第一章 暗躍する者
……体に感覚が戻って来る。と同時に尾崎令は、意識を取り戻し、目を開ける。
ここは……?
起き上がろうとして、腹に激痛が走る。
「ぐあっ!」
痛む体を上体だけでも無理矢理起こす。
痛みと共にはっきりと思い出した。
確か黒い狼もどきが現れて、黒服の少女がそいつを倒して、それから……。
「動かない方が良い」
さっきの少女の声がした。しかし、その声にはさっきの鬼気迫るような調子は帯びていなかったし、何より命令形ではなく、促すような言い方に変わっていた。
「傷口が開くから」
そう言われて、刺された場所を見る。
服には、刀が貫通した痕と、致死量には到底足りない程の少量の血が付いていた。
急いで服をめくり、確認する。貫かれた傷は存在していなかった。
「一体何がどうなって……」
「大丈夫、傷口は塞いだ」
少女の声のした方を振り向く。
手に持った刀は、既に鞘に収められていた。とりあえず、一安心……出来ない。
黒い狼もどきに与えた初撃だって、俺が反応出来ない速度で抜刀していた。鞘に収めていても安全とは言い切れない。
「傷口を塞いだって縫うでもしたのかよ」
「違う」
そうだよな。縫合の痕はなかったし。
「傷口の組織を直接くっつけただけ」
「どんな方法だっ!」
叫んだせいで腹に痛みが走った。
「大声は出さない方がいい」
そのままの体勢で、痛みが引くのを待つ。
傷口を塞いだ事や襲ってこない所を見ると、俺を殺す気はもうないらしい。
「何で俺を殺そうとした?」
少女に問いかける。
「“アルカナ”かと思った」
――……“アルカナ”か?
刺される前のその言葉を思い出す。
「アルカナって何だ? さっきの黒い狼みたいな奴か?」
「違う。あれは“魔獣”。アルカナは組織の名前で、魔獣はアルカナが作り出した異形の怪物」
「つまり、俺をそのアルカナとか言う組織の奴と勘違いして、刺したってのか?」
こくりと頷く少女。
「だからっていきなり刺すか、普通」
「アルカナの殲滅は、わたし達の最優先事項だから。実力行使に出るのは仕方ない事」
「“わたし達”?」
他に仲間が居るのだろうか。
「私が所属している組織、“機関”の人達の事。機関の目的が、魔獣とアルカナを倒して世界を守る事」
少女の話は、おおよそ現実離れした物だったが、令には少女が嘘をついているようには、思えなかった。
しかし、魔獣や少女の刀のような武器など、真実の裏付けは十分にある。
「勘違いなら、俺もう帰っていいよな?」
「駄目」
Why? 今さっき勘違いを認めたよな。ならなぜ帰ったらいけないんだ?
「もう俺は関係ないだろ」
少女は首を横に振った。
「君は今まで機関について、何か知っていた?」
知るわけがない。機関もアルカナも、今説明されて知ったばかりである。令の記憶には黒い獣とか刀を持った少女なんて無い。あったとしても、ゲームとかアニメだけだ。と、ここまで考えてようやく気付く。誰も知らないという事は、“知っいる人間はもういない”という事だ。ということは……。
殺される。そう不吉な言葉が脳裏をよぎる。だが、それは違うようだ。殺すならさっき刺された時の怪我を治さなければいいだけの話だ。
「……」
「記憶を消させてもらう」
記憶を消す。機関と言う組織がどれだけの科学力を持っているか定かではないが、それ位の事はやってのけるかもしれない。
「こっちはいい迷惑だって。巻き込まれただけなのに何で記憶喪失にならないといけないんだ」
「大丈夫。忘れるのは今日一日だけ」
て事は有紗のおごりの約束も忘れちまうのか。なんて呑気な事を考えていた時だった。
「! 来る!」
不意に少女が声を上げた。
「何が……」
最後まで言えなかった。それは少女が、俺の制服の襟を掴んで思いっきり吹っ飛ばしたからだ。
力任せにぶん投げたのか、さっきまで居た場所から十メートル以上は離れている。随分と怪力だな。
「腹痛てぇ」
刀で思いっきり刺された所が鈍く痛む。
ドン、という衝撃。見ると、少女の周囲、特に俺の居た辺りが陥没している。
「アルカナ!」
本物のアルカナ、らしい。
「……そう吼えるな。機関の“一番”さん」
どこからか、声がした。男とも、女とも知れない、中性的な声。
「なぜ、知っている!」
少女が闇に向かって叫んでいた。辺りが異様に暗い。
「まあまあ、キミはボクたちアルカナにとってはかなり有名だよ?」
少女の視線の先を追うと、そこに居たのは、またも黒服だった。何だろう、黒服はそんなにブームになっているのだろうか。
……いや、ブームじゃないよな。機関にアルカナ。きっとそれぞれの組織の制服……というか戦闘服か。そしてそれぞれにかなり大きなフードが付いているあたり、出来る限り素顔は見せないように、という事だろう。
服が黒いのも、夜に目立たないようにしているからといった所か。昼だと目立ってしょうがないと思うが。
「おや、ギャラリーが混じっているね。ちょうど良い」
アルカナと思われる男(女?)が、俺を見つけると、そう言った。
ちょうど良いだと?
相手側の黒服が、令を見ながら、後ろに控えていたらしい魔獣に命令する。
「さあ、喰らいな!」
その言葉が言い終わると同時に鳥に似た姿の魔獣が令に向かって襲いかかった。この鳥も、規格外のサイズだ。怪鳥という言葉がしっくりくる。
「逃げて!」
すでに刀を抜刀した少女が、令と魔獣の間に割り込むように走り出した。
「おっと、一番、あんたの相手はこのボクだよ」
アルカナが、指を鳴らした。と同時に、少女の近くの地面がえぐれる。何が起きたか、良く分からない。
少女が足を止める。その隙に魔獣が、令に向かって一直線に向かってきた。
まずい、間に合わな――。
「ごふぅっ」
また体に衝撃が走った。吹き飛ばされた位置で、状況を確認しようとする。
少女が魔獣の羽根を切り裂いた所だった。という事は、またも少女に助けられたらしい。
「へぇ。一番お前、このギャラリー庇ってんの? 無駄な事するね」
数では二対一、しかも俺は少女の足手まといになっている。俺でも分かる。不利だ。
「噂と違うね、一番? どうしたのさ。ボクが聞いた限りじゃキミはとても冷酷だって話だったよ? そこのギャラリーが邪魔なら殺せばいいだけだろう?」
「うるさい!」
一番と呼ばれた“機関”の黒服と“アルカナ”の黒服が睨み合う。俺は、逃げる事も出来ず、ただその場で見ていた。
「……まあ、いいや。今日の目的はどうせ“陽動”だしさ」
……陽動だと?
「まさか!?」
少女が驚きの声を上げる。
「そのまさか、だよ、一番。まあ、今回はボクの勝ちってね」
少女の顔がみるみる怒りに歪んでいく。
「じゃーね一番さん」
「待て!」
少女がアルカナに向かって叫ぶ。
「待てって言われて待つ奴はいないよ」
そりゃ悪役だ。……いや、悪役か。
次の瞬間、アルカナの奴も魔獣も溶けるように闇に消え失せた。
「油断していた……」
悔しそうに呟く声が、令の耳に聞こえた。
「大丈夫? 怪我は?」
しかし、それはすぐにこちらを心配するものに変わっていた。
「あ、ああ。お前に刺された所以外はな」
少し不機嫌そうな顔になる。
「大丈夫だ。とりあえずな」
「そう」
こいつには冗談は通じないな、なんて事を考えていた。
「ありがとな」
素直に感謝の言葉を述べた。
「……え?」
少女が、信じられないものを見る目で(心外だ)俺を見ていた。
「ありがとうって言ったんだよ。意味分かってるか?」
その視線の仕返しのつもりで、わざと棘のある言い方をした。
「なんで? 私が巻き込んだようなものなのに、どうして礼を言うの?」
「いや、でも助けてもらったし」
「君を刺したのに?」
「確かにそうだけど、傷はちゃんと治してくれただろ?」
不毛な言い合いな気がしてきたぞ……。
「君……馬鹿?」
「馬鹿、はさすがに傷つくぞ、おい」
少女はわずかに俯くと小さく呟いた。
「……陽動」
アルカナの奴がそんな事を言っていたな。
「陽動って事は、他に本隊ってか、親玉がいたんだろう?」
「多分そう。迂闊だった」
疑問が、令の頭を掠める。
「アルカナは、囮で時間稼ぎして、一体何してたんだろうな」
「きっと死人が出た」
平然と少女の口から物騒な言葉が漏れた。
「し、死人だって?」
「魔獣に喰わせたんだと思う」
何を言っているのか、良く理解出来ない。その事に気付いたのか、少女は説明した。
「魔獣は、人を――正確には魂を喰らう事で、より強くなる。だから、時々こういう風に囮を使って、私達を引き付けている間に、別の魔獣が悠然と魂を喰らうって事があるの」
少女の言った事を頭の中で整理する。
「……じゃあ早く行かないと死人が増えるんじゃないのか?」
「もう遅い。狭間に逃げ込まれた。こちらから探し出すのは、不可能に近い」
狭間、と言うのが何か分からなかったが、どこかへ逃げられて手がかりゼロだという事は理解した。
少女は令に背を向けた。
「とりあえず私は現場に向かう」
そう言って、すでに何度となく見せた高い跳躍で、どこかへ行ってしまった。
「どうすりゃ良いんだ……」
取り残された形となった令はぽつりと一言呟いた。
結局、少女はしばらく待っても戻ってこなかった。つまりは帰ったんだろう。
こちらもただでさえ遅いくなっている上、これ以上帰るのが遅れると正直言い訳にも困るので、若干釈然としないものを感じつつ、急いですぐそこの自宅へと帰路に着いた。
遅れた理由としては、正直に有紗を手伝ったと言うだけで、意外とあっさり済んだ。制服の刺された痕は、木の枝にひっかけた、血はその時一緒に怪我したという事にした(出血量自体そんなに多くなかったので、どうにかなった)。
その後。風呂に入りながら、さっきの事を考えていた。
なんとなく、あの少女の正体が分かったような気がした。
別の世界の人間。俗に言う異世界人。あくまで想像の範囲内でしかないが、あんな怪物じみた人間と、リアル怪物。
そんなもん、この世界に居てたまるか。
それにもう関係ない。
……そう思っていた時期が、俺にもあったよ。