【コミカライズ】その笑みを向けないで
「ウェリア、は、その……どんな菓子が好きなんだ?」
「お菓子、ですか?」
オリヴァー王子にこんな問いかけをされるのは十二年間の婚約者生活で初めてだ。
一体どんな心境の変化だろうか。
本人も慣れていないからか視線が泳いでいる。
「ああ、聞いたことがなかったと思ってな」
「果物を使ったものが好きです」
「果物か、ここにはないな……。よし、用意させよう」
「そんなつもりでは!」
予測もしていなかった質問に焦ったとはいえ、もう少し気を使うべきだったと後悔する。
毎回王子とのお茶会の時に用意される、クッキーとかクッキーとかクッキーとか、そのあたりから選ぶべきだったのだ。
十二年間、定期的に会っているのに出されたお茶菓子のレパートリーはクッキーのみ。それも毎回同じものなのが悲しいが、お茶菓子に文句をつける女にはなりたくないと黙っていた。
なのにこのタイミングでずっと我慢していたことが漏れてしまうなんて……。
王子の婚約者失格だ。
あからさまに肩を落とすわけにもいかず、心の中で落ち込んでいると、オリヴァー王子は優しく微笑んだ。
「菓子くらいで気にするな。婚約者だろう」
「え……」
そう、微笑んだのである。
心を許した相手には塩対応なオリヴァー王子が、外向けの笑顔を見せた。
頭が真っ白になり、その後はどんな話をしたのか覚えていない。
自室に戻ってからようやく緊張が解けた。
つうっと涙が頬を伝い、頭からは耳が、お尻の付け根からは尻尾が生える。
人化が解けても怒る姉さんはもういない。
五年前に異国の地へと嫁いで行ってしまった。
私に甘い父さんと兄さんはまだお仕事中で、城から帰ってきてはいない。
だが明日になったら二人に話さなければならない。
捨てられたのだ、と。
オリヴァー様は最近懇意にしているスーミン様に切り替えるつもりなのだろう。
スーミン様はつい三年ほど前まで平民として暮らしていた。
だが数百年に一度現れると言われる光の力が発現したことで、遠縁の男爵家へ引き取られ、国営の学園にも入学された。
慣れないことも多く、未来の癒しの聖女としてのプレッシャーもあるだろう。
だが彼女は一切苦労を見せず努力をし続けた結果、歴代の聖女よりも強い力を身につけた。
卒業後は王都近郊だけではなく、国内外での活躍が期待されている。
神殿に入るとの噂だったが、癒しの聖女は国どころか世界の宝である。
過去、多くの聖女がその国の王族と結婚し、子を成している。
スーミン様と年の近い王族はオリヴァー様ただ一人。
上の王子二人はすでに結婚されて子どもがいるし、下の王子は先月三歳になられたばかり。
王家と縁を繋ぐのならば、未婚のオリヴァー様との婚姻が妥当だろう。
そうなれば婚約者の私は捨てられる。
珍しい力を持つスーミン様と、公爵令嬢だが出来損ないの私ーー選ばれるのはスーミン様だって、それが当たり前のことだって私だって分かってる。
それでも寂しいし、悲しい。
「力が弱くても君は素敵だ」
出来損ないの私を認めてくれたのが嬉しくて、出会ってすぐに恋に落ちた。
人前での王子らしい態度も、心を許した相手の前でだけ王子モードがオフになって塩対応に見えてしまうところも、どちらも好きだった。
口数が少ないのも、口角が少しだけ上がった笑みも心を許してくれている証拠だと安心していた。
けれど所詮は出来損ない。
もっと良い条件の相手がいればすぐに捨てられるような人間なのだ。
スンスンと鼻をすすれば、完全に獣の姿に変わってしまう。
出来損ないの私は体調が悪くなったり、精神が不安定になるとすぐにこの姿になってしまうのだ。
我がガレル家は獣人の血を引く家系で、多くの子どもが獣人の身体で生まれてくる。
幼い頃には勉学よりも先に自らの能力の調整が出来るようにひたすら変身の魔法を叩き込まれる。
大抵数日もすれば耳や尻尾を隠せるようになるが、私の場合は半年近くもかかってしまった。
体調を崩せばすぐに獣の姿に変わり、そこから獣人の姿に戻るのにも時間がかかる。
獣の力が弱いおかげで見た目がオオカミではなく、いつまで経っても子犬のような姿のため、大騒ぎにはならなかったが、幼少期は人型よりも獣の姿で暮らすことが多かった。
今もこの姿になると戻るのに三日はかかってしまう。
人型を保てるようにしなさい! と言うのは姉さんだけで、他の家族はもういっそ獣の姿で暮らせば良いのではないか。その方が身体の負担も少ないだろうと言ってくれた。
実際、四歳になるまでは私もこのまま……なんて考えていた。
そんな時にオリヴァー様に出会い、彼の隣に立つために必死で変身の魔法を身につけた。
勉強やダンス、手習いだって頑張って、六歳になって婚約者に選んでもらえた。
ーーだが、このザマである。
十二年経っても変身の魔法だって完璧ではないし、力は弱いまま。勉強だけはなんとかトップレベルを保っているけれどギリギリキープしていけるレベル。
「ずっとこの身体のままでいればよかった」
あの時、恋なんてしなければこんなに苦しまずに済んだのだ。
獣の身体では重たい布団を手足でかき分けて中に潜る。
そのまま頭だけ隠すような形で深い眠りについたのだった。
「んんっ……くわぁっふ」
一日中眠って過ごしたいと思っても変わらず朝はくる。
頭だけ突っ込んだせいで目の前は暗いがもう朝だと本能が告げている。
それになんだか外が騒がしい。
頭を振ってグイグイと布団を持ち上げ、顔を出す。
「っ! 動いた! クイクイしてる! 可愛い!」
「写真っ! 写真は撮れてるか⁉︎」
「そう慌てずとも写真には収めております。先ほどの可愛らしいお尻もバッチリですわ」
なぜか私の部屋には姉さん以外の家族が勢揃いしていた。
しかも母さんは以前、異国の行商人から買ったコンパクトカメラなるものを手にしている。
従来のカメラと違って女性でも持ち運びが可能な上に数秒で写真を撮ることが出来るそれは母さんのお気に入りで、よく庭先で花を撮っている。
そのカメラのレンズが今日は花ではなく、私に向けられている。
目が合えばバチっとシャッターを切られ、強い光に思わず目を閉じてしまう。
「可愛い」
「小さい」
「このまま我が家で養いたい……」
フラッシュが瞼の裏に残っているようで、パチパチと何度も瞬きを繰り返す。
父さん達は好き放題言いつつも、手の指先がピクピクと震えている。
母さんはともかく、父さんと兄さんは自分も獣の姿になれるのに、私の身体がお気に入りらしい。
この姿になると最低でも一刻は解放してもらえない。
「父さん達はなぜ私の部屋に?」
「昨晩は食事もいらないと言って部屋から出てこないと聞いて、何かあったのではないかと不安になってな」
「心配で見に来てみれば、ベッドの近くに洋服が散乱しているからもしや体調でも崩したのではないかと思って」
そう話す父さんと兄さんの手は早くモフモフを堪能したいとばかりに動いている。
外では真面目で厳しいと評判の二人だが、家の中では全く欲望を隠そうとはしない。
「私はウェリアの獣姿が見られると聞いて、これは写真に収めなければと急いできましたわ!」
母さんは初めから建前すらも脱ぎ捨てて、いっそ清々しい。
カメラにばかり目がいっていたが、母さんだけまだパジャマなので、急いできたと言うのも嘘ではないのだろう。
父さんは母さんの手元を覗き見ながら「意外と綺麗に撮れるものだな。買ってよかった」と力強く頷いている。
「ところでウェリア」
「何でしょう?」
「なんで獣の姿になっているんだい? その様子だと体調が悪くて、という訳ではないんだろう?」
「それは……」
部屋の入り口付近で震えていた兄さんだが、目を細めてズズイと近寄ってくる。
どうやら兄さんの目はモフモフで誤魔化されてはくれないらしい。
逃げようにも後ろはベッドの縁。
降りられなくはないが、短い足では降りたところで逃げ切るのは困難だ。
なら布団の中に籠城をして! と先程まで入っていた布団を掻き分ける。
けれどそれも失敗に終わった。
兄さんが私の身体をヒョイッと持ち上げてしまったのだ。
搔き分けるものがなくなった前足は悲しくも空を切り、とても残念な姿となっている。
「怒らないから兄さんの膝の上でお話ししてごらん?」
ね? と首を傾げながらも、兄さんの目には優しさなどない。
話し方次第では、兄さんが王家に喧嘩を売ってしまいそうな気さえする。
この兄は妹の敵となり得るものは排除しようとする人なのだ。
狙った訳ではないが、昨日寝室に篭るという判断は正解だったようだ。
昨日の勢いで話していたら今頃兄さんが何をしていたか……。
想像してぶるりと震えた。
「ちょっと待て! ここは当主である私が話を聞くべきだろう! そう、当主で父の私が!」
「父さんは今日、会議でしょう。もうそろそろ出ないとマズイのでは?」
「うっ……。ならせめてウェリアの頭を撫でてから」
ウェリア〜と情けない声を出す父さんに頭を差し出し、ついでに肉球もプニプニされてから馬車を見送る。
短い足を左右に振れば父さんの頬は溶けるんじゃないかというほどに緩んでいた。
「さぁウェリア、お話ししてくれるかな?」
「……話さないとダメですか?」
膝の上に乗せられた上で撫でるように柔らかくホールドされ、逃げられるはずがない。
それでも一縷の望みをかけて見上げれば、兄さんは困ったように笑った。
「話してくれないと僕はウェリアが昨日関わった全ての人間から話を聞かなくてはいけなくなる。愛する妹との交流時間が減るなんて、あまりにも兄が可哀想だとは思わないか?」
可哀想なのは兄さんのシスコンに巻き込まれる周りの人たちだ。
言葉通り、少しでも関わったものなら洗いざらい昨日の行動を全て吐くように言われるのだろう。そして納得するまで離しはしない。
ならばここでフォローしつつも話してしまった方がいい。
多分それが一番被害が少なくて済む。
「……オリヴァー様がね、王子様の笑顔で笑いかけたの」
兄さんに誤解されないように、探り探りで言葉を落とす。
「王子様の笑顔って、あの余所向けの?」
「そう。それ以外もなんだか様子がおかしかったわ」
「その時、何かされた?」
低い声が頭に降り注ぎ、切るところを間違えたと反省する。
ダークサイドに落ちそうな兄さんの腕をポンポンと叩き「何もされてないわ。安心して」と伝える。
だがすぐには安心できなかったようで「ウェリアが獣の姿になるだけのショックを与えている時点で何もしていない訳ないんだ。標的がわかれば後はこちらで……」と不穏な言葉を漏らす。
これは危ない。
父さんもいない状況で兄さんの暴走を止めるのは私しかいない!
ブンブンと身体を振ってホールドから脱して、兄さんにタックルをかます。
「兄さん、私の話を最後まで聞いて!」
「うっ……モフモフ……」
ちなみにダメージを受けるのは私だけである。兄さんにぶつかったせいで頭がフラッとする。
それでも効果がなかったわけではない。
少しは兄さんの冷静さを取り戻せたようだ。
再びダークサイドに落ちて行かぬうちに事情を説明せねばならない。
モフモフされたまますうっと息を吸い込んで兄さんをまっすぐと見つめる。
「何かされたわけではないけれど、分かってしまったの」
「分かったって何が?」
「オリヴァー様はきっと私との婚約を解消してスーミン様と結婚するんだわ」
「誰かがそう言ったの?」
「いいえ。でも私を捨てるなら相手はスーミン様でしょう? 家格は低いけれど癒しの聖女だもの。誰も反対なんてしないわ」
「なんで解消される前提で進んでいるのかは分からないけれど、ウェリアはオリヴァー様が嫌いなの?」
「好きよ。でもオリヴァー様はきっともう私のことなんて婚約者とも思っていないわ。オリヴァー様が悪い訳じゃないの。オリヴァー様は何も悪くないの……」
何か言われたわけではない。
オリヴァー様はもっと良いタイミングで切り出そうとしていたのかもしれない。
だが私が気づいて、勝手に傷ついた。
ただそれだけのことだ。
そもそもが政略結婚。
より益がある方に傾くのは道理である。
「そっか……。ならしばらく人の姿になるのも、外に出るのも止めようか。学校も三年の後期なんてほとんど授業がないし、体調不良ってことにして休んじゃおう。夜会も欠席のお手紙出しとくね」
「え、でも……」
「ウェリアの言う通り、婚約が解消されるなら別に頑張って夜会に出ることもないって。父さんには僕から話しといてあげるし、王子にもうまく伝えてあげるさ、久しぶりに家でのんびりと過ごそうよ」
婚約が解消されると分かっているのなら、このタイミングで周りの印象を悪くするのは得策ではない。
むしろここで明るく振る舞うことで、婚約発表時にこちら側も二人の婚姻に納得したと、国を思って身を引いたと思わせることができ、ガレル家としてもプラスに働く。
けれど兄さんはその反対を行こうとするのだ。
そんなことをして次を探す際に不利に働かないかと心配で兄さんを見上げるが、ニコニコと微笑むだけ。
「兄さんがそういうなら……」
きっと何か良い考えがあるのだろう。
なかったとしても家族のお荷物にならないように頑張らないと。
小さな手にグッと力を入れれば、兄さんはモフモフボディを顔の高さまで持ち上げた。
「戻れるようになっても僕がいいよっていうまでウェリアはのんびりと獣の姿で過ごすこと! 約束だよ」
「わかったわ」
兄さんとの約束を機に、私の引きこもり生活が始まった。
自室のベッドは上り下りが大変なので部屋に犬用のベッドを設置してもらい、ご飯もこの姿用に肉や野菜を小さくカットしてもらっている。
朝は兄さんと父さんに一通りモフモフされてから馬車を見送り、母さんの部屋に設置されたベッドで眠る。
この身体では少し動いただけで疲れてしまうのだ。
お見送りの後は毎日昼までスヤスヤと眠っている。
母さんはそんな私を撫でたり、写真に撮ったりしながら、手紙を書いたり、刺繍をしたりと過ごす。
お昼を食べてからは二人でゆったりお茶をしたり、屋敷の中で写真撮影をしたり。
夕方になれば帰ってきた兄さんと父さんにブラッシングされたりモフモフされたりーーと毎日自堕落な日々を送っている。
ふとした瞬間、こんなことをしていて良いのかと悩むことがある。
授業数が少ないとはいえ、ほかのご令嬢たちはまだ学園に通っているわけで、お茶会や夜会だって毎日のように開かれている。
情報だって入ってこない。
ダンスだって決して上手くはないので、日々練習していないとすぐにダメになってしまいそうで怖い。
けれどそんなことを考えている時に限って、兄さんや父さん、母さんは私の身体を撫でてくれるのだ。
「可愛いウェリア」
その言葉で、今はいいかと思えてしまうのだから不思議なものだ。
今日もお仕事から帰ってきた父さんに撫でられながら、ウトウトと瞼がくっついてしまいそうになる。
「眠かったら寝てもいいんだよ」
「んんっ、もう少し起きて……」
「おやすみウェリア。今は頑張らなくていいんだ」
何も頑張らない生活が何日も続き、きっと今頃王家との話が進んでいるのだろうと思っていた。
ーーだが、自堕落生活十日目にして異変に気付いた。
「母さん?」
お昼寝の時間に起きると母さんの姿がなかった。一度だけならまだ分かる。
けれどそんな日が何日も続くのである。
机の上には書きかけの手紙や刺し途中の刺繍がある。お手洗いに行ったにしてはなかなか帰ってこない上、来客があるにしても何日も続くなんておかしな話だ。
ベッドから抜け出し、屋敷を歩く。
階段の付近にたどり着くと聞きなれた声が耳に届いた。
「ウェリアに会って話をさせてください」
「あの子は体調を崩して寝ておりますので」
オリヴァー様と母さんの声だ。
淡々と言葉を紡ぐ母さんとは違い、オリヴァー様の声はどこか焦っているように聞こえる。
「やはりあの日出したものの中に何か食べてはいけないものが入って……」
「昨日もお伝えした通り、アレルギーなどではございません。ですがとても人に会えるような状態ではありませんのでお引き取りください」
「体調を崩しただけで婚約解消なんてするはずがないだろう! 他に何か理由があるはずだ。気を損ねるようなことをしてしまったのなら謝る。だから話だけでも」
「これ以上、私からお話しできることはございません。どうかお引き取りください」
「なぜ、なぜなんだ……」
オリヴァー様は苦しげで、声だけ聞けば私との婚約解消を望んでいないように聞こえる。
だが婚約解消を望んでいないのなら、なぜオリヴァー様は突然態度を変えたのか。
その答えが知りたくて、音を立てないように階段を降り、玄関を出てすぐの花壇に身を隠す。
本当は人間の姿で理由を聞きたいが、兄さんとの約束を破ることは出来ない。
息を潜めながら、なんとかこの姿で会話を図れないかと様子を窺う。
しばらくすると肩を落としたオリヴァー様が外へと出てきた。
だが母さんも一緒だ。
きっと母さんは私がオリヴァー様に接触することを良く思わないはず。
今出て行けばすぐに回収されてしまう。
だからといってこのタイミングを逃せば、いつ会えるか分からない。
私が起きたことに気づかれていないこのタイミングがベストだ。
なんとか接触して、彼の本当の気持ちが知りたい。
「また、来ます……」
馬車のドアが開かれ、王子が母さんにお辞儀をした時、ちょうど馬車から視線が外れた。
今だ!
ダッシュで馬車まで走り、ピョンっと飛び乗った。
危なく落ちそうになりパタパタともがいていたが、ギリギリ誰にも発見されなかったらしい。
王子も御者の人もブランケットの中に隠れている私に気づくことはなく、馬車が発進する。
普段の私なら絶対にするはずのない行動で、きっと少ししたら屋敷中で大騒ぎになることだろう。
帰ったらきっと怒られる。
冷静になれば勝手に人型に戻るよりもすごいことをやらかしてしまったと分かる。
けれど冷静でなんていられなかった。
「はぁ、またダメだった……。このまま婚約解消されてしまうんだろうか。彼女の言う通り、長い間、ウェリアに甘え過ぎていたんだろうな……はぁ……」
オリヴァー様はため息を吐きながらブランケットに手を伸ばす。
彼は必ず車内でブランケットを使用するのだ。
防寒対策というよりもただ単に落ち着くのだろう。その上でいつもモソモソと手を動かしている。
だが今回は中に私が入っている。
使われるよりも早く顔を出せば、王子の身体が小さく震えた。
「犬? もしかしてガレル家の子どもか?」
「キャン!」
どうやら私だとは気づいていないようだ。
婚約解消について聞きだすには犬の真似なんてしないほうがいいのだろうが、警戒されてはこのまま屋敷に引き返されてしまう。
必死に馬車に乗り込んだのが台無しだ。
犬だと強調するようにキャン! っともう一度吠えれば「いや、ただの子犬か」と受け入れてくれたようだ。
犬だと思っているからか、早々に王子様モードは外れる。
「間違って乗っちゃったのか。ガレル公爵のところに連れて行って聞かないと……。君も知らない人について行ったらダメだぞ」
「キャン!」
「もふもふかわいっ……いや、ダメだ。もうウェリアを心配させるようなことはしないと誓ったんだ。こんな浮気を疑われるような行動は……ああ、でも可愛い。撫でたい、モフモフしたい」
「クゥン?」
犬と浮気を疑われるようなことをしてるんだろうか?
もしかして私以外の、だれか獣人の血を引く女性と良い仲に??
我がガレル家はオオカミ獣人の血を引いているが、国内外には他の種の獣人の血を引く家はいくつかある。
さすがにガレル家の親戚内で……とは考えたくはないが、含まれている血が同じくオオカミ獣人の血ならばより優秀な方を迎えたいという気持ちも分からなくはない。
「クゥン……」
ただでさえ出来損ないなのに、こんな盗み聞きまがいの事をする悪い子だし……。
今進められているらしい婚約解消をこのまま受け入れた方がオリヴァー様のためになるのではないか。
しょぼんと肩を落とせば、耳と尻尾も同時にぺたりと垂れる。
「かわいっ、じゃない。ダメだ、ダメだ。ただでさえ婚約解消されるかされないかの瀬戸際なのに、子犬誘拐疑惑まで付けられたらたまったものじゃない。ここは間違って乗ってしまった子を保護したとして毅然な態度を取り続けないと……って、あ!」
帰ろう。
少し時間はかかるかもしれないが、歩いて帰れない距離ではない。
帰ったら母さんに謝らないと。
走っている馬車を止めて欲しいと頼むようにドアを前足でトントンと軽く叩く。
「危ないだろ。ちゃんと城についたら公爵の元に連れて行ってあげるからここで待っていろ」
ひょいっと抱き上げられ、王子の膝の上に乗せられる。
王子は私の体を撫でながら「これは保護であって浮気ではない。決して浮気ではない。浮気ではない」と繰り返している。
けれど動く手を止めようともしない。本当に動物が好きなのだろう。
なら犬のふりを貫こう。
どうせすぐに婚約が解消され、会うことは出来なくなるのだ。
最後くらいいい思い出が作りたい。
ダメだとわかっていながらも、気持ちよく撫でてくれる手にスリスリと頬を擦り付ける。
「人懐っこいな。可愛がられているんだろうな。ウェリアもたいそう可愛がられていて、婚約が決まるまでも公爵が渋ってなかなか許可を出してくれなかったし、やはり私は頼りないんだろうか……」
子犬相手だと思っているからか、ポツリと心の内を明かしてくれる。
頼りないなんて思わない。
あまり交流が得意ではないのに、外では毅然と振る舞って王子としての信頼を確立している。
近くにいたからこそ彼の努力をよく知っている。
きっと他のご令嬢と一緒になってもやっていけるはず。
体の向きを変え、『オリヴァー様なら大丈夫ですよ』と彼の胸に前足を置く。
大丈夫、大丈夫と軽く二回足を動かせば「そういえば昔、ウェリアもこうして励ましてくれたな……」と零した。
どうやら意図が伝わったらしい。
ならもう大丈夫だろうと思ったのもつかの間、王子の表情はますます暗くなっていく。
「ウェリアがいなくなったらやっていける自信がない……。そもそもウェリア以外の令嬢を愛するなんて無理だ。彼女の代わりと連れてこられた時点で家族の情すら湧く気がしない。かといってウェリアの前ではありのままでいられて楽だからと甘え続けてたのは私の落ち度だし、彼女の食べられないものを未だに把握できてさえもいない。スーミンに指摘されたようにせめて好物だけでも聞こうとすればかしこまられて、お兄様達の真似をして笑ってみたけど絶対変に思われた……。あれが決め手になっちゃったのかなぁ。私が王子らしい王子だったなら、お兄様達みたいに振る舞えたら、ウェリアも好きになってくれたんだろうか」
はぁ……と深いため息を吐きながら、私のもふもふボディを抱きしめる。
オリヴァー様が徐々に暗くなっていく一方で、私の頭はパニック状態だ。
情報が上手く整理できないせいで、まさかオリヴァー様って私のこと好きなの? なんて馬鹿げた結論に達しそうになる。
そんなことない。私が他の令嬢よりマシだというだけ。
それは付き合いは長いからであって、決して恋愛感情なんてものではない。
落ち着け落ち着け。
私の心、落ち着け。
抱きしめられながらも深呼吸を繰り返せば「あ、苦しかったか? 悪い」とオリヴァー様による拘束が緩められていく。
少し寂しい。
けれどこれも多分勘違いする要因の一つだ。愛されているんじゃない。
犬と思われているから、もふもふを味わわれているだけ。
私は犬。私は犬……。
そう頭の中で繰り返して、自分自身に言い聞かせた。
「仕事中にすまない。少し時間いいだろうか」
「娘との婚約解消についてなら私に言っても無駄ですよ」
「その件についても後ほど時間をもらえると助かるが、そうではなく……」
「ウェリアの話以外に何か?」
「ガレル家に邪魔した際に犬が一緒に馬車に乗ってしまったようでな。そちらの家の子か確認して欲しい」
「この子は……我が家の自慢の子ですね」
父さんは「ありがとうございます」と言いながら受け取ると、私の頭をよしよしと撫でた。
父さんが何を考えているのかよくわからなくて怖い。あとでお説教されるかもと、恐怖で身体を縮こませる。
父さんは基本甘々な分、怒ると姉さんの何倍も怖いのだ。
せめて兄さんの元に連れて行ってくれれば良かったのに、と王子の顔を見てもふわりと微笑まれるだけ。
「やはりそうか。毛並みは素晴らしく、愛くるしい。一目見ただけでも愛されて育ったのが分かる」
「まさかうちの子の可愛さに我慢できなくなって誘拐を!?」
「そんなことあるはずないだろう!」
「冗談ですよ」
「やめてくれ」
「それにしてもこの子が王子の馬車に……。普段はそんな思い切ったようなことをする子ではないのですがねぇ」
父さんはねぇと言いながらこちらを見るが、王子がそれに気づいた様子はない。
「馬車が珍しかったのだろう。ひざ掛けの間に挟まっていた」
「オリヴァー王子は城以外で会おうとはしませんでしたからね」
「そ、それは……」
「王子としての態度を貫こうとするのはご立派ですが、ほんの少しのことで勘違いされるような方に娘を嫁に出すのは親としては心配でなりません」
「……努力する」
「だそうだよ、ウェリア」
「っ!?」
この場ではスルーしてくれると思ってたのに、父さんはわざと私を撫でながら「ウェリアはいい子に待ってて偉いな〜」なんてわざとらしい言葉を吐く。
すごく怒っているのはビンビンと伝わってくる。そしてこのまま逃しはしないとの強い意志も。
「なぜ彼女の名前を呼ぶんだ?」
「父が愛娘の名前を呼ぶことに何かおかしなことでも?」
「愛娘ってまさか!?」
「……すみません。母と王子が話しているのを聞いてしまって、王子が婚約解消を望んでいないように聞こえたのでつい……」
犬のふりをやめ、王子に頭を下げる。
といっても手元に着替えがないので、見た目は獣の姿のままだが。
「望むはずがない! ウェリアがいなければ私は……」
「オリヴァー様……」
「ウェリア。この縁談は政略的なことを考えればバランスを壊しかねないものだ。話が流れたところで当家が害を被ることも王家から睨まれることもない。だから選びなさい。王子との婚約を継続するか、解消するか。お前が望むようにしよう」
利益どころかマイナスを生みかねないのに、なぜ婚約が結ばれたのだろう?
疑問はある。
だがそこを突き詰めれば、今度こそオリヴァー様との縁がなくなってしまう気がした。
何も知らないままでさよならなんて言いたくない。
初めから何もなかったことにはしたくないから、怖いけれど勇気を出して一歩踏み出す。
「オリヴァー様、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ああ、なんでも聞いてくれ」
「なぜいつもお茶とともに同じクッキーを出されるのでしょうか?」
「初めて会った時にずっと食べていただろう。あれならアレルギーは出ないと思ったんだ」
「アレルギー? 私にアレルギーなどありませんが」
屋敷にいた時もオリヴァー様は『アレルギー』というワードを口にしていた。
だが私は生まれてこのかたアレルギーで困ったことはない。
恥ずかしながら嫌いなものはあるけれど、あくまで好みの問題で、頑張れば食べれるものだ。
オリヴァー様の前でなにかを口に入れることを渋ったことはないと思うのだが、心配されるような行動をしてしまったのだろうか。
はて、と首を捻っても思い当たる節はない。
「こんな可愛い姿になれるんだぞ?! 人間と全く同じものが食べられるとどうして言い切れる! イヌ科にとってダメなものは全てのぞいているとはいえ、俺が食べられるものがウェリアには害あるものかと思うと毒見すら信頼できない!」
あのクッキーはオリヴァー様が獣人の血を引く私のために用意してくれていたもので、馬車の中での発言と合わせれば私は捨てられるどころかとても大事にされていたと考えていいのだろうか。
冷静になった頭で情報のピースをパチパチとはめ込んでいく。
「もう一つだけお聞きしたいのですが、あの日、突然好みを聞いたのはなぜですか?」
先ほどのような怖さはもうない。
ただ不思議に思ったことを解決したいだけ。
するとオリヴァー様は恥ずかしそうに顔を俯け、ボソボソと呟いた。
「スーミンに怒られたんだ」
「スーミン様に?」
「彼女は一年生の時にたまたまウェリアの耳と尻尾を見てからずっと君のファンで、君にそっけない態度を取る私に我慢ができなかったらしい」
「ファン……」
「好きなもの一つ言い当てられないなんて婚約者失格だと言われ、私は何も言い返せなかった」
スーミンはウェリアの果物好きを当ててみせたのにな……と落ち込むが、彼女と好物の話どころか世間話すらしたことがない。
耳と尻尾を目撃されていたことと言い、いつの間に情報を仕入れたのだろうか。
私に隙が多いだけなのかな。
知らないうちに嫌われていたよりも全然マシなのだが、今後の行動には気をつけようと心に決める。
「それでも私の婚約者はオリヴァー様ただ一人ですわ」
「っ!」
「オリヴァー様さえ良ければ、私との婚約を継続していただけませんか?」
きっかけはなんであれ、オリヴァー様が私のために勇気を出してくれたことが嬉しい。
婚約を続ける理由なんてそれだけで十分な気がする。
「勿論だ! 公爵、これで婚約解消の話はなかったことになるんだよな?」
「娘が選んだことですから。認めましょう。ただし、オリヴァー王子が娘を泣かせたと分かれば婚姻を結んだあとでも問答無用で連れて帰りますのでそのつもりで」
「神に誓って彼女を幸せにする」
おいで、と開かれた胸に飛びつけば「もっと君のことが知りたいんだ。教えてくれるだろうか?」と弱々しく投げかけられる。
「私ももっとオリヴァー様のことが知りたいです!」
婚約者になって十二年目。
まだまだお互い知らない部分は多い。
けれどこれから先ずっと共に生きるのだから少しずつ知っていけばいいだろう。
「勝手に家を抜け出して、心配かけてごめんなさい!」
「心配ならしてなかったわよ」
「え?」
「だってウェリアが馬車に乗り込んだところをバッチリ見ていたもの。ふわふわなお尻が揺れてとても可愛かったわ」
「なんだと!? 写真っ、写真はないのか!」
「王子の前でカメラを構えるわけにはいきませんでしょう? もしも望遠カメラがあれば二階からメイドに撮らせることはできたでしょうが。全く惜しいことをしましたわ……」
「すぐに商人を呼べ! 望遠カメラと先日買ったカメラをもう一台持ってくるように伝えろ!」
「カメラなら私のものを貸しますわ」
「孫が生まれたら一台じゃ足りないだろう?」
「それもそうですわね」
「孫って兄さんの結婚もまだなのに気が早いですよ……」
「ウェリアの花嫁衣装の撮影会もあるだろ?」
「人型と獣人型と獣型の三バージョン全てを収めないといけないし、カメラが使える人員が多いに越したことはないよな。俺も一台買っておくか」
後日、盛り上がった三人によって撮影会が開かれ、三日ほど朝昼晩とシャッター音を聞く羽目になった。
ずっと撮られ続けるというのも神経を使うもので、怒られるよりも深く反省することとなった。
またオリヴァー王子との関係はあの一件を機に良い方向へと向かったのだが、困った面もある。
「写真を撮ってもいいだろうか」
母さんからの布教を受けてカメラを手にした王子が、事あるごとに写真を残そうとするようになってしまったのだ。
幸せそうな表情でカメラを構える王子に嫌ですとも言えず、城に来るたびにフルーツタルトを頬張る私の姿がアルバムに追加されるようになってしまったのだった。