の出自を恨んだのだろうか。それとも、その要因を作った〈白〉の貴族たちを呪ったのだろうか。
いや、きっと違う。もし、そうだとしたら逃げればいい。イングリッドと同じように、生まれに左右されない道を模索すればいい。それでも、彼が戦場での死を選んだのは――マルクスの言うように真の騎士だったからだろう。
「彼のような高潔な騎士がむざむざと死ぬようなことがあってはならない。ましてや、特定の勢力の既得権益のためだけに使い潰されるなどもってのほかだ。だが、当時の私には力がなかった。〈王国最強〉などと謳われても、所詮はただの人間。風潮一つ断ち斬ることができないのが現実だ」
マルクスは自嘲気味に笑った。
伯爵家の出身とはいえ所詮は次男に過ぎない。
王室剣術指南役を務めたといっても、それは本質的には習い事の教師でしかない。
立場と権力を持たない彼が、宮廷の政治に口を出せるわけもなく、心の底から敬愛する騎士を死に追いやった者たちの横暴を、理不尽を、ただただ見て見ぬふりをすることしかできなかった。
「だが、数年後。我が兄が逝去して、私が伯爵家を継ぐことになった。兄の死は悲しかったが、同時に、これが天命とも思ったよ。見えない力が、私にすべきことをせよと言っている気がしてならなかったのだ。だから、私はこの縁談に踏み切った。〈白〉と〈紅〉の溝を埋め、二度と彼のような犠牲を出さない世の中にするために」
イングリッドはその言葉を聞いて、マルクスの政策は単なる綺麗事ではなかったのだと気づいた。
貴族社会にはびこる偏見の病魔を相手に、敬愛していた騎士の無念を晴らすための弔い合戦が本質なのだろう。そう考えると、ただの理想主義者のように思えた彼が、少々人間臭く感じる。
「だとすれば、イングリッドは本当に無礼なことを申しました。閣下はこれほど〈紅〉の立場になって考えてくださっているのに……」
申し訳なさそうに、ノルダール卿が頭を垂れる。話を聞いていたイングリッドも同感だった。家の運営と利益のみを追求する典型的な貴族だと思って反発してしまったが、ちゃんと血の通った人間だと知った今では。
「ならば、ノルダール卿。もう一度、彼女と話をさせてはもらえるよう、取り計らってはくれないだろうか。結婚の是非はともかくとしても、私はどうしても解いておきたい誤解がある」
「それは構いませんが……誤解とは?」
「私の言葉が足りなかったせいで、イングリッド嬢は血筋のみで選ばれたと思ってしまったようだが、それは違うのだ。少数ではあるが、ノルダール以外にも〈紅〉の女はいなくはないからな。それでも、彼女に縁談を申し込もうと決めたのは――彼女が傭兵だったからだ」
その、あまりにも意外過ぎる言葉に、イングリッドの心臓が跳ねた。
「七十年前から続く社会の風潮を変えるには、それ相応の反発があって然るべきだ。私の政策に対して反対する者が出てくるだろう。場合によっては、刺客を差し向けて排除をするような実力行使に出るかもしれん。無論、私は全力で守ろうと思っているが、それでも必ず間に合うという保証はしてやれない。
……だから、私が駆けつけるまでの間、自分で自分の身を守れる強い女性が望ましかった。〈紅〉の血を引き、なおかつ武芸に長けた女性。その条件を満たすことができるのはイングリッド嬢だけだ。彼女の来歴を調べた時、令嬢の身分で傭兵稼業をしていることに驚愕したが、同時にこんな適材がいるのかと歓喜した。彼女こそ、私の理想を叶えるに相応しい相手なのだ」
惜しげもない称賛に、イングリッドは頬が熱くなるのを感じた。
(そっか……わたしだからなんだ……)
マルクスはイングリッドの血筋だけを欲したのではない。昔の自分も、今の自分も全部ひっくるめて、ちゃんと見ていてくれたのだ。その上で、自分しかいないと言ってくれている。自分にはそれだけの揺るぎない価値があるのだと、力強く訴えてくれている。これまでの頑張りが正しく報われたような気がして、イングリッドの胸の内に温かいものが広がっていくのを感じた。
ただ、同時に。
(だったら、それを最初に言え――!)
思わず、イングリッドは内心で叫んだ。
「……確かに。それを一番に話していれば、イングリッドも飛び出さなかったかもしれませんな」
(ほんとそれ!)
苦笑するノルダール卿に、マルクスが気まずそうに応じる。
「その通りだ。理想の相手をみすみす逃したくない思いが強くて、必然性ばかりを押し付けてしまった。いちいち振り返っても焦りすぎだ。言い訳するわけではないが、その歳まで武芸一辺倒でやってきたもので……まあ、その、なんだ。女心を学ぶ機会にとんと恵まれなかった。そのツケだな」
あの生ける伝説と同一人物とは到底思えないような、情けない言い訳を口にするマルクスに、イングリッドは思わず笑いがこぼれそうになった。
しかし、誤解が解けたところで、この求婚を受けるのかと問われれば――即断はできない。傭兵の生活を気に入っているのも本当だ。対等な仲間たちとの仕事の日々は代えがたいものだ。結婚すれば、その生活は終わりを迎えるだろう。
(……金払いが良い方に与するのが傭兵の流儀かぁ)
だからこそ、傭兵としての自分が言う。勝つため、生き残るためにあらゆる手段を使うのが傭兵だ。その中には、傭兵をやめるという選択肢も当然ある。それが、よりよい人生を手に入れるための戦いを制するために必要であるのなら。
(よし、決めた)
意を決し、イングリッドは応接間のドアを開けた。
二つの視線が自分の方に向く。マルクスの視線が気まずそうに揺れた。
「……イングリッド嬢。さっきは――」
「先程はご無礼を働きました、閣下。どうかお許しください」
言い募ろうとするマルクスより先に、イングリッドは恭しく頭を垂れた。
「う、うん」
「失礼ながら、閣下の御心は聞かせていただきました。閣下がわたしの血だけを見ていたわけではないこと。今のわたしを評価していて下さっていたこと、誠に嬉しく思います」
「……聞いていたのか」
やや羞恥の表情を浮かべるマルクス。それすらも品がある男だった。
「閣下の望む世界を作るためには、わたしは適任でしょう。いえ、お話を詳しく聞いた今では、わたししかいないとさえ思います。ですが、閣下。わたしが申し上げたことは嘘ではございません。わたしは、この二年で積み上げた暮らしがあります。閣下が評価して下さった傭兵としての生活が。それを捨てるこという決断は……今すぐにはできません」
「……そうか。そうだろうな」
「しかし、閣下にも時間がない。すぐにでも結婚相手を決めなくては、政策そのものが立ち消えてしまう。せっかくの復権の機を無為にしてしまうのは、わたしとしても惜しい。その気持ちも偽りはございません。そこで提案があります」
「提案だと?」
マルクスの問いかけに、イングリッドは顔を上げて獰猛な笑みを浮かべた。
それは、没落令嬢としての顔ではなく、一人の女傭兵としての顔だった。
「わたしたちは剣士。どちらかしか取れないのであれば、剣で決着するのが一番納得がいくのではございませんか?」
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※次回の更新は5月4日21時を予定しています。




