聖母にして大淫婦(三十と一夜の短篇第74回)
「ねえ、一緒に死んでくれない?」
平素と変わらぬ明朗な声調口調で彼女がそう言うので、冗談としか思えなかった。レストランでの食事を終えて初めてホテルへ誘おうと考えをめぐらせていた私は、冷水を浴びせられたような心地になる。
私にも彼女にも家庭があり、労働者の相関によって恋に結びつけられる。家族といるよりも長い時間を共有するうちに、私は彼女のやさしさに惹かれていってしまった。妻と子に不平も不満もない。きれいでやさしい彼女に、いつの間にか母性を求める私がいただけだ。
彼女の正確な年齢を知らないが、私と同年代であろう。とても、高校生の子供を育てあげたような年齢には見えない。無理に若作りをしているような感じもなく、二十代の若手と張りあえるような華がある。
「若いころはギャルだったんだろうなあ」と、先輩社員の彼女を見て思った。若いころに嫌悪していたギャルという人種も、年を経て落ちつくものなのかもしれない。若いころの私はギャルが嫌いだったから、第一印象で彼女に恋心を懐くことはなかった。こうなる未来を、予測できなかった。誰にでも分け隔てのないやさしさも、ここにいるカスどもの誰にでも体を許しているのだろうと偏見の目で見ていた。
社内において、私の味方は少ない。十年以上在籍している古株どもは、自分たちの無能さに気づいていない。「ここの常識は業界の非常識」と訴える私の正論を、理解できる頭を持っていない。雁首揃えて地獄の存在を知らず、ぬるま湯に浸かりつづけて脳がふやけきっている。それでいて、軍隊めいた空気を出して入る新人入る新人を威圧する。とりあえずの村八分と、効率のわるい難癖。
地獄を経た私は、入社して一年は下手に出て我慢していた。できれば目立たずに、平穏に過ごしたかったからだ。次元のちがう人間に「右腕だ」と言われ使役され、精神を病む寸前まで追いこまれるのは御免こうむりたかった。
それを経た甲斐あって、連中の無能さはよくわかった。上には上がいるが、ここの連中は私よりも格下の素人集団だった。それがわかれば、遠慮する必要もなかった。連中はつけあがる一方だったので、憤激して思いきり詰めてやった。私のロジックハラスメントに、連中は尻尾を巻いてしまった。なにか反論しようものなら、百倍にして返してぐうの音も出させない。圧倒的に私が正しく、数字で実績を示しているからだ。
爾後、私にたいしては完全に臆している。直接文句を言ってくることもなくなり、群れて陰でこそこそ言うほかになにもできない。そのようにして社内で嫌われたわけだが、ダニ以下の連中にどう思われようが知ったことではない。口を利かないぶん、ダニのほうが謙虚だからだ。
全体的に、この会社のレベルは低い。誤解のないように言えば、私のレベルが高いわけではない。高くもなく低くもなく、平均値だと思っている。ここが底辺の吹きだまりというだけのことだ。私は声を大にしてそう言いつづけているが、連中は聞く耳を持たない。肥大したプライドは、成長を妨げる。業務に無駄が多く、二度手間が多い。無駄を無駄と思えずに「これができないと仕事にならない」と偉そうに宣い、改善しようともしないし改善策も思いつけない。
能力差があるのは致しかたない。くぐりぬけた修羅場もちがえば、性格も異なるし向き不向きもある。それら個性を見極めて、駒のひとつひとつとしてうまく使いこなす......それこそが、仕事のできる人間の仕事だと私は考える。
私が連中を赦せなく思うのは、その腐った人間性である。新人が入ってくるのが気に喰わんと言わんばかりの態度を、その後もあらためようともしない。「私」という経験に学ばず、入ってくる新人を寄ってたかっていじめて辞職に追いこむ。「あいつはできなかった」だの「率先して動かない」など、教える能力を欠き碌な指示も出せない分際で生き生きと抜かすのだ。四十すぎた人間が寄ってたかって、三十まえの若者を潰すのだ。それを恥とも思わない、みっともない連中だ。能力的にも恥ずかしいレベルなわけで、能力と出す空気感との乖離は甚だしい。
たかが仕事なのだから、入ってきた人間は迎えいれて大事にすればいい。入社してくれた人間を定着させるのだって、仕事のうちだ。連中はそれを解さない。新人が入るのが気にいらないのなら二人三人ぶん働けばよいのだが、一人前どころか半人前の仕事もしていない。それで「人が足らない人が足らない」と騒いでいるのだから、なにがしたいのだかわからない。私が入るまえは入っては辞め入っては辞めの繰りかえしだったというが、有能無能を問わず雰囲気についていけないだろう。ノイローゼ寸前で入社したときに受けた仕打ちを、私は死ぬまで忘れないだろう。
仕事のレベルは同じでも、彼女は連中とはちがった。連中とは毛色のちがう私にも入ってくる新人にも、分け隔てなくやさしい。毎日のように飴やお菓子をくれて、安らぎをあたえてくれた。雑談は彼女と、定着した後輩らとしか交わさない(自然、定着した後輩は私の同志となる)。彼女の存在がなければとっくのとうに、この会社を辞めていたにちがいない(彼女がいても、この会社のレベルが高かったら辞めているが)。彼女の靨は、私にとって一筋の光明だった。ノイローゼ寸前で入社したときに受けたやさしさを、私は死ぬまで忘れない。
彼女のやさしさにほだされ、会食を重ねるようになった。飯を食いに行くくらいだったら、倫理に反しないだろう。後輩らも連れていっていたから、当初は不倫の意思など毛頭なかった。ただ連中の悪口をおおっぴらに、おもしろおかしく語れる場は心地よいものだった。彼女は笑顔でやさしく、私の言葉を聞いて頷いてくれる。腹の底でどう思っているのかはわからない。カスどもとの寝物語にでも、聞かれるのかもわからない。それはむしろ、好都合ですらある。連中がやるつもりなら、徹底的にやってやる。
それにしても彼女は、誰にたいしてもやさしい。もどかしいとは思わない。誰にたいしてもそうでなければ、彼女は彼女ではない。その分け隔てのなさこそが、彼女の彼女たる所以である。彼女を尊い存在として、崇めたてまつるようになっていた。
「おれがあなたの息子だったら、マザコンになっちゃって大変だろうね」
軽口を装ってつい、彼女に気色のわるい本音を洩らしてしまった。すると彼女は目をきらきらさせて、「ええー、ほんとに?」と私の目をまじまじと覗きこんできたのだ。
「じゃあ、ママの子になっちゃう?」
冗談にちがいない彼女の返しは、私を痺れさせた。理性がぐらついた。そうだ、私は彼女の子になりたいのだ......平素のように笑ってその場を凌いだが、昂奮が頭をくらくらさせる。
ドラッグストアで大人用オムツとおしゃぶりと涎掛けを買い、鞄に積めこんで彼女との会食に臨んだ。きょうこそはバブバブしたいと、意を決した。彼女であれば、私の願望を受けとめてくれるにちがいない。痴態が会社の連中に露見しようと、もう知ったことではない。クビならクビで一向に構わない......欲望が完全に、思考を崩壊させていることを自覚する。破滅も致しかたないと、覚悟は決まった。
「一緒に死んでくれる?」
そんな私のグロテスクを知ってか知らずか、彼女は申し出を繰りかえした。「いいよ」と答える。この流れでいけばあるいは、自然に冗談めかして誘えるかもしれない。
「ええー、ほんとに?」
彼女はうれしげに微笑み、私の右手を両手で強く掴んだ。袖口が落ちて、露わになった彼女の両手首を見るのは初めてだった。横一直線に幾筋も走るグリッヂのような痕跡を見つけて、さあっと血の気が引くのを感じていた。